各務記念材料技術研究所の歴史掲載について

 
 各務記念材料技術研究所(以下、材研)は、2008年10月に創立70周年を迎え、 これを記念して機関紙である『材研報告』を70周年記念号として出版することと なりました。
 以下に紹介する「材研の歴史」は、70周年記念号を出版するにあたり、改めて 材研の歴史を振り返るため、前所長(第18代)である中江秀雄先生(写真右)に、 材研の歴史の執筆を依頼し、脱稿したものです。
 これを機会に材研の歴史をご一読していただければ幸いです。
中江先生
▲中江秀雄先生

目次

1.材料技術研究所の設立の経緯
2.材料技術研究所設立の関係者史
3.
新館の建設と名称変更
4.
環境整合材料技術センターの設立
5.
所属の変更
6.
専任研究員と学生
7.
沿革
8.
社会との連携
9.
70周年記念行事

1.材料技術研究所の設立の経緯


 早稲田大学材料技術研究所(元・鋳物研究所)は各務幸一郎・良幸父子の寄付によって、昭和13年(西暦1938年)10月21日に開設された(図1)。私立大学にこのような理工系の研究所が設立されたのは、わが国で初めてのことである。何故、鋳物の研究所になったかは次のような事情によると考えられる。 当時、全世界での最重要部品であった航空機のエンジンや大砲は鋳造で作られていた。 まさに、鋳造技術は当時のハイテク技術であった。話は少し古くなるが、江戸時代にペリーが来日し、開国に至った経緯も大砲にある。ペリーの艦隊が発する砲弾は陸地に着弾するが、わが国の大砲は陸地からはペリーの艦隊に届かない。それがお台場に砲台を作らせた原因でもあった。 この様な状況が戦前迄続いており、鋳造分野の技術開発の必要性から、鋳物を専門とする研究所が設立されたのであろう。
図1 正門から見た鋳物研究所(創設当時) 図2 在りし日の早稲田大学正門
 この写真には当時としてはハイカラな鋳物研究所の建て屋と、その看板と共に鋳鉄製の門が見える。 この門は、それ以前に早稲田大学の正門として使用されていたもので(図2:昭和2年大学史料より)、大学の正門としての使命を終えたこの門を、 石川先生が田中総長から戴いてこられ、鋳物研究所の正門とした。この辺の事情は1998年の材研報告(54巻1998,85)に詳しく記述されている。  この門には面白いエピソードが残されている。元職員の江藤氏の記憶によれば、昭和18年1月から昭和30年代半ば迄は、研究所の門は白いペンキで塗られた木製の門であった由。木製の門が傷んできたので、元の鋳鉄製の門に戻したとのことである。 何故このようになったのであろうか。第二次大戦末期に、金属資源に枯渇したわが国は、金属資源を橋梁や構造物に求めた。鉄資源としての強制供出を恐れた石川先生は、この門を前記の木製の門に取り替えさせたそうである。 そして、この鋳鉄製の門を研究所内の実習工場の片隅に隠させた。元海軍中将であった石川先生が当時の国策に反してまで隠されたほどの、由緒正しき門である(葉山先生のお手紙による)。 しかし時代の変化で、この門では大型のトラックの通行に不便であるとのことから、1997年4月に現在の溶接構造の鉄の門に取替えられた。現在はこの鋳鉄製の門の一部は材料技術研究所の正面玄関前の植え込みの中に保管されている。
 鋳物研究所の設立に関する詳細は早稲田学報第11号(昭和13年:大隈老公生誕100年記年号)に詳しい。 それによると、鋳物研究所の開所式は10月21日に開催された。その式次第の詳細は次の通りである。そして、25、26日には所内の公開を行っている。
     開所式 式次第
一、 開 式
一、 戦没将兵の慰霊、皇軍将士の武運長久黙祷
一、 工事報告 営繕課長  桐山均一
一、 式 辞  総 長   田中穂積
一、 挨 拶  理工学部長 山本忠興
一、 研究設備報告
      鋳物研究所所長 石川登喜治
一、 来賓祝辞
      日本工学会理事長 工学博士 俵 国一君
一、 寄付者挨拶      各務幸一郎君
一、 閉 式
 開所式での田中総長の式辞を図3に示す。ここで総長の式辞には、大学は背水の陣を覚悟してこの研究所を設立した、とある。現に、建物は各務氏の寄付であっても、研究設備購入財源は大学から5万円が支出された。 石川所長は、住友金属工業よりの10万円、小松製作所を始めとする多くの企業からの寄付金、あるいは現物の無償・格安有償などの提供により所内を整備し、発足にこぎつけた。
 研究所の公開日の石川所長の挨拶を図4に示す。この公開に合わせて、キュポラの火入れと鋳型の造型、鋳込みを行っている。その写真を図5、6に示す。
図3 田中穂積総長式辞 図4 石川登喜治所長挨拶(公開日と思われる)
図5 キュポラの火入れ式 図6 鋳型の床上での製作
 一方、専任の研究員を嘱任することは、当時の大学では財政的に無理であった。むしろ、大学の研究所は教育の場であるという建前から、理工学部に応用金属学科を新設し、同学科の教員のほか機械、採鉱冶金、電気の各学科からの応援を求め、研究員に嘱任した。この応用金属学科は鋳物研究所内で教育を行った。 また、事務と技術職員の給与、施設の維持費などの経費は大学がまかなったが、研究費は研究所が自ら調達しなければなかった。各務良幸氏は石川先生のご退職まで、大学からの交付金とほぼ同額の1万円を毎年、先生に託された。 そして、先生ご自身も毎年9万円を調達されたが、その大半は先生の私財であったという。
 応用金属学科の学科主任に石川先生を兼務の形で嘱任し、機械工学科 山内 弘教授、横田清義助教授、採鉱冶金学科 塩沢正一教授、電気工学科 大隈菊次郎教授、応用金属学科 鹿島次郎助教授、加山延太郎教務補助などで構成された。 翌年4月には海軍技師 田崎正浩氏が応用金属学科の教授として迎えられ、一応の完成をみた。
 これらの状況から、この研究所の設立が早稲田大学にとっても如何に大事業であったかがしのばれる。また、この研究所の設立はアメリカの鋳造関係の学術誌にも図7のように紹介されており、海外でも注目されていたことがわかる。この外観は現在でも全く変わっていない。
図7 アメリカの雑誌に紹介された鋳物研究所
 昭和63年10月21日、鋳物研究所は創立50周年を迎えた。この日を期して、『鋳物研究所は工業の進歩に寄与する存在たらん』とする初代所長石川登喜治先生の遺志を継承し、『早稲田大学各務記念材料技術研究所』と改称し、今日に至っている。 以下に、この研究所の設立に関与した人物史を展開する。

