■物語3■ 激闘2日間、史上初のテレビ生中継が伝えたドラマ
田中 晃(たなか あきら)WOWOW代表取締役社長
長野県生まれ。1979年第一文学部卒。日本テレビ入社後は野球・箱根駅伝の中継などを担当。同局メディア戦略局次長などを歴任し、スカパーJSAT取締役執行役員専務などを経て2015年6月より現職。
箱根駅伝の2日間にわたるテレビ生中継は1987年、日本テレビによって始まりました。当時、同局のチーフディレクターとして、番組全体を統括する立場にあった、WOWOW代表取締役社長の田中晃さんに思い出を語っていただきました。
箱根駅伝はNHKのラジオ中継や各局のニュース報道はありましたが「箱根の山」、つまり5区・6区をテレビで生中継するのは、電波状況が悪く技術的に不可能といわれていた時代でした。
局内でも確信があったわけではなく「とにかくやってみよう!」という状態で本番まで何度も実験を繰り返しました。全国の系列局からの応援を受けて配置した人員が約650人、うち300 人が5区・6区を担当しました。現地のホテルからホールを借りて寝泊まりし、食事は13食連続で冷たいお弁当。過酷な状況を乗り切ることができたのは、どの放送局もやっていないことにチャレンジする高揚感、使命感があったからだと思います。
かつて箱根を走ったOBに取材を重ねると、皆さん口をそろえて「襷をつなぐことの価値」を熱心に語ります。だからこそ、放送では走る人の価値観を最優先に表しました。「今、〇〇大学が1位です」と伝えるだけでなく、大正9年から続く大会の歴史と情念の積み重ね、走れなかった選手の思い。それらが襷を通して脈々と受け継がれている、というドラマを表現できなければ、箱根駅伝を中継する資格はありません。シード権争いや体力が尽きてフラフラとなる選手を追い、トップを走る選手がこれほど映らない中継スタイルは、世界でも珍しいでしょう。
現代のスポーツイベントはメディア・スポンサーが果たす役割が大きいのですが、箱根駅伝は違う。長い歴史を紡いできたのは学生たちの意志と情熱なのです。戦争で中断しても復活できたのは、学生たちが「走ることで元気を出そう!」と奮い立ったからです。これからの箱根駅伝の歴史を継いでいくのも、今の学生の力だと思います。
■物語4■駅伝主将「創部101年目のえんじの重み」
スポーツ科学部 4年 高田 康暉(たかだ こうき) 鹿児島実業高校出身
中学生のときに陸上を始め、北京オリンピックに出場した竹澤健介選手(2009年スポーツ科学部卒)が箱根駅伝で走る姿に憧れて、「えんじのユニホームを着て駅伝に出たい」と思い、早稲田大学に入りました。入学後、オリンピックで日本人として初の金メダルを取った織田幹雄さん(三段跳び)、南部忠平さん(同)をはじめとする多くの五輪メダリストや、瀬古利彦さんなど、日本の陸上界を引っ張ってきた先輩がたくさんいることも知りました。常に世界を見据えている早稲田大学競走部への誇りを持つようになりました。
創部101年目の駅伝主将として、今、えんじの重みを強く感じています。普段のトレーニングでも新しい取り組みが始まりました。出雲駅伝、全日本大学駅伝と目指した結果は出ていないのですが、「戦える」という自信が芽生えたレースでした。自分たちがやってきたことを信じて、箱根駅伝に挑み、自分自身も、チーム全体を加速させるような走りをしたいです。
■物語5■沿道からエールを送れ!
応援部主務 社会科学部 4年 林 怜矢(はやし れいや)
箱根駅伝では応援部の部員約80人が、往路・復路のスタート・ゴール地点で必死にエールを送っています。移動は自動車部がマイクロバス2台で支援してくれて、まさに学生が一丸となった応援です。

上:「待ってた!」の声援に選手も一踏ん張り(芦ノ湖) 下:感動のゴールでは、応援にさらに熱がこもります(大手町)
【1日目・往路】
大手町(往路スタート地点)
午前7:00 応援スタート。集まった学生・校友の皆さんを盛り上げて、号砲の瞬間にピークを持っていき校歌で応援。
↓ ※自動車部のマイクロバスで移動
芦ノ湖(往路ゴール地点)
選手が通り過ぎるときに校歌や応援歌『紺碧の空』でエール。
【2日目・復路】
芦ノ湖(復路スタート地点)
午前7:00応援スタート。
↓ ※再び、自動車部のマイクロバスで移動
大手町(復路ゴール地点)
学生・校友でひしめき合っており、応援部の周辺はひときわ大きな人だかり。長い距離を走り切った選手を迎えるときは、最高の盛り上がりとなります。