「弘法筆を選ばず」という。確かに、弘法大師であれば、どんな筆であっても立派な書を認(したた)めることができるだろう。だがもちろん、良い道具を使うに越したことはない。
では、良い道具とは何か。ペンを例にとろう。紙に字を書くことが目的なら、ペンなど1本数十円でいくらでも売っているし、ことによるとただでも手に入る。うっかりすると、引き出しやペン立てがもらい物のペンで溢れかえることになる。だが、メモ程度ならともかく、安価なペンはインクの出が悪く書きづらいことも多い(日本の筆記具は優秀なので、比較的少ないが)。何より、そうしたペンを使っている限り、丁寧に文字を書こうなどと思うことはないだろう。気に入った道具があれば、使うときの心構えも変わってくるものだ。ペンの重みや紙にペン先を走らせるときの感覚にも、敏感になるだろう。良い道具は高いものである必要はない。良い物とは、大切にできる物だ。
何を古臭いことを、と思うかもしれない。コンピューターの時代にそんなことを言うのは時代錯誤だ、と。でも、キーボードの打ちやすさやソフトウエアの使いやすさだって、思考の滑らかさに直結する。ただ、電子機器は、自分で工夫して手に馴染(なじ)ませる余地がとても少ない。その意味では、現代人は感覚を研ぎ澄ます機会を失っているのかもしれない。
弘法がどんな筆でも書けるのは、さまざまな筆を使ってきたから、筆の癖に合わせて上手に扱えるからかもしれない。その域に達するためには、一回一回の経験を大切にするしかない。そして、そうした経験を味わわせてくれるような道具を使うことだろう。
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第1175回