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2.材料技術研究所設立の関係者史


2.1 各務幸一郎・良幸父子
 先に記述したように、鋳物研究所は各務幸一郎・良幸父子の寄付によって建てられた。各務幸一郎氏(図8)は日本郵船㈱、東京電力㈱、富士紡績㈱など、多くの有力企業の経営に参画され、東京海上火災㈱の社長、各務謙吉氏の実兄である。 実業界の重鎮であった各務幸一郎氏は、昭和12年、喜寿を迎えるに当たって記念の寄付を考えておられた。氏の養嫡子良幸氏(図9)は鉱山事業に手を染め、早稲田大学の採鉱冶金学科の教授と親交があったこと、 また、早稲田大学の電気工学科の先輩で、当時小松製作所㈱の重役であった真野官一氏が、鋳造に関する研究所の設立を理工学部長 山本忠興教授に強く進言していたこと、更には、理工学部首脳の賛意が推進力となって大学は各務氏の好意を受け入れ、鋳物研究所を設立することになった。寄付の金額は30万円であった。
図8 各務幸一郎氏 図9 各務良幸氏
 各務良幸氏はその後、昭和16年に追加の寄付をされ、新研究棟の増設に使われた。良幸氏は鉱山事業にも手を染めており、長いヨーロッパ生活で、アルプスにカガミ・ルートを開拓したことでも著名である。 このルートは昭和4年にスイス人ガイドのペレンと組んで、モンブラン東南壁に開拓した。この話を中江は昔、良幸氏の鋳物研究所での講演で聞いた覚えがあったが、確証はなかった。 そこで、学科の先輩で元日本山岳会会長、村木順次郎氏(応金・昭和21年卒)に問い合わせたところ、確かに氏も聞いた覚えはあるが、良幸氏はこの様な手柄を公言するような人物ではなかった、と言われた。その後調べを進め、登山史年表等(山岳大観:各務良幸、麻生武治著、木星社書院、昭和6年12月)でやっと確認できた。図10にカガミ・ルートの主峰であるエグイ・ブランとモンブランを山岳大観より再掲する。
図10 エグイ・ブランとモンブラン(山岳大観より)
2.2 石川登喜治先生
 昭和12年1月、早稲田大学は石川登喜治先生(図11)を招聘し、鋳物研究所開設の業務を開始した。研究所の工事は、昭和12年10月起工、13年7月に竣工し、研究設備を搬入して、昭和13年10月21日に開所式を挙行したことは前記の通りである。
 明治12年に九州の柳川市に生まれた先生は、東京帝国大学を卒業後、海軍佐世保工廠に勤務され、その間に英国に留学された。大正8年には舶用プロペラの材質、マンガン青銅の研究で帝国学士院賞を受賞された。その後、昭和5年に海軍造機中将、昭和12年に早稲田大学教授に就任された。海軍中将時代の石川先生の写真を図12に示す。
 学士院賞受賞時の新聞・雑誌記者による取材時に、先生の書斎を見せていただきたい、の問いかけに苦慮されたとある。なにしろ、狭い官舎住まいで立派な書斎などある筈もなく、居間に案内したら、本棚が不足し、ミカン箱に紙を貼った手製の本棚に専門書が入れてあった、とかで取材の方も驚かれた。 雑誌には『大変質素な書斎から世界的な研究が生まれ・・・』と出たとかで、父も苦笑していたそうです。(石川登喜治小伝、その一生の色々な出来事:石川正治(ご子息)、非売品 昭和58年より)
 石川登喜治先生は、昭和5年に海軍造機中将に栄進後、現役を退き、当時は日本鋳物協会(現:日本鋳造工学会)の初代会長を務められていた。先生は学会・業界での人望に厚く、住友金属工業の顧問でもあった。正に、鋳物の神様と言われた方である。
図11 所長時代の石川登喜治先生
図12 海軍中将時代の石川登喜治先生
