早稲田大学歴史館 助手 袴田 郁一(はかまだ・ゆういち)
2032年、早稲田大学は創立150年を迎える。大学ではそれを記念し、大学史資料センター(現・歴史館)が中心となって、早稲田の歩みを振り返る大学史『早稲田大学百五十年史』(以下、『百五十年史』)の第一巻をこの春に上梓した。
ただ、早稲田には既に全八巻の『早稲田大学百年史』(以下、『百年史』)をはじめ、七種もの大学史を刊行してきた。そのため『百五十年史』一巻の時代(創立~終戦〈1882~1947年〉)などはもう随分と振り返ってきたのだから、今回は『百年史』などをざっと要約するだけでいいのでは、という意見も多かった。
けれども『百年史』から数十年、その間に発見された資料と、研究の発展で新たに明らかになったことがあった。また、時代の変化、学問を取り巻く世情の変化によって新たに注目されるようになったテーマもあった。このため『百五十年史』は、あえて重複を厭(いと)わず、80年目や100年目とは異なる「150年目の現地点」ならではの視角によって再びその歴史を振り返る。
戦争と早稲田
日中戦争・太平洋戦争は、早稲田大学にも極めて大きな爪痕を残した。『百年史』は、その悲劇を実にありありと描く。が、早稲田と戦争の関わりは悲劇や被害だけで語ることはできない。
当時の早稲田は有力私大の一角として、むしろ教育面でも研究面でも政府の意向にかなり同調し、時にはそれを先取りして戦争協力を推進していた。田中穂積総長は「諸君がペンを捨て、剣を取るべき時期が到来した」と訓示し(※1)、積極的に出征学生を送り出した。研究では私大で珍しく理工学部を擁したこともあり、文理双方から軍研究を推進した。
(※1)『早稲田大学新聞』1943年10月13日
戦争被害の側面を強調しがちだった『百年史』に対し、『百五十年史』はこれらの「貢献」も取り上げる。戦争期に関する研究が当時に比べ深まったためでもあるし、また『百五十年史』が「公正かつ相対的に記述する」ことを編集方針に掲げたためでもある。
今の時代もいずれの時代も、学問は常に社会に対する意義を問われる。時代ごとで早稲田が果たしてきた社会的役割を考えることは、将来的に大学が社会の中でどうあるべきかという問いかけにつながる。そのためにも『百五十年史』は、たとえ「早稲田大学の評価を毀損(きそん)する事柄であったとしても、弁護的な筆致に陥ることなく」、できうる限り公平に叙述することを目指した。

完成した『早稲田大学百五十年史』第一巻
学生の日常
『百五十年史』は大学当局側だけでなく、そこで実際に生活する学生にも積極的に焦点を当てるよう目指された。『百年史』でほぼ扱われなかった、戦前の女子学生に関する記事もその一つである。
とはいうものの、大学の公文書には学生の状況が分かるものは少ない。記録されるのは特定の運動に関わる学生、あるいは「早慶戦切符事件」のような騒動での学生の動向ばかりで、そうではない大多数の一般学生の日常を追うことは難しい。
その中で、早稲田大学元教授の今和次郎(1888~1973年)が残した早稲田近辺の記録や、当時の学生の日記は、往時を知る大きな手掛かりになった。
「考現学」を標榜した今教授は、「何百年後かの後の考古学者に余分な手数をかけさせないように」(※2)と、学術の対象になりにくかった「現代」の流行や風俗に関する著作を多く残した。下の図では、当時まだ創業12年の金城庵、今はなき三朝庵の店名も確認できる。「何百年」といわず百年後の『百五十年史』でも今教授の研究は大いに活用された。
(※2)今和次郎「早稲田付近各種飲食店分布状態」(『早稲田学報』376号、1926年)

今和次郎「早稲田付近の飲食店分布図」(『早稲田学報』443号、1932年)。昭和6(1931)年の調査に基づく。高田牧舎や金城庵などおなじみの名前も確認できる
一方、学生の日記として、例えば「最後の早慶戦」にも出場した森武雄氏の日記のように、学徒出陣を前にした一学生の生々しい心情がつづられるものもあれば、戦時下の大学生活をごく淡々と記す日記もある。しかしこれにより、戦争最末期でもほそぼそと講義が維持されていた実態が判明した。あるいは戦時下で学生の出席が大きく減る中、それをくんだ教員が「へんな声でもいゝよ」と代返を促したと記す日記もある。これら貴重な当時の様子の数々は、近年になって所有者やご遺族の厚意で早稲田大学に寄贈されたものが多い。『百五十年史』はこうした資料協力の下で編纂(さん)された。
当時においては「普通」「日常」であることも、歴史を編む際には思いがけず重要な史料となる。現在のSNSも、『二百年史』『三百年史』の頃には大いに貴重な史料になるかもしれない。

「2008年度小林巽氏寄贈資料」(歴史館所蔵)。1945年の日記。日々の覚書の中に空襲の記録も見える