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【SGU国際日本学拠点】コロンビア大学国際ワークショップ「日本文学史の再考:時代区分、ジャンル、メディア」を共催-報告-

日本文学史の再考:時代区分、ジャンル、メディア
国際ワークショップ

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2016年3月11日(金)
9:30 AM – 5:30 PM
アメリカ合州国 ニューヨーク市 コロンビア大学 403ケント・ホール

オーガナイザー:
ハルオ・シラネ、鈴木登美、十重田裕一

共催:
早稲田大学 角田柳作記念国際日本学研究所
早稲田大学 スーパーグローバル大学創成支援事業「国際日本学拠点」
コロンビア大学 ドナルド・キーン日本文化センター
コロンビア大学 東アジア言語文化学部

講演者、コメンテーター、モデレーター(五十音順):
クリスティーナ・イ(ブリティッシュ・コロンビア大学)
北村 結花(神戸大学)
小峯 和明(立教大学名誉教授、早稲田大学客員上級研究員)
商偉(シャン ウェイ)(コロンビア大学)
ハルオ・シラネ(コロンビア大学)
鈴木美穂子(マイアミ大学)[基調講演]
鈴木登美(コロンビア大学)
トークィル・ダシー(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)
十重田裕一(早稲田大学)
長島 弘明(東京大学)
李 成市(早稲田大学)
セイジ・リピット(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)
デイヴィッド・ルーリー(コロンビア大学)

コロンビア大学(アメリカ合衆国、ニューヨーク市)は1754年に設立された名門校であり、これまでにノーベル賞受賞者を101名輩出している世界でもトップクラスの研究大学である。学部教育においても、アイビー・リーグの中でもことに教養教育にも力を注ぐことで知られている。教養教育の内容が、西洋だけではなく東洋の歴史、文化、文学までをもカバーするのは、故・角田柳作氏の教えを受け、その後の日本学研究を牽引したセオドア・ド・バリー名誉教授、ドナルド・キーン名誉教授らの功績である。そうした努力は、同大学のハルオ・シラネ教授、鈴木登美教授により受け継がれている。両教授は、若手研究者の育成と活発なグローバル規模の学術的交流の基盤造りに貢献し、早稲田大学の推進する「国際日本学拠点」の構築・発展にも寄与している。
本ワークショップは、早稲田大学が進めるスーパーグローバル大学創成支援事業「国際日本学拠点」の活動のひとつとして、2016年3月11日、コロンビア大学で開催された。「国際日本学拠点」の中核を担うのは、早稲田大学、コロンビア大学、UCLAである。会場には、同3大学をはじめとする10以上の大学から、20人を超える研究者が、講演者、コメンテーター、モデレーター、参加者として集った。ワークショップの趣意は、「日本」「文学」「歴史」という概念をグローバルな観点から再考し、これまで確立したものとして扱われてきたカテゴリー(時代区分、ジャンル、メディア、国家、文学史)を再検討することで、研究と教育のあらたな方向性を探るというものであった。

第1セッション
近世ヨーロッパ研究における時代区分(基調講演)
講演者:鈴木美穂子(マイアミ大学英文学教授、Center for the Humanities ディレクター)
司会進行:鈴木登美(コロンビア大学)
コメンテーター:商偉(コロンビア大学)
ハルオ・シラネ(コロンビア大学)