 鋳物研究所は、当初日本の鋳物工業技術の向上のための研究に力点が置かれたが、先生の構想はより広い視野に立ったものであった。すなわち、金属製品には鋳物のほかに鍛造、圧延などの塑性加工によるものの比率も大きく、その素材は、製錬された溶融金属を型に流し込んで凝固させたインゴットである。 もしも、このインゴットに欠陥があれば、加工技術が如何に優れていても良品は得られないと考えられた。先生は、鋳造技術は全ての金属製品を作る根底をなすものであるから、鋳物研究所をわが国の金属工業は勿論、工業全般の進歩に寄与する存在にしたい、と考えていたのである。
 材料技術研究所の会議室には今も田中穂積総長の額が掲げられている。それには、『與世無求 昭和幸巳 穂積影』とある。これは『世に与えて求むること無かれ』と読むと聞かされた。 『社会に奉仕して。社会に利益を求めてはいけない』との意味である由。昭和幸巳は昭和16年を指し、影とは田中総長がいずこからかこの文を写された物ということのようである。この額は田中総長が石川先生に昭和16年に贈られたもので、当時は所長室(所長室と会議室が区別されていなかった)にこれを掲げ、研究所のバックボーンとされ、研究所の運営や研究・教育上は本論のこと、自らも実践されたのであった。
 鋳物研究所の設立後まもなく、石川先生は塑性加工の研究・実験棟の増築を計画され、再び各務良幸氏に援助を請い、その時に、研究成果の提供を申し出られたという。 この仲立ちをされた田中総長が、各務父子のご意向を文字に表し、石川先生に贈られたものが、この額である。これこそが、真のボランティアであろう。
 『與世無求 昭和幸巳 穂積影』の解釈は、教育・総合科学学術院 大津雄一先生の助言によるものである。また、後半は、材研フォーラムニュース創刊号(1999年5月7日)の上田重朋会長挨拶より転記した。
 この研究所の経緯を見守っておられた各務良幸氏は石川先生の申し出を快く引き受け、30万円の追加寄付をされた。この寄付により、大学は鋳物研究所の西隣りに約1500平方メートルの土地を購入し、ここに床面積940平方メートル、一隅を2階建てとする鍛造・圧延・プレス・押出しなどの塑性加工の実験棟を建設した(図13)。 竣工は昭和17年末であった。当時はすでに建築資材は払底し、建物は木造となった。この建物は、昭和48年、創立35周年の記念事業の増改築工事に伴い取り壊され、約2.5倍の広さを有する現在の新館(図14)に生まれ変わっている。
図13 塑性加工の実験棟 図14 完成時の新館
 石川先生の人柄を物語る、こんな話がある。長崎までの学生の見学旅行に葉山房夫先生(現・名誉教授)が引率者として同行された。今日ではこの種の旅費は予算が組まれているが、往時はそのような制度はなく、石川先生が教員としての体面もあろうからと200円渡された。葉山先生が実際に使われたのは50円弱で、帰京後石川先生は領収書の1枚も、捺印も要求されなかったそうである。
 石川先生は昭和39年6月23日、享年84歳でその一生を終えられた。葬儀は鋳物研究所の実験棟において研究所葬として執り行われた。参加者の列は早稲田通りにまで達するという盛会であった。ちなみに、研究所は、翌昭和40年11月8日に先生のレリーフを、正面玄関、左側に掲げ、今日に至っている。
2.3 第二代所長 飯高一郎先生
