お二人が会うのは久しぶりですか。
- 志方
- 同期のマネージャーの結婚式以来だね?
- 相原
- ちょうど1年ぶりかな。家には初めて来た。
- 志方
- もともとペンションだった建物で、今はここへの引っ越し準備中。
- 相原
- 高地トレーニングになるし、合宿もできそうだね。
卒業後のことをお聞かせください。相原さんは会社にお勤めと伺っています。
- 相原
-
はい。東洋アルミニウム株式会社に勤めています。実業団チームがあるわけではなく、一般社員として入社しました。富士登山駅伝(※)に毎年出場している陸上同好会が社内にあって、富士山で走るのも面白そうだと思ったのが入社のきっかけの一つです。入社して5年間は群馬の工場に勤務して、ちょうど1年ぐらい前に東京本社に異動になって営業を担当しています。
※)秩父宮記念富士登山駅伝競走大会。1913年に始まり、毎年8月に行われている。御殿場駅前からスタートし、富士山山頂で折り返して御殿場市陸上競技場まで走るコースを11区間(47.93km)に分けて競う。
競技としての陸上からは卒業時に引退されたというわけですね。
- 相原
- そうですね。実業団に入るにはタイムも力も足りませんでしたし。走るのは好きなので、今も市民ランナーとして、楽しみながら走り続けています。仕事終わりに子どもを寝かしつけてから週に3日ぐらいは走って、大会にも数カ月おきぐらいに参加しています。
志方さんは実業団を辞めて今は農業に携わっておられると伺いました。大きな方向転換ですが、そこに至るにはどんな経緯があったのでしょうか?
- 志方
-
大学時代から状態が悪いままでしたが、旭化成に陸上部員として入社しました。旭化成は実業団の強豪チームなので、その環境でもまれながら競技を続けていけたらいいなと思っていましたが、レベルが全く追いつかず、1年目は本当に苦しい思いをしました。
2年目も状況は変わらず、秋になっても記録が全く伸びず、走れない期間が長く続いたのでもう潮時かなとチームに辞意を伝えました。止められるかとも思ったんですが、「もう辞めると言ってくると思っていた」と言われ…。でもそれが悔しくて「3月いっぱいまで在籍させてください」という話をしました。
それからはどのように?
- 志方
-
それまでは、大学時代と同じようにチームが用意した練習メニューをこなしていましたが、もう辞めると伝えて吹っ切れたので、監督やコーチの顔色をうかがわずに自分のメニューを自分で立てて練習に取り組みました。それでも理想が高すぎたのか、メニューの内容が自分のレベルに合わずに苦しんでいました。
その様子を見ていたコーチから「設定タイムを落としてみたらどうだ?」とアドバイスをいただいて、メニューを組み替えたら少しずつ走れるようになってきました。大学2年から思うように走れない時期が続いていましたが、このときやっと「自分の状態に合わせて練習をしていけばいいのか」と、陸上との向き合い方が分かったように思います。
ご自身の中で変化があったのですね。
- 志方
-
気持ちも楽になっていましたし、走りもだんだんよくなってきました。総監督の宗猛さんが「あいつを辞めさせるのか」と言ってくださるぐらいまでには復調していました。2016年3月に「最後の大会」としてハーフマラソンのレースに出ることになり、久しぶりに調子がいい状態で臨むことができました。
「いいタイムを出せれば、チームに残れるようになるかもしれないし、場合によっては移籍もできるかもしれない」。そんな期待もありました。でも、久しぶりにいい状態だったのに今度は緊張しすぎてしまい、タイムを出せず…。
宗さんは僕が陸上を続けられるように最後まで動いてくださったのですが、僕の結果がなさすぎたので宗さんの力も及ばす、そのまま退部となりました。実業団時代はみじめな思い出ばかりで、つらい時期でした。
最後は踏ん切りをつけづらい辞め方になってしまったのですね。
- 志方
-