鈴木美穗子氏による基調講演は、これまでルネサンス/近世ヨーロッパの歴史・文学の研究者が時代区分の問題をどのように扱ってきたのかに焦点をあてた。まずは「ルネサンス」という時代区分が登場した歴史的背景の考察から始まり、次に、ジャック・ル・ゴフ、 テッド・アンダーウッド、キャスリーン・デイヴィスなど、従来の歴史・文学に関わる時代区分の構築のあり方を問題視した研究者による議論が分析された。また、尾藤正英やディペシュ・チャクラバーティなどの論じた、時代区分に関するアジア特有の問題にも言及された。鈴木氏は、日本の文学史や自らの17世紀の英文学に関する研究を取り上げながら、これまでの研究の多くが時代間の不連続性をもとに論じられてきたことを批判した。そうした不連続性と相反する事例としては、1660年のチャールズ2世復位による「王政復古」を境とする従来の時代区分を超えて活躍した、ルーシー・ハッチンソンをはじめとする女性作家があげられた。
コメンテーターの商偉氏は、時代区分の問題は特に近代になってから顕著に論じられるようになったが、中国では、西洋との交流が深まる前の17世紀や18世紀において、既に文学作品に関わる時代区分の概念があったことを指摘した。このため中国では、“early modern” という用語は、「近代以前」のみでなく、明朝・清朝時代における変化の過程も示すものであるという。また商偉氏は、いつからが中国における “early modern” であるのかという問いに関する様々な説の問題点をあげ、それぞれの説が反映する歴史研究上の視点やパラダイムを解説した。時代区分に関する議論については、西洋と他の地域の共通点を見出すことができるが、そうした比較は背景を慎重に考慮したうえで行う必要があるといえる。
その後の全体ディスカッションでは、日本と西洋における文学史の取り上げられ方の違いと、その意味と背景に関する議論が行われた。特に、文学史を政治史と結びつけて論じるべきか否かという問題については、多くの参加者からのコメントがあった。

第2セッション
東アジアにおける時代区分としての古代 ― 日本文学史の「中古」によせて
講演者:李 成市(早稲田大学)
司会進行:デイヴィッド・ルーリー(コロンビア大学)
コメンテーター:トークィル・ダシー(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)

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第2セッションでは、李成市氏が、日本文学史において広く用いられてきた「中古」という時代区分の考察を行った。「中古」は古代と中世の間の時期を指す用語であるが、東アジアの他の地域の文学史においては、それと呼応する時代区分が存在しないという。これは、東アジア全体から見た日本の位置を考察するという近年の日本史研究における動向と相反するものであると指摘したうえで、李氏は、唐、渤海、新羅の歴史と「中古」という概念の接点が見いだせるかどうかを論じた。
コメンテーターのトークィル・ダシー氏は、国家の歴史ではなく、アジア全体としての歴史を考える場合にあげられるテーマとは何であろうかという問いを投げかけた。また、英国、ドイツ、スペインなどといったヨーロッパ諸国の歴史研究は中世を始点としており、「古代」という時代区分は用いられていないと述べ、日本と韓国において用いられている「古代」という時代区分の必要性も疑問視した。
小峯和明氏は、今日の日本の文学界においては「中古」という言葉は学会や研究会の名称以外に使われることは少ないとし、そういったなかで「中古」という用語を再考することにはあらたな意義があると述べた。鈴木登美氏は、「中古」という日本でのみ広く用いられてきた概念の持つ問題を考察し直す必要性を強調しながらも、「中古」という用語が示す時期と呼応する東アジアの他の地域の時代について再考していくことの重要性も示した。小峯氏と鈴木氏は、「上古」「中古」「今古」という時代区分の根底には国学があり、近年ではそれらの用語は使われなくなってきたことも指摘した。李氏は、そうした時代区分の概念は、ヨーロッパとの比較のために近代日本で用いられるようになった「古代」「中世」という時代区分よりも、近代以前の考え方に近いものであるかもしれないと述べた。長島弘明氏は、江戸や明治初期においては、時代区分用語の使われ方は曖昧であったと指摘した。ハルオ・シラネ氏とダシー氏は、文学とは文字があってこそ存在するものであり、文学上の「古代」というものは中国にしかありえなかったと指摘し、東アジアを横断したかたちの文学史には、「古代」という時代区分は必要ないという考えを提示した。

第3セッション
文学ジャンルのヒエラルキーと本文の流動 ― 江戸時代小説を起点として ―
講演者:長島 弘明(東京大学)
司会進行・コメンテーター:ハルオ・シラネ(コロンビア大学)