 戦後、公職追放令が発令されたことから、石川所長は昔軍籍にあった事から、先生ご自身がこれに抵触すると判断し、事前に辞任するという形をとって、昭和21年3月に所長を辞任された。これに伴って島田孝一総長が所長を代行された。昭和22年2月、石川先生の後を引き継がれたのは飯高一郎先生(図15)である。先生は理化学研究所の主任研究員であり、また日本鋳物協会の創立以来の理事でもあり、同学会の二代目の会長に就任された方である。先生は、私立大学の研究所が有効に機能するためには、理化学研究所方式が好ましいと考え、戦後、私学の財政が苦しい中で、若手研究者の育成と研究所の再建に全力を傾けられた。
図15 飯高一郎先生
 『英文鋳研報告』は飯高所長の発案によって昭和25年に第1号が、そして26年に第2号が発刊された。当時は戦後5年ばかりが経過した時期で、活字も用紙も不自由な時代であった。そこで、第1号では大型の活字がなく、手書きの物が使われ、第2号からは正式の活字になっているのが図16よりわかり、当時の苦労がしのばれる。この雑誌は鋳物の分野では日本を代表する唯一の英文論文集として、先駆的な役割を果たした。ちなみに、日本金属学会の英文誌は昭和35年に、日本鉄鋼協会の英文誌は昭和36年から刊行されている。如何に先生の発想が時代に先行していたかを伺い知ることができる。残念なことではあるが、この英文誌は、鋳造に関連する研究員の減少から、今日では発刊は中断されている。
図16 鋳物研究所の英文報告1号と2号
2.4 第三代所長 塩沢正一先生
 昭和31年9月に飯高先生の辞任に伴い、塩沢正一先生(図17)が所長に就任した。鋳物研究所の研究活動は、飯高所長時代に拡大したといえるが、塩沢所長はより一層の内容の充実、研究体制の整備を断行し、その後の発展の基礎を確立された。
図17 塩沢正一先生
 塩沢先生は 米国のMassachusetts Institute of Technologyに留学された後、ヨーロッパ各国を視察された。そのためか、先生は縦縞のスーツが似合う英国流の紳士で、教室では淡々と講義を進められた。当時の卒業生が先生を語るとき、必ず先生の整然として書かれた講義ノートが話題になる。先生は晩年にそれを単行本として出版されたが、先生ご自身が使っておられたノートには、余白に用箋を足してビッシリと書き込みがあり、先生の勉強振りがうかがえたそうである。先生は早稲田大学が生んだ硯学の一人といえよう。学内外に人望のあった先生だからこそ、研究所の改革をなし得たのであろう。また、先生は日本鉄鋼協会の会長も歴任されている。
2.5 歴代所長一覧
 氏 名嘱任解任
初代石川登喜治1938.101946.3※※
2飯高一郎1947.21956.9
3塩沢正一1956.101962.9
4葉山房夫1962.101968.9
5雄谷重夫1968.101976.9
6草川隆次1976.101980.9
7上田重朋1980.101982.9
8堤 信久1982.101986.9
9加藤榮一1986.101990.9
10渡辺侊尚1990.101992.9
11宇田応之1992.101996.9
12大泊 巌1996.101998.9
13大場一郎1998.102000.9
14南雲道彦2000.102002.9
15一ノ瀬 昇2002.102004.9
16中江秀雄2004.102006.9
17堀越佳治2006.102007.2※※※
18中江秀雄2007.32008.9
19本村 貢2008.10 
※:正式な任期は○○年9/21~9/20であるが、便宜上○○年10月~○○年9月と表示した。
※※:1946.3~1947.2は早稲田大学総長島田孝一が兼務。
※※※:第17代所長堀越佳治は早稲田大学理事就任のため任期途中にて解任。