そうですね。久しぶりに調子も上向いてきていたので、レース後も陸上を続けるつもりで練習していました。でも、最後の大会で結果を出せず、致し方なく…。退部しても会社には残れましたし、宗さんからも「走り続けて結果を出せば移籍の道もある」と言われていたので、しばらくは仕事をしながら走っていましたが、フルタイムで働きながら走る時間を作るのはなかなか難しくて…。
部に残るにせよ移籍するにせよ、いずれオリンピックに出られるぐらいの選手になれればいいのですが、ニューイヤー駅伝に出場するのがやっとというレベルなら、苦しい思いをしてまで続けることはないだろうと。大学時代から走れない時期が長すぎて、走ることへの気持ちが冷めてしまったというのもあります。
退部してしばらくして、大学時代に知り合った妻(2016年スポーツ科学部卒、元スキー部選手)と結婚したこともあって、いい区切りだし競技からは離れようと決めました。
競技だけでなく、会社も辞めたのはどのような考えからですか。
- 志方
- 競技を辞めた後のことは、当時きちんと考えていなかったんです。しかも、わずか2年で陸上部を不本意な形で辞めてしまいました。
実業団に入るなら引退後のこともしっかり考えておくべきだと?
- 志方
-
本当にそう思います。チーム選びには、競技者としてどういう選手になりたいかというビジョンが必要ですが、引退後にどんな仕事をしたいかも重要なポイントになります。
自分がどうしたいのか、自分がどうなりたいのか、自分の芯を持ってきちんと考えることです。僕は練習メニューしかり、仕事の目標しかり、あまりちゃんと考えずに来てしまったので、自分の反省を踏まえて強くそう思っています。
会社員から農業に転身したのは、どのような理由からでしょうか。
- 志方
- もともと、一つの会社で何十年も働き続けることがピンと来ていなかったこともあります。妻ともこの後の人生をどう過ごすかということをよく語り合って「二人で何かを一緒にやっていきたいね」という話になり、妻の両親が専業農家だったことから会社員を辞めて農業をやってみようと。退部してから3年間は旭化成の社員として働き、今年(2019年)の3月末で退社しました。
農業はいつから始めたのですか。
- 志方
-
会社を辞めてすぐ、今年の4月からです。妻の実家が専業農家で、そこの従業員という形で。基本は大根ですが、トウモロコシも少々栽培していて、最近1ヶ月前まで収穫で慌ただしい毎日を送っていました。(※取材は2019年11月末)。
農業に携わってみると、収穫という目標に向かって自分なりに計画を立てていくというところが、競技人生の最後に経験した「自分で練習メニューを考えて目標設定をして大会に向けて取り組んでいくこと」に似ているな、と思いました。受け身ではなく自分で考えて計画することが、 今後の自分が必要としていることだと感じました。
デスクワークより体を動かしている方が性にも合うので、自然の中で農業をするという、この選択は間違っていなかったと思っています。
お二人の大学時代を振り返ると、どんな印象をお持ちですか。
- 相原
- 大迫と志方は中学のころから有名選手で、大学入学時点でも、僕らの学年では二人が飛び抜けていました。持ちタイムも速かったですし、力がありました。
二人が学年のダブルエースという感じでしょうか?
- 相原
-
そうですね。大迫は僕と同じ東京出身で、中学生のときから都では有名でしたし、全中(※全日本中学校陸上競技選手権大会)でも3位(3000m)になっていました。志方は兵庫の中学校でしたが、陸上雑誌でよく名前を見ていました。
実は中学生のとき、都の代表として出場した都道府県対抗駅伝(※全国都道府県対抗男子駅伝競走大会)で、移動のバスで志方の隣に座ったことがあります。そのとき、「あの志方がいる!」とドキドキしていました。話し掛けたりはしませんでしたが…。
- 志方
- そうなんだ、知らなかった(笑)。
- 相原
- 志方が区間賞とったときね。
- 志方
- ああ、あのときは区間賞で興奮してたから。それしか覚えてないですね(笑)。あれ、でもあの大会、大迫は出ていないよね?
