全ては今に必要なこと。人と比べて焦らなくてもいい
シンガー・ソングライター/ボイストレーナー 花れん(かれん)

TA(ティーチングアシスタント)として通っていたという早稲田キャンパス 17号館武道場にて
社会現象を巻き起こした『夜に駆ける』や、今年リリースした『アイドル』など、数多くの楽曲でヒットチャートを席巻する音楽ユニットYOASOBI。ボーカル担当ikura(幾田りら)さんの歌声に日々支えられている、という人も多いはずだ。その透明感ある歌声を陰で支える人物こそ、長年にわたって幾田りらさんのボイストレーナーを務める花れんさん。自身もシンガー・ソングライターであり、さまざまな表現活動に関わる彼女は、早稲田大学人間科学部出身。学部の授業で直接音楽を学ぶ機会があったわけではない。それでも、早稲田時代の経験が今の指導スタイルにも生かされていた。
大事なことは、アーティストの“心の状態”を守ること
今をときめくYOASOBIのikuraさんを始め、数多くのアーティストや元宝塚トップスター、ミュージカル俳優、アイドルなどの歌唱指導を務め、厚い信頼を得ている花れんさん。ボイストレーナーとしての窓口は作っていないにもかかわらず、紹介が紹介を呼ぶ形で指導の要望は途切れない。だが、ボイストレーナーになる人生はまったくの想定外だったという。
「今でも、『ボイストレーナーですって言ってもいいのかな?』という感覚があります。そもそも、人に教えることなんてできないし、絶対にやらないだろう。と思っていましたから」
それでも、どうしても教えてほしいという人がいたり、旧知のミュージシャン仲間からの依頼で若手ミュージシャンの育成講座で指導をすることに。その中に、当時まだ中学生だった幾田りらさんがいた。
「1回だけの講座だったはずが…気付けば今も続いています。その後、幾田りらさんの個人レッスンをすることになり、シンガー・ソングライターとしての活動を支えていました。途中からYOASOBIのikuraとしての活動が始まったのですが、最初に『夜に駆ける』という曲のデモを聴いた時は『どこで息継ぎするんだ!?』と驚きましたね」
こうして2019年秋にデビューしたYOASOBI。その活躍ぶりは音楽業界の枠を超え、時代を象徴するムーブメントを生んだ。
「彼女も環境が一気に激変して、やることなすこと初めてのことばかり。生演奏を初披露したのが『NHK紅白歌合戦』(2020年)でしたからね。チームYOASOBIのメンバー・スタッフは、常に新しいもの、誰も見たことない景色を作り上げようとするので、私も毎回刺激をもらっています。ワクワクも大きいですが、その分、彼女にかかる重圧も相当なもの。技術的な指導だけでなく、さまざまな重圧を乗り越えるための“心の安定剤”に私がなれているのだとしたら嬉しいです」

YOASOBIのツアーでikuraさん(左)に帯同しているという花れんさん(photo by Shinsuke Yasui)
アーティストの“心の状態”を守ること。それが花れんさんのトレーナーとしてのモットーだ。
「私自身のシンガーとしての経験を振り返って、『こういうことを教えてくれる人がそばにいたら、もっと伸び伸びと、確信を持ってやれたかもしれないな』と、かつての自分が欲していた人の役割を誰かにやっている感覚です。生の舞台やライブでしか味わえない特別な何かがあるはずなので、その一期一会に万全の心と体で臨んでほしいと思っています」
そのためにも、指導においては技術的な修正以上に「その人のエネルギーの流れ方を重視したい」と語る。
「教える上で意識しているのは、その人が一番リラックスしたときに出しているエネルギーを、本番の熱量を伴ってさらに最高の形で発揮できるようにすること。でも、萎縮するとそれはできません。人と比べたり、周りの評判だったり、アーティストを萎縮させてしまう要因は、この世界いくらでもあります。それに打ち勝つ強さも当然必要ですが、見なくていいものもあります。その“見なくてもいいもの”から守りたいし、各アーティストが本来持つ自由な心を伸びやかに解き放ってもらいたい。こういうタイプのボイストレーナーは珍しいですね、とよく言われます。でも、私は技術的なことを伝えるボイストレーナーとして、そして共に走る“伴走者”として、彼らの横にいるつもりです」
実際、指導するアーティストたちの反応からも、花れんさんのボイストレーナーとしての特異性が見て取れる。
「初めての指導では大笑いする人もいて、俳優の珠城りょうさん(元宝塚トップスター)は、笑いが止まらなくて何回もレッスンを中断しました。体や喉の構造、筋肉の説明をする上で、私自身が“筋肉になった気持ち”で表現したり、ある事象になりきっていたりする姿が面白いそうです。おかしくても何でも、狙いをしっかりイメージしてもらうことが大事なので、笑われてなんぼだと思っています。そして、楽しくレッスンしている方が効果は大きいと思います」
写真左:珠城りょうさん(左)のライブツアーに同行中、珠城さんのために愛知の熱田神宮の“こころ守り” (気持ちが落ち着くよう心の平穏を祈念したお守り)をプレゼント
写真右:レコーディングで元宝塚トップスター望海風斗さんに歌唱指導を行った。(左から)ワタナベエンターテインメント代表取締役社長渡辺ミキさん、花れんさん、望海さん、音楽プロデューサー武部聡志さん
無駄なことなんて何もない。とにかく、前に進み続ける
「人に教えるだなんて…」と語る花れんさんだが、振り返れば人間科学部時代の経験を生かせる場面がたくさんあるという。