第3セッションの講演者の長島弘明氏は、日本文学史のあり方のより広い視点からの考察に向けた手がかりとして、江戸時代の文学の特徴を論じた。まずは、江戸時代においては各ジャンルの定義は明確でなく、ジャンル間のヒエラルキーも流動的であったことを指摘したうえで、当時の社会的ヒエラルキーと本のヒエラルキーとのつながりが解説された。本のヒエラルキーは、版元、文体と表記形式、読者層などに基づいて形成されたという。次に、印刷出版が主流となった江戸時代の書物の本文は、写本が主流であった時代の書物よりも安定していたという原則の妥当性が検討された。長島氏は、この原則はフィクションについては適用できるものの、実際に起こった出来事をもとに書かれた写本小説のジャンルであった「実録」の場合、書写者によって歴史的出来事の詳細の改変や潤色が行われ、本文が大幅に流動していると論じた。
コメンテーターのハルオ・シラネ氏は、社会的ヒエラルキーと本のヒエラルキーの関連性は、江戸時代以前にもみられるものであるのか、またそれはどのような関係なのかという問いを提示した。これを受け、参加者の間では、貴族階級と文学の生産の関係や、近世におけるジャンルの急増について議論が行われた。シラネ氏はまた、フィクションのテクストの安定性という所見と、『住吉物語』などにみられる中世における異本の急増といった現象を、どのように説明すればよいのかという問いも投げかけた。これに続き、所有者、テクストの散開や喪失、作者の確定や地位とテクストの流動性・安定性とのつながりなどが参加者により論じられた。
ナン・マ・ハートマン氏の、実際の出来事が実録として取り上げられるようになる条件とは何であるのかという問いは、江戸時代の読者間の「共有の事実」という考えをめぐる議論につながった。鈴木登美氏は、所有権/作者と事実/フィクションという分類とテクストの流動性/安定性は必ずしも一致しないものではないかと述べ、説話のように事実とフィクションの間にあるジャンルが存在することも指摘した。オープンディスカッションの終わりには、日本と英国における出版状況の比較と、明治時代の日本の文化的状況の考察も行われた。

第4セッション
文学史再考 ― 古典と近代の架橋をめざして
講演者:小峯 和明(立教大学名誉教授、早稲田大学客員上級研究員)
司会進行・コメンテーター:ハルオ・シラネ(コロンビア大学)

第4セッションの小峯和明氏の講演は、日本文学史を概説する方法の検討から始まった。主要なアプローチは2種あり、ひとつはジャンル別・時代別に解説していく、いわば定番の方法で、もうひとつはそうした定番のアプローチを解体する試みとして、特定のテーマの史的展開をたどるという方法であるという。小峯氏は、特に重要な課題は前近代と近代をどう繋げていくかにあるとし、その手段のひとつとして、中世を起点とする注釈書の考察をあげた。それは、文学研究の焦点を、作品の成立や作者から、享受のあり方へと転換させることを可能にするという。前近代と近代における享受のかたちの違いを描き出す具体例としては、鴨長明の『方丈記』が取り上げられた。『方丈記』は「法語」に属するものであるにもかかわらず、近代において「随筆」とみなされるようになったのだという。終わりに、小峯氏は、東アジアを横断する文学史の可能性を論じた。
コメンテーターのハルオ・シラネ氏は、前近代と近代の架け橋を築く方法として提示された、近代におけるテクストの享受のあり方の変化を認識したうえでの特定の作品の異なる時代における捉えられ方の考察と、中世の作品が当時どのように受け止められていたのかを再考するというふたつのアプローチを結び付けることはできるかという問いを提示した。鈴木登美氏は、近代において『方丈記』の一部のみが取り上げられてきたことの背景を考察する重要性を指摘した。これに続き、過去の享受のあり方に関連した読者と読者論の関係や、文学史の多層性の理解を可能にするリテラシーの必要性などに関する議論が繰り広げられた。トークィル・ダシー氏は、近代におけるテクストの享受を考察することは、特定の歴史的転換期に言及することになるとし、時代ごとではなく世紀ごとにテクストの享受のあり方を考えていくことに利点はあるかという問いを提示した。

第5セッション(ラウンドテーブルセッション)
文学の終焉から見た近代文学史
セイジ・リピット(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)
交錯する「日本文学」と「日本語文学」
クリスティーナ・イ(ブリティッシュ・コロンビア大学)
司会進行:北村 結花(神戸大学)
コメンテーター:十重田裕一(早稲田大学)、鈴木登美(コロンビア大学)