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3.新館の建設と名称変更


 昭和47年の秋頃から、創立35周年の記念事業として増改築を行う計画が検討され、昭和48年6月1日募金額1億円で発足した。この募金は、雄谷重夫所長の熱意と研究員の協力により2億を超し、同年8月募金額を3億円に変更した。これは私学振興財団では初めてのことであった。新日鉄以下20~30人の中小企業までを含む132社の援助により2億9千万円の寄付があったが、その3分の1の約1億円は実に中小企業からの寄付であって、このことは明記すべきである。
 建設は、昭和17年に建築した木造実験棟を取り壊し、昭和49年10月17日着工、翌50年6月30日に竣工した。4階建て一部平屋の実験棟を有する延2400㎡で、新館披露式は昭和51年3月26日であった。新館(図14)の玄関を入った右側の壁面に、寄付会社名を鋳出した青銅製名盤が飾られ、その厚志を後世に伝えている。
 昭和63年、設立50周年を期に、研究所の名称を各務記念材料技術研究所と変更し、今日に至っている。これは、従来と異なり、鋳造に関連する分野の研究者が少なくなり、一方では電子材料系の研究者の増加により、研究分野と名称の一致を図ったものである。

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4.環境整合材料技術センターの設立


 文部科学省補助事業の一環であるオープン・リサーチ・センター整備事業に南雲所長の時に応募し、平成14年に環境整合材料技術センターを立ち上げた。その後、同じくハイテク・リサーチ・センター整備事業の中心的な研究センターを、この研究所内に設立した。これらの事業により研究所の設備・環境は大幅に改善され、近代的な研究設備と加工設備を有する研究所に再生した。

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5.所属の変更


 早稲田大学理工学部が理工学術院へと改組するに当り、材料技術研究所の所属が本部から理工学術院へと変更することが平成16年9月に決定した。この変更に伴い、材料技術研究所は理工学総合研究所(現・理工学研究所)と共に、理工学総合研究所の下部組織として存続することになった。

