「森に子どもたちの遊び場を作って、恩返しがしたい」
社会科学部3年 菅 新汰(すが・あらた)
1961年、東北・三陸海岸沿いで起きた山林火災「三陸フェーン大火」で、約4万ヘクタールを消失し、5名の死者や多数の負傷者を出すなど大きな被害を受けた岩手県田野畑村。その復興活動に関わったことがきっかけで、同村との交流を続ける公認サークル「思惟の森の会」が2018年度、設立50周年を迎えました。当時、後に初代会長となる故・小田泰市商学部助教授が学生を引き連れて村で行った復興へ向けた植林活動は現在、村民との交流を中心とする自然保護活動などに発展しています。節目の年の幹事長として、今年9月に同村で行われた記念式典に参加した社会科学部3年・菅新汰さんに話を聞きました。
――「思惟の森の会」とはどのような活動をするサークルなのですか。

「思惟の森の会」会員(2018年9月)
早稲田大学の公認サークルで、平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)からも公認プロジェクトとして認定を受けているサークルです。岩手県田野畑村にあるサークルの合宿所「青鹿寮(あおじしりょう)」を拠点に行う春、夏、秋の年3回の合宿が活動の中心です。村から借り受けている二つの山の手入れや育林活動の他、漁業や牧畜など村の1次産業や祭り・イベントのお手伝いなどをして村の方々と交流しています。
寮では自分たちで割った薪(まき)で、米を炊き、風呂も焚(た)くという共同生活の中で、都会にはない大自然を五感で味わいながら学ぶことができます。合宿の最後には村の方々を寮に招いて、私たちが料理を振る舞って語り合います。11月に行った秋合宿は、幹事長としては最後の参加になったのですが、「来年も、再来年も来いよ」とたくさんの人が声を掛けてくれて、感動して涙腺が緩んでしまいました。
――50年以上の間、田野畑村とはどのような交流を行ってきたのですか。

初期の植林の様子
1961年に起きた「三陸フェーン大火」と呼ばれる大規模な山林火災が交流のきっかけです。フェーン現象による乾燥した強風によって火が燃え広がり、田野畑村の山林は焼き尽くされてしまいました。サークル創設者となる当時、商学部助教授であった小田泰市先生は、田野畑村の自然に魅せられて火災が起こる以前から村を訪れていました。その縁もあって村で翌年から始まった植林事業に、小田先生は学生を引き連れて参加しました。
小田先生は「厳しい環境の中で生きてきた田野畑の村人と触れ合い、右も左も学生も教師も関係なく、同じ星の下で同じ釜の飯をつついて人生を語り合うことにこそ、教育の原点がある」という「思惟の森構想」を掲げ、1968年にサークルを設立しました。地域発展のために「教育」を最も重んじるという「教育立村構想」を掲げていた田野畑村とも理想が合致し、交流が進んでいきました。
――50年の重みを感じることはありますか。

田野畑村で行われた設立50周年式典
一つの地域とサークルが50年の交流を続けるというのは、なかなかあることではないと思っています。50年前に植えた木は、今はもう大木になっています。村で行われたサークル設立50周年記念式典では、村やOB・OGの方々など200人近くが参加して祝ってくださり、50年間の活動を振り返るスライドも上映されました。発足当時の苦労話もたくさん聞くことができて、積み上げられた信頼、強い絆にあらためて気付かされました。私たちの代から新たな50年を作っていきたいと思いました。
――活動の中で感じたことはどのようなことですか。

枝を払う菅さん
私たちが手入れする山は約20ヘクタールあるのですが、植林自体は既に終わっていて、木は育ちきっている状態です。倒れそうな木を切ったり、枝を払ったり、林業のサイクルを学びながら手入れ・管理をしています。しかし今、ひたすら植林し、森を拡大していく時代とは違った、新しい目標を持つことの必要性を感じています。サークルの主な活動は現在、村の方々との交流が主体になっているのですが、その中で知った衝撃的事実をきっかけに新しい構想が浮かびました。
――衝撃的事実とはどのようなことですか。
私たちは自然を求め、田舎を求めて、田野畑村で活動をしています。しかし、村の子どもたちは、意外なことに自然の中で遊ぶ機会がないのです。田野畑村には熊も出ます。学校の友達の家は遠く、歩いて行けるような距離にはありません。親は共働きが多く、子どもたちを安全に外で自由に遊ばせられません。子どもたちは、田舎育ちなのに森の中で遊んだことが少ないという状況なんです。
――新しい構想とはどのようなものですか。

丸太橋を作っている子どもたち
今年の夏合宿から、森を子どもたちの遊び場にするという「思惟の森プレイ・パークプロジェクト」を始めました。従来の公園のように遊具があって決められた遊びをするのではなく、子ども自身が遊びを作り出すという樹木や地形を利用した「森の遊び場」です。実際にのこぎりを使って切り株のステップを作ったり、木と木をロープでつないで川を渡ったり、丸太を使って橋を川に架けるなどして、子どもたちが遊びました。
50年以上、森を育てることで多くを学ばせてもらいましたから、何とかして村に恩返しがしたいんです。三陸沿岸道路(※)の開通に合わせて、道の駅「たのはた」が寮の近くに移転する計画(完成目標2020年)があるなど、行政も動き出しています。村と協力して、親が安心して子どもを遊ばせられるような自然体験ができるコースを作れるといいと思っています。しかし、これは後輩たちが考えていくことですので、この構想は変わることもあるし、もしくはさらに発展していく場合もあります。

切り株のステップで遊ぶ子どもたち
※ 東日本大震災の復興道路として整備が進められている道路で、「三陸縦貫自動車道」「三陸北縦貫道路」「八戸・久慈自動車道」から成る。
――幹事長は12月で代替わりします。最後に一言ください。
田野畑村の人口は現在約3500人です。しかし、20年後には2000人を切るという予測もあります。そうなると、サークル自体の活動も縮小してしまいます。これまでの活動は「学生が田野畑村で学ばせてもらう」という側面が強くありました。これからは、おこがましいことかもしれませんが、貢献とまでは言えないまでも、村のために「何か」がしたいと思っています。「思惟の森プレイパーク・プロジェクト」はその一つの方法です。50年という信頼があるからこそ、できることがあるのではないかと思っています。
第717回
