2015年4月30日、早稲田キャンパス近くの南門通り商店街にグランドオープンした「早稲田小劇場どらま館」。すでに多くの団体がその舞台を彩ってきました。演劇研究・批評を専門とする演劇博物館助手による公演のレビューで、早稲田演劇の今をお伝えします。
Vol.3 2016年9月2日(金)・3日(土)
(劇団)森『上海標本日記』
きれいはきたない、きたないはきれい——一見矛盾するようにも思われる『マクベス』の魔女の言葉は、しかししばしば真実を映し出す。たとえば愛は嫉妬や執着を生み、あるいは性行為もまた美しさとはほど遠い。端から見れば滑稽でさえあるだろう。醜さと表裏一体の美しさはときに受け入れがたいものとなる。(劇団)森『上海標本日記』が描くのは、「醜さ」から逃れようとする一人の少女と、「美しさ」を追い求める人々とがなすフーガのような追走劇だ。やがて目指すは魔都上海。夜景にコーティングされた猥雑(わいざつ)さが人々を魅了する、魔女の言葉を体現する都市——。
サーカスで働く13歳の少女メリは初潮を迎えたことをきっかけに、それまで演じていた少年役を降ろされ、「きれいなお嬢様の役」を与えられる。「ああ、なんてものに生まれついてしまったんだろう」と「女」の目覚めを呪うメリはサーカスを抜け出し旅に出る。道連れは一冊の日記帳とどこかで出会ったエビオスという名の美しい少年。少年は「きみの目隠しになってあげる」と言うのであった。夢か現(うつつ)かわからぬままに、場面は目まぐるしく移り変わっていく。メリはときに男たちに弄ばれる夜の蝶になり、かと思えば茉莉花の見せる幻に溺れる幼気(いたいけ)な少女となる。メリに思いを寄せ、「夢から覚ま」そうと彼女に迫るミチコをエビオスが撃ち殺してしまったことをきっかけに、現実からの逃避行あるいは世界の混濁は加速していく。
「目隠し」であり逃避行の手を引く少年エビオスは、現実を見ようとしないメリが作り出した幻だ。「美しい少年」エビオスは、少年役を演じたかつての自分に執着する心が生み出したメリ自身の分身に過ぎず、エビオスへの恋心とはつまるところ幼い自己愛でしかない。互いに見つめ合い「あんたが目をつぶったらあたしは見えなくなる…いなくなっちゃうの」という二人は合わせ鏡のように互いが互いを映し出すことで自身の存在をギリギリのところで保っている。
「欠けてても半月の方がきれいだと思う」というメリの言葉は両義的だ。月の比喩で「女」として成熟することへの忌避感を示すメリは一方で自らの言葉を裏切るように、欠けるところのない両性具有的な存在でありたいと願う。あるいはもちろん、大人になることで身につく「美しさ」と「醜さ」こそがそれぞれに半月であり、二つが揃うことではじめて欠けることのない満月になれると解釈することもできるだろう。きれいはきたない、きたないはきれい——対をなす言葉はときに互いの位置を入れ替えながら、しかし常に互いに依存することで成立している。
逃避行の果て、夢に溺れるメリが辿る結末は残酷だ。メリを見守り続けたサーカス団員の黒犬/鎖骨は彼女を夢から救い出すため、エビオスを殺してしまう。しかし自らの半身たる少年を失ったメリが夢から覚めることは決してない。黒犬の思いは報われず、夢と現実のあわいを踏み外したメリ=エビオスは戻らない。
ところが、黒犬を主人公としてこの作品を読み直してみると、そこにはまた別の物語が浮かび上がって見える。黒犬はメリがサーカスから出て行く直前、「その夜、一人の売春婦が大世界の路地裏で死にました」と語る。示唆されるのは、メリがすでに死んでしまっている可能性だ。すべてはすでに起きた過去の出来事に過ぎないのではないか。ならばかつて黒犬が演じたのと同じ役を演じるエビオスという少年は黒犬の過去そのものであり、黒犬がエビオスを殺すという結末は過去への決別を意味するだろう。
あるいは、全てはエビオスの見た夢だったのかもしれない。「瑪麗という名の娼婦になりたかったんだ」と言うエビオスはメリの姿で黒犬に愛を告げる。報われない同性への思いが見せた束の間の夢こそがこの逃避行だったのか。「その瞬間だけでいいから、…ぼくを見ていて」というエビオスの言葉はメリの幻ではなく少年の自分を愛してくれというメッセージのようにも響く。三様の現実、あるいは夢。結末は収束せず、胡蝶の夢がごとく現実の底が抜けていく——。
作・演出の間宮きりんは2015年10月に生粋工房×劇団森『三日月都市眠れ』でも自らの美意識を徹底し幻想的なSF世界を描いていた。今作ではさらに「美しさ」それ自体を主題に据えることで耽美(たんび)な世界に単なる趣味以上の強度を与えることに成功していたと言えるだろう。美しさと醜さ、女と男、そして現実と虚構といった複数の二項対立の設定と、それらを交差させ撹乱(かくらん)する鏡、薬、演劇といったガジェットの導入も巧みだった。
複雑な設定と断片的なシーンを80分という短い時間に詰め込んだため、ともすれば観客の理解が追いつかないのではないかと思われる部分もあったものの、その眩暈(めまい)を起こすような印象もまたねらいのうちだろう。とはいえ、メリの道行きを観客に追体験させるのであれば、前半はもう少し「親切」に、現実と夢を区別してもよかったかもしれない。そうであればより一層、夢うつつの往還がもたらす酩酊感は際立っただろう。
本作は第9回早稲田大学・美濃加茂市文化交流事業学生演劇公演の一環であり、早稲田小劇場どらま館での上演は美濃加茂市における本公演のプレ公演という位置づけだった。どらま館での観劇は大切に仕舞われた蝶の標本(とはもちろん死体でもある)をそっと愛でるような体験だったが、野外での本公演はまさに現実に飛ぶ幻の蝶を見るような体験となったのではないだろうか。
(演劇博物館助手 山﨑健太)
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