- 相原
- そうなんだよ、僕が都の選考会で大迫に勝っちゃって(笑)。
大迫選手に勝っていたとはすごいですね。同じ大学に入って、期するものもあったのではないでしょうか?
- 相原
- そうですね。中学のころは、大迫があんなに速くなるとは思ってもいませんでしたが、高校時代には結構な実力差になっていました。大迫は日本のトップを争っていましたが、僕はインターハイにようやく出られるぐらいだったので。
大学時代、お二人は大迫選手をどう見ていましたか?
- 相原
- 彼はトラックで世界を目指していて、駅伝を目指しているグループとは違うところで練習していました。僕の場合は主力選手から成るAチームになかなか入れなかったというのもありますが、Aチームの中でも大迫は別メニューでした。
- 志方
- 渡辺さん(※渡辺康幸駅伝監督・当時)自身が世界で戦ってきた人だったので、世界を目指して戦う選手を後押しするために、別メニューでの練習を認めていました。
志方さんは1年生のときには大迫選手と共に世界ジュニア陸上10000メートルに日本代表として出場し、大迫選手8位、志方さん9位と、まさに「ダブルエース」の活躍を見せていましたよね。
- 志方
- 入学当時は確かに大迫と同じぐらいでしたが、2年生になってから僕が走れなくなってきて、大迫に差をつけられて焦りがありました。悔しさとか情けなさとか、いろんな感情もありました。大迫が自分で自由に練習を組み立てているのを見て、「僕もあれくらいやった方がいいのかな」という思いもありました。
具体的にはどんな思いでしょうか?
- 志方
- 大迫は、「こうすれば強くなれる」というイメージを明確に持って練習に取り組んでいてすごいなと。僕はいま思えば受け身で練習していたので。とはいえ、自分で練習メニューを考えるのは、自分で結果を出す責任も伴います。そこまで引き受ける自信は僕にはなかったので、そこが大迫との大きな差だったかなと思っています。
相原さんは、1・2年のときはなかなか出場機会に恵まれませんでした。やはり悔しい思いがあったのでしょうか?
- 相原
-
そうですね。僕は東京出身で高校も早稲田実業で、箱根駅伝も身近でしたし、臙脂えんじのユニホームを着て箱根を走りたいと思っていました。箱根を目標に練習して、1年のときも2年のときも、本戦直前の集中練習ではメンバーに入っていました。チャンスはあるかもしれないと期待もあった分、選ばれなかった悔しさがありました。
なんとか箱根出場を果たしたくて、3年生になって練習の取り組みを変えました。
どのように変えたのでしょうか?
- 相原
- 僕が2年のとき、早稲田実業高校の先輩でもある西城裕尭さん(2013年スポーツ科学部卒)が、山下りの6区を走りました。西城さんを目標に、走るなら6区と的を絞り、練習も山に特化して行うようになりました。合宿でも山しか走らないとか、自分で考えて練習を組み立てないとダメだと思って…。
3年生で箱根のメンバーに選ばれたときは、喜びと同時に責任も感じたと思うのですが、どんな感情でしたか?
- 相原
-
出場選手登録の16名に入るのはずっと目標にしていたことなので、やっと入れたなという思いでした。いざ走るとなると、早稲田の伝統もあるし、襷たすきをつなぐ責任もあるし、人生の中で一番大きなプレッシャーを感じました。
ただやはり、Bチームでコツコツと基礎練習を続けてきての箱根だったので、続けることの大切さを実感できた。いい経験をさせてもらえた大学生活でした。4年生では夏合宿前にけがをしてしまい、そこからしばらく走れなくて、いいタイムも出ずに結局メンバーには選ばれませんでしたが。
志方さんも、早稲田を選んだのは箱根駅伝が目標にあったからでしょうか?