大学4年の頃、太田先生(中央)と夏季体育講習で新潟県松代へ行ったときの一枚。左から3人目が花れんさん
「学生時代は情報生理学の授業で神経伝達について学んだり、故春木豊名誉教授の身体心理学のゼミで呼吸と身体運動との関連性・協調性を学んだり、結構ちゃんと勉強に打ち込みました。声を出すことも結局は神経伝達が鍵なので、ボイストレーニングにおいても、その伝達が効率よくできているか、阻害していることは何かを考えたりもします」
また、太田章教授(スポーツ科学学術院)の体育の授業のアシスタント経験も“教えること”の原点だったと回想する。
「学部生向けの授業だけでなく、社会人向けの講座でもアシスタントを担当したので、さまざまな立場の社会人の方と毎週のように触れ合う機会がありました。今にして思うと、いろんなタイプの人と向き合うことも含め、“教えること”につながる部分がありましたね」
そもそも、早稲田大学を志望したのは「人間に興味があったから」と語る花れんさん。当時まだ誕生して10年ほどの人間科学部は、まさにうってつけの学部だった。
「とにかくいろんな世界を見てみたかった私にとって、『人間を科学する!? ここしかない!』と思ったんです。私の父も早稲田大学の卒業生で、『早稲田には一風変わった人間もたくさんいるけど、ものすごい天才もいる。いろんな人を自分の目で見てくるといい』と送り出してくれました。東京での生活も、学生生活での学びや仲間との出会いも含め、本当に充実した日々でしたね」
写真左:大学入学の頃に大隈記念講堂前で
写真右:大学1年の春、初めての海外旅行に選んだ渡航先は、子どもの頃から憧れていた北欧、フィンランド。サークルの先輩に感化されてバックパッカーで1人旅をしたときの1枚
人に興味があり、出会いを大切にする。学生時代から変わらない花れんさんの生きざまは、教える立場において“相手の理解の仕方を知ろう”とする姿勢につながっている。
「“理解の仕方”は人それぞれで異なります。自分事として腑に落ちないと、伝えたエクササイズやパフォーマンスの仕方も、その人に染み込んでいきません。だから、人によってアプローチは変えています。同じ内容なんだけど、言い方・伝え方を変える。『あ、伝わったな』と私が思えるまで手法を変えるように工夫しています」
シンガーとしてもボイストレーナーとしても、さまざまな経験を重ねてきた花れんさん。だが、ミュージカルや歌の世界に飛び込んだのは大学3年生のとき。遅い出発であり、経験はほぼ皆無だったからこそ、大学卒業直後はまだ何者でもなかった。

大学3年の頃、ミュージカル俳優の仲間と。花れんさんは中列左
「ずっと不安でした。大学4年のときなんて、皆が就活をする中でミュージカルの稽古があって、卒論も忙しい。自分が取り残されている恐怖感はすごくありました。『早稲田を出て、就職もしないでいいの?』みたいなことを言われたりもしたけれど、やりたくない方向に行くことは“心が死ぬ”と思ったんです。だから、怖くてもとにかく前に進もう、と思い続けました。結果的に、無駄なことなんて何もなかったな、前に進み続けてよかったなと思います」
その前に進む姿勢や立ち止まらないことの重要性を、今を生きる学生にも伝えたいという。
「若い頃って、人と比べてしまって焦ることは多いと思うんです。でも、『焦らないで』と伝えたいですね。生き方の速度は人それぞれだし、その人にしか出合えないものは必ずあります。でも、止まったり、心を閉ざしてしまうと出合えない。私は人に興味があったから、自分から自然と心を開いていたんだと思います。大事なことは人とのつながり。そして信頼を得られるような行動を続けること。結果やお金は、きっと後から付いてきます」
取材・文:オグマナオト(2002年第二文学部卒業)
撮影:番正 しおり
【プロフィール】
愛媛県宇和島市出身。早稲田大学在学中よりシンガーとして活動開始。シンガー・ソングライター、作詞家・作曲家としての楽曲提供、コーラスサポートやコーラスアレンジ、CM出演やCMソング歌唱、舞台・映像音楽制作、ラジオ番組パーソナリティー、ナレーション、イベントMCなど、活動は多岐にわたる。2007年には国立競技場で行われた大学創立125周年記念・日韓サッカー交流試合において早稲田大学と韓国・高麗大学校両校の校歌を日本語と韓国語でアカペラ独唱した。近年はボイストレーナー・歌唱指導としての活動も増え、メジャーアーティストや元宝塚トップスター、舞台俳優たちから厚い信頼を得ている。担当アーティストは、YOASOBI・ikura、幾田りら、早希、NOMELON NOLEMON、みきまりあ、小玉ひかり、HALDONA、あるくとーーふ、石野理子、masa、真琴つばさ、望海風斗、珠城りょう、瀬戸かずやなど 。うわじまアンバサダー(宇和島文化大使)も務めている。
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