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6.専任研究員と学生


 現在では、所属の変更に伴い、専任研究員の正式名称は研究重点教員(戦略枠)になっているが、便宜上これまでの呼称、専任研究員で記述する。
 現在研究所を本属とする専任研究員は2名、このほか助手3名がいる。ここに専任研究員の研究内容を紹介する。
小林正和教授 電子・光材料学の研究:各種の半導体を主とした結晶を作製し、その微細構造などを制御することで電子や光子を使用した新型素子の開発を目的としている。この応用分野としては、主として医学方面での応用を目指している。
増田千利教授 金属基複合材料の研究:マグネシウム、アルミニウム、チタン及びそれらの合金をベースとしたセラミックス強化複合材料の界面反応解析と、特性評価に関する基礎研究を行っている。
 また、すでに退職された専任研究員としては次の二方がおられる。
渡辺侊尚教授 粉末冶金の研究:特に機械部品焼結材料ならびに軸受け用焼結多孔質材料などの強度材料を対象にし、それらの製造及び応用に関する基礎研究を行っていた。
藤森直往教授 共同研究:3次元物体の非接触寸法測定法の研究。協力者・寺田利邦。各個研究:①不平衡―平衡系材料試験機システムの研究。②非接触寸法測定法における人工知能的認識・判断要素システムの研究。
 研究所は、毎年学部・大学院の学生を受け入れているが、現在までにその数は5,000人を超すと推定されている。このほか、企業より派遣された研究生、研修生などの受託者数は、戦前及び戦後の混乱期に資料が散逸し正確な数字はわからないが、約150名と算出されている。

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7.沿革


昭和13年 10月 鋳物研究所創立 初代所長,石川登喜治博士
昭和16年 12月 鋳研報告(和文)1号刊行
昭和17年 12月 各務良幸氏よりの資金の寄贈により、第2試作工場を増設、塑性加工関係の研究設備を充実した
昭和21年 3月 石川登喜治所長辞任、早稲田大学島田孝一総長が兼務
昭和22年 2月 第2代所長、飯高一郎博士嘱任.戦後の混乱期に、幾多の困難を克服し、研究体制整備のため、公私の団体、会社の厚意により、補助金・研究奨学金および機械器具の寄贈を得る
昭和25年 12月 Report of Castings Research Laboratory創刊、世界各国に領布し、研究成果を公表
昭和31年 9月 第3代所長、塩沢正一博士嘱任.関連工学分野の急速な発展に伴って研究分野を強化、拡大し総合的視点での有機的共同研究体制の確立をめざし、塑性加工、表面加工、粉末冶金、銑冶金等の加工技術開発および基礎研究に着手
昭和33年 3月 鋳研報告(和文)を復刊、領布し、研究成果を国内に公表
昭和37年 10月 第4代所長、葉山房夫博士嘱任.研究者、技術者の養成をねらいとして受託研究員および受託研修生制度を設置し、教育界、工業界の発展に寄与
昭和43年 10月 第5代所長、雄谷重夫博士嘱任
昭和48年 6月当研究所創立35周年に向けて、研究・実験室の増築を目的に募金活動を開始.関係諸企業132社より厚意ある資金の寄贈あり
昭和48年 10月 創立35周年
昭和50年 7月 新研究棟42-3号館 落成
昭和51年 3月 新研究棟披露式をもって創立35周年記念事業 達成
昭和51年 10月 第6代所長、草川隆次博士嘱任.私学振興財団学術振興資金による長期共同研究の遂行
昭和55年 10月 第7代所長、上田重朋博士嘱任
昭和56年 4月 当研究所の事業に貢献した相川繁吉氏を賛助員に嘱任
昭和57年 4月 研究奨励制度の充実および助手の増強
早稲田大学創立百周年に当研究所も講演会および出版等の記念事業を施行
昭和57年 10月 第8代所長、堤信久博士嘱任
昭和61年 10月 第9代所長、加藤榮一博士嘱任
昭和63年 10月 創立50周年記念事業 
各務記念材料技術研究所と改称
平成2年 10月 第10代所長、渡辺尚博士嘱任、新中期計画の策定と研究員の拡充をはかる
平成4年 10月 第11代所長、宇田応之博士嘱任
平成8年 9月 第12代所長、大泊巖博士嘱任
平成10年 9月 第13代所長、大場一郎博士嘱任
平成10年 11月 創立60周年記念事業
平成12年 9月 第14代所長、南雲道彦博士嘱任
平成14年 9月 第15代所長、一ノ瀬昇博士嘱任
平成14年 11月 文部科学省私立大学高度化整備事業による環境整合材料技術研究センターオープン
平成16年 9月 第16代所長、中江秀雄博士嘱任
平成18年 9月 第17代所長、堀越佳治博士嘱任
平成19年 3月 第18代所長、中江秀雄博士嘱任
平成20年 9月 第19代所長、本村貢博士嘱任
平成20年 10月 創立70周年記念事業
      