ラウンドテーブル形式の第5セッションは、セイジ・リピット氏の発表から始まった。リピット氏は、まずは柄谷行人と水村美苗による文学の終焉という議論を考察した。続いて、そのような文学を過去には存在していたがすでに喪失されたものとする不連続の視点と、デリダの提示した、文学はもともと存在しない廃墟の中、あるいはそのあり方の自己批判をもとに形成されたものであるという視点を対比した。文学は始めから存在していないという後者の視点においては、その終焉は過去からの連続とみなされる。文学史は常に現在の視点から書かれるものであり、文学の衰退が語られる時代における文学史は、そうした連続性と不連続性という二つの枠組みのあいだでつくられるものであるといえる。
次の発表者のクリスティーナ・イ氏は、まず朝鮮系の作家として初めて芥川賞を受賞した李恢成に対する選考委員のコメントと、そうしたコメントに対する作家本人の反応を紹介し、エスニシティと文学史の関係は帝国の歴史と切り離すことのできないものであり、李恢成に与えられた様々なラベルは、日本の帝国主義の記憶の戦後における書き換えを直に反映するものであると論じた。李恢成は、いわば過去の記憶の書き残されたパランプセストのような存在であり、そこには一人の作家の人生にみられる様々な要素の交差、対立、複雑さが映し出されているという。イ氏は、ラベルの持つ意味上の力と本ワークショップで取り上げられたより大きな課題とを併せて分析していくことの重要性を指摘した。
鈴木登美氏は、文学史は現在の視点から書かれるものであることを再度強調したうえで、今日のような文学の歴史性の終焉が語られる時代における、在日作家の位置とはどのようなものであるのかという問いを投じた。これを受け、国家概念を基盤とした文学の枠組みを超えた文学史の可能性に関する討論が行われた。十重田裕一氏は、言語はリピット氏とイ氏の発表に共通する根本的課題であり、問題となるのは日本文学の終焉のみでなく、その形成と発展の過程ではないかと述べた。十重田氏はまた、日本語文学という枠組みを考えるうえでこれまで言及されている言語の問題は、前近代との連続性を考慮していないとも指摘した。
李成市氏は、日本の文学賞を受賞した主な在日作家たちは朝鮮語で文章を書くことができず、そうした作家たちの作品が日本文学の一部であるか否かという議論にはあまり意味がないと指摘した。また李氏は、そうした日本で生まれ、日本語を話して育ちながらも、日本という国家の一部にはなれなかった作家たちは、国家を超えた文学を象徴する存在であるとも論じた。この視点は、「文学史編纂のための仕組みは19世紀に登場したものであり、近代国家の表象である」という見解とも共鳴するものであった。参加者は、在日作家の作品を、日本文学よりも日本語文学という枠組みの一部として捉える可能性を議論した。鈴木美穗子氏は、この問題は、ドイツにおけるトルコ系移民の文学作品、アフリカの作家による英語の文学作品、そして夏目漱石の作品をもめぐる、世界文学や他言語との遭遇に関する議論とつながりがあることを指摘した。ハルオ・シラネ氏は、日本文学と直接的なつながりはないものの、関連がないともいえない、カズオ・イシグロなどの日系の作家の例にも言及した。ナン・マ・ハートマン氏は、文学作品を作者の国籍でなく読者のアイデンティティをもとに考えることを提案した。
オープンディスカッションは、文学史の解体と新しいかたちでの創造という過程において、言語と国家の公用語という観点に注目することの必要性と、日本文学における文学作品という概念の体系化をめぐる議論で締めくくられた。

閉会の辞

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オーガナイザーを代表して閉会の辞を述べたハルオ・シラネ氏は、日本での留学生としての自らの経験談を交えながら、最終セッションで討論された、国家、言語、アイデンティティと文学作品のカテゴリー化との関係について論じた。これは、以下のような、本ワークショップで取り上げられたより広範な課題とも共鳴するものであった。
– 他地域の文学史の研究者との対話・比較や、日本と東アジア全体のつながりの考慮を通した、日本文学の領域的枠組みを超えた考察。
– 文学研究におけるジャンルやテクスト間のヒエラルキーに関わる議論の再考。
– 前近代と近代の架け橋となる、説得力のある建設的なアプローチの模索。
– 国家を基盤とした文学や言語が解体され、文学の終焉が語られるなかでの、文学史のあり方の考究。
これらの課題については、今後さらなる検討が期待される。

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