- 志方
-
僕は関西出身なので、箱根にそこまで強い思い入れはありませんでした。テレビでは見ていましたが…。早稲田を目指したきっかけは、僕が中学2年のときに、都道府県対抗駅伝で当時早稲田にいた竹澤健介さん(2009年スポーツ科学部卒業、北京オリンピック出場)が兵庫県代表として走ったことにあります。そのときに竹澤さんにすごく憧れて、それから早稲田に行きたいと思うようになりました。
関東には箱根を目指して選手が集まってくるし、強くなるにはいい環境だという思いもありました。
志方さんは「走れなくなった」ということですが、それはけがの影響が大きかったのでしょうか?
- 志方
-
周りからはそう言われることが多いのですが、僕としては直接の原因はけがではなく、入学当初から始まっていた違和感にあると思っています。それから、僕の出身校・西脇工業高校では、練習でかなり筋トレをしていましたが、大学ではあまりやらなくなっていたことも原因の一つです。
当時のAチームは、Bチームに比べると練習メニューがある程度個人に任されているところもあって基本の練習メニューが少なく、普段ジョギングで走る量も高校のころより少なくなっていました。
そうしたことが少しずつ重なって、筋力やフィジカル、走力が落ちると同時にけがにもつながり、けがの影響もあってさらに走力も落ちていく、という悪循環でした。
早稲田の先輩でもある瀬古利彦さんは、「30キロ走、40キロ走をやれ」とよくおっしゃいますが、それについてはどう思われますか? 長距離を走ることで故障するリスクもあると思いますが…。
- 志方
- そのリスクもありますが、瀬古さんが言いたかったのは、30キロ走、40キロ走でも壊れない体作りが必要、ということだと思います。長距離を走って故障するのは、それに見合う体がまだできていない、ということではないかと。
- 相原
-
僕も同感というか、僕が3年で箱根のメンバーに選ばれたのは、まさに筋トレやジョギングの量を積んできたおかげかなという気がします。当時の早稲田ではAチームとBチームの練習メニューが違いました。
Aチームと違って、Bチームは基礎力をつけるという意味で、筋トレやジョギングが必須メニューに組み込まれています。大迫や志方のような地力のある選手がすぐ近くにいて、それを見て学べたというのも大きいですが、僕はBチームで基礎練習を積み重ねたおかげで力がついたのだろうなと。
だとすると志方さんは、学生時代に練習法を変えていれば、もっと活躍できたんじゃないかという思いもあるのではないでしょうか? 1年生のときに全日本の5区を走ったときには設楽悠太選手に勝って、16年ぶりに区間記録を塗り替えています。
- 志方
- 「たられば」になりますが悔しい思いはあります。入学当初は大迫と近いレベルで走れていて、1年のときは出雲と全日本も走りました。2年と3年は箱根を走ったし、やり方を変えていれば…と今でも思います。ただ、当時はそのことに気付けず、引退してから気が付いたので、それも含めて実力ということかなと。
先ほど志方さんは走れなくなった理由に、入学当時からあった「違和感」を挙げていますが、それは一体どういう感覚だったんでしょうか?
- 志方
- 左足が蹴れなくなったんですね。普通に走っている途中で、左足だけリズムがおかしくなってしまうというか。普通に走れない。蹴りが弱い感じですね。
それはいつ頃から感じていたんですか?
- 志方
-
2年になってからずっとですね。1年のときの箱根駅伝前に疲労骨折をして、治ってからは普通に走れていたのですが、4月の日体大記録会(※日本体育大学長距離競技会)で初めて経験しました。「なんだろう」と思いましたがあまり気にせず、でも5月の関東インカレ(※関東学生陸上競技対校選手権大会)の10000メートルでまた出て…。
2年のころは走るスピードを上げると出る感じでしたが、3年・4年のときは遅いペースでも出るようになって、だんだんレースが怖くなっていきました。次第に練習でも出るようになって、監督に相談してもトレーナーに相談しても原因が分からなくて。
2年生のときの箱根駅伝2012では8区で区間2位でした。そのときも同じ症状があったのですか?