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8.社会との連携


 材研では、材研オープンセミナー、教育プログラム、ものづくり講演会を毎年計画・開催し、社会に広く研究成果の公開や新しい情報の提供を行ってきた。これらの詳細を以下に示す。
8.1 コロキュウム(講演会)
 材料技術を中心とする各種の科学・工業技術の向上進歩に資するため講演会の活用を試みている。団体もしくは会社等の要請があるときは、必要な場所でそのつど開催するが、当研究所の年次行事の1つとして研究所が主催する講演会を随時開催している。
 期間、内容、方式、回数等については今後系統的、段階的のもの数種を置き、受講者の便宜を図ると共に教育効果の向上を期すべく計画している。
8.2 教育プログラム
 社会人の技術者や若手研究者、および大学院生を対象に、最先端の技術者育成のための講座を「教育プログラム」と称して、毎年後期(9月~12月)に10日間(半日/週)行っている。このプログラムの講座テーマは毎年設定され、テーマに関連する企業で、実際に第一線で活躍している方に講師をお願いしている。毎年8月頃参加者を募集している。
8.3 オープンセミナー
 社会貢献の一環として、毎年1回、材料技術に関わるホットなテーマをとりあげ、第一線の講師によるセミナーを広く学内外の人を対象に開催している。当研究所が主催し、多くの学会の協賛を得ている。今回の70周年記念オープンセミナーもこの一環である。
8.4 材研フォーラム
 当研究所と産業界が密接に連携して、企業‐大学間に研究分担と協力の、柔軟かつ効率的なあり方を醸成するとともに、技術立国の基礎となる人材を育てるという目的で、材研フォーラムを設置した。これは、1997年に材研研究交流クラブを設立し、これを発展させて材研フォーラムを1998年に設立した。当初は法人会員3社、学外個人会員28人、学内個人会員21人、個人準会員2人でスタートした。
 材研フォーラムは、学内・外から募った会員によって構成され、異分野間の垣根を取り払った交流の場を提供するが、日常活動は研究分野に特化した「部会」の場で行われた。部会では、産業シーズ探索から応用技術にわたる問題意識を持ち寄って、多面的な視野から議論を行った。
 このフォーラムは2002年12月にナノテクノロジーフォーラムとして全学を代表するフォーラムへと展開した。
8.5 受託研修者制度
 官公庁・会社等の委託にもとづいて、中堅技術者の研究および技術の指導を行う制度である。主として、高等学校卒業以上の学歴を有し、実務経験3年以上の者を対象としている。授業は実験・研究およびゼミからなり、実験・研究は研修者の希望する部門について、当研究所が指定する研究員が実験・研究の課題を与え指導する。当該研究員が開講するゼミへの参加が認められる。毎年4月に開講し、3月10日頃まで随時、申し込みを受け付けている。
8.6 受託研究者制度
 上記の受託研修者よりさらに高い学識経験を有する現職技術者・研究者のために、科学・技術研究の高度化、能力再開発、あるいは学位取得の準備などを行う場と機会を提供する制度である。入所資格として、理工科系大学を卒業した者、またそれに準ずる学力があることが求められる。受託研究者の研究は、希望する指導教授のもとでそれぞれの分野について行われる。
 受託研究者は、指導教授が開講するゼミへの参加のほかに、理工学部、大学院理工学研究科の聴講もできる(注)が、聴講料は別途徴収となる。
(注)本学大学院理工学研究科には、企業等に在籍のまま正規の大学院生となることのできる「社会人特別選考制度」が設けられており、当研究所の研究員が同研究科の兼任である場合には、同制度の適用を受けられることがある。
8.7 研究奨励生制度
 当研究所では、篤志家、退任の研究員等よりの寄付金を基に、研究教育基金が設けられている。毎年その果実を利用して、研究所の若手研究者に研究奨励金を支給し、経済的支援を行っている。
8.8 出版
 研究員の研究成果は、各種の関係学会誌等に発表されている。当研究所では研究所全体の活動状況を明らかにするため、機関誌「材研報告」(和文)および「ZAIKEN」(英文)の2種類を刊行し、年1回研究成果を公表している。
 英文誌は「ZAIKEN」として国内関係箇所に頒布すると共に、欧米各国の諸大学、学会、研究機関等との交換図書として、現在33カ国に発送している。
 また、オープンセミナー(年1回開催)の講演内容をまとめた、「オープンセミナー講演録」も刊行している。

