WEB MAGAZINE 早稲田@日本橋

キーワードで散歩する 日本橋“まち”探訪

keyword01

馬喰町初音の馬場(広重画)

平成6年に建てられた郡代屋敷跡の案内板

馬喰町の旅籠屋(十返舎一九、金の草鞋より)

店先に衣料品を並べる商店。

写真提供:中央区京橋図書館

江戸で唯一馬の売買が
認められた場所

徳川家康の江戸入府のころより、馬の売買を行う馬市が定期的に開催されたほか、馬の売買の仲介人である博労(馬喰)たちが多く住んでいたことが地名の由来とされる「日本橋馬喰町」。江戸時代のころは博労町(ばくろちょう)と呼ばれていた。当時は、この地以外での馬の売買は禁止されていたという。
また、現在の靖国通りと江戸通りが交差する北側一帯の広大な土地には、江戸最古の馬場とされる「初音の馬場」もあった。家康は1600年(慶長5)の「関ヶ原の戦い」の際に、この場所で馬ぞろえ(馬の検疫や訓練)を行ったという逸話がある。『東海道五十三次』など数々の名作を残した江戸を代表する浮世絵師・歌川広重も、当地一帯の様子を描いている。
しかし「初音の馬場」は、江戸の町に甚大な被害をおよぼした1657年(明暦3)の「明暦の大火」によって大半が焼失。その後、復旧したが、規模は以前の半分以下になってしまった。さらに維新後、文明開化の訪れとともに需要も減少し、取り壊しとなった。

多くの旅人たちが行き交う
宿場町の一面も

「明暦の大火」以降、馬場は縮小したが、その一帯には武蔵・相模・房総など関八州における行政や司法のトラブルを扱った役所、「関東郡代屋敷」がおかれた。これによって、訴訟の仲介にあたった公事師たちが各地から訪れるようになり、旅籠屋が立ち並ぶようになった。また、隣接する「日本橋横山町」が問屋街として栄えるようになったことも、この地で旅籠屋が繁盛した一因といえる。
馬喰町の発展とともに人々の往来は増え続け、旅籠屋だけでなく、土産屋や定食屋、よろず屋など、さまざまな店が軒を連ねるようになり、より一層の賑わいを見せるようになった。明治に入ってからも、江戸情緒を残す宿場町として、多くの旅人たちが立ち寄ったという。だが、町は近代化の波に押されて衰退。宿場町としての色合いは薄れ、旅宿は減少の一途をたどるようになった。その一方で、衣料品などを扱う問屋が増え、いつしか町は問屋街に様変わりしていった。現在はJR馬喰町駅を中心に近代的なビルが立ち並ぶオフィス街としても発展している。

次へ


Webマガジントップファイナンス研究科トップ早稲田大学トップ