- 志方
- ありました。渡辺さんには事前に「もし症状が出たら歩いてもいいですか」と伝えていました。「いいよ」と言われて出場したら、序盤で症状が出かかったので少しペースを落として走りました。その後は出ませんでしたが、2位といっても不完全燃焼の走りでした。
苦しい状況でしたね。
- 志方
-
自分なりに対処法を考えようといろんなことを試したら、何が何だか分からなくなって、走り方もだいぶおかしくなってしまいました。大迫はどんどん強くなって焦りもあるし、競技を辞めたい気持ちにもなりました。
僕の中では大迫という存在が大きすぎて、彼に追いつきたいという気持ちをうまく処理しきれなかったところもあると思います。
- 相原
- はたから見ていても苦しそうでした。志方が走れなくなった時期は、Bチームで一緒に練習することもあって、その練習にも志方がついて来られないことがありました。自分たちが助けたいと思っても、できることはありませんでした。
- 志方
-
自分で解決するしかないんです。仮説段階ではありますが、競技を辞めたあと冷静になれたのか、やっとあの違和感がハムストリング(※太ももの裏の筋肉)に関係があるのではないかと気付くことができました。神経伝達とか筋肉の使い方とか、そういうところに原因があるだろうと。
当時、もし周囲に気付いてくれる誰かがいたら状況は変わっていたのかも、とは思います。大会で東海大の両角速監督に会ったとき、「志方、焦るなよ」と言われて、自分では「焦ってないのにな」と思っていたのですが、今振り返ると、かなり焦っていたのでしょう。
トレーナーが足を触れば分かるような症状ではないし、周囲からは「気持ちが弱いからだ」ということを言われて、つらかったですね。
原因が分かったのなら、また走ることができるのではないでしょうか。
- 志方
-
そうですね…。結局僕は、競技者として世界を目指していましたが、目指すにはトレーニング方法などを含めて自分の行動が伴っていなかったということだと思っています。
今の農業中心の生活が気に入っているので、競技の第一線に戻ることは考えていませんが、トレーニングそのものは趣味を超えたレベルで続けています。楽しみながら市民ランナーとして大会に出る、ということはしていきたいですね。来年5月にも、地元で行われる100㎞マラソン(※星の郷八ヶ岳野辺山高原100kmウルトラマラソン)に出場しようと思っているんですよ。
- 志方 文典(しかた・ふみのり)
-
2007年4月―2010年3月 兵庫・西脇工業高校
※3年時の全国高校駅伝3区で日本人最高タイムを記録。7年後に長野・佐久長聖高校の2年生・中谷雄飛選手(現・早大競走部)に破られた。
2010年4月―2014年3月 早稲田大学競走部
※2010年7 月 世界ジュニア陸上10000m出場(9位)
2014年4月―2016年3月 旭化成陸上部(※2019年3月まで同社社員)
自己ベスト:5000メートル14分04秒77、10000メートル28分38秒46、ハーフマラソン1時間03分20秒
- 相原 将仁(あいはら・まさひと)
-
2007年4月―2010年3月 東京・早稲田実業高校
2010年4月―2014年3月 早稲田大学競走部
自己ベスト:5000メートル14分20秒12、10000メートル29分56秒40
- 取材・文:萱原 正嗣
- フリーランスのライター・編集者。IT企業での勤務を経て、コンテンツ制作の世界に。自然科学・理工系の制作物を中心に、人物ルポなども幅広く掛ける。理系ライター集団「チーム・パスカル」所属。
- 撮影:石垣 星児
- 編集:早稲田ウィークリー編集室
- デザイン:中屋 辰平、PRMO