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9 70周年記念行事


 材料技術研究所は2008年10月21日に創立70周年を迎えた。その創立記念式典は10月11日(土)の午前10時より井深記念ホールにて盛大に行われ、次いでその日の午後にオープンセミナーと懇親会が行われた。この井深ホールは、ソニーの創始者である井深 大氏を記念して建てられたものである。記念式典では本村所長、白井総長の挨拶(図18)に続いて、総合科学技術会議 奥村直樹議員による記念講演(図19)が『わが国の科学技術政策と研究開発への期待』と題して行われ、記念式典は無事終了した。そして、70周年を記念して出版されたのがこの本である。
       式 次 第
一、 開  式
一、 挨  拶  材料技術研究所 所長        本村 貢
一、 式  辞  早稲田大学 総長          白井克彦
一、 記念講演  総合科学技術会議議員 奥村直樹
     演題 「国の科学技術政策と研究開発への期待」
一、 閉  式
図18 白井総長の式辞 図19 講演中の奥村議員
 同日の午後に材料技術研究所オープンセミナーを開催した。本村所長の挨拶(図20)に始まった。当日はあの大きな井深ホールもほぼ満席の状態であった。このセミナーでは早稲田大学理工学部を卒業され、わが国のものづくり企業で活躍されている3人の現役社長の記念講演(図21~23)と、科学技術と歴史の関連のご講演を、国立歴史民俗博物館名誉教授の宇田川武久先生(図24)と、東京芸術大学教授の北田正弘先生(図25)よりいただいた。特に、3社長は共に母校の早稲田大学での講演と言うことで、聴衆に強く訴える熱のこもった講演で、聴衆者に深い感銘を与えた。
 材料技術研究所オープンセミナーの概要は次の通りである。
挨 拶本村 貢  材料技術研究所所長
講 演大林秀仁  ㈱日立ハイテクノロジーズ社長
  『グローバルトップを目指す日立ハイテクの「もの創り」』
加藤泰彦  三井造船㈱社長
  『人が支えるものづくり これまで/これから』
吉川 進   リョービ㈱社長
  『もの作りの根源 製造現場にあり -寝袋が繋いだ絆-』
宇田川武久 国立歴史民俗博物館名誉教授
  『銃砲にみる模倣とその限界』
北田正弘  東京芸術大学教授
  『古(いにしえ)のものづくりをナノスケールで見る』
図20 オープンセミナーでの本村所長の挨拶
図21 講演中の大林社長 図22 講演中の加藤社長
 
図23 講演中の吉川社長
 宇田川先生と北田先生の話は、歴史的な物質、火縄銃や書画骨董品の工学的な解析であり、多くの聴講者の興味を引き、懇親会での評判は上々であった。これを企画した者にとっては誠に嬉しく、有意義な70周年事業であった。
図24 講演中の宇田川先生 図25 講演中の北田先生
 
図26 懇親会風景

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