WEB MAGAZINE 早稲田@日本橋

キーワードで散歩する 日本橋“まち”探訪

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馬喰町との
相乗効果により発展

1617年(元和3)に「江戸浅草御坊」の愛称で親しまれた西本願寺の別院が建立されるなど、江戸時代初期の「日本橋横山町」は、門前町的な性格を持つ町だったとされる。町名については、周辺一帯の土地を有していた有力者の横山某に由来するとの説もあるが、諸説はさまざま。
1657年(明暦3)の「明暦の大火」によって、西本願寺の別院が築地に移転した後、その跡地には町家が建てられるようになり、多くの庶民たちが移り住むようになったという。また、日光街道などの主要道に近接し、交通アクセスに優れていたため、呉服や陶磁器、書物、紙など、全国各地からの名産品を取り扱う問屋が多数出店。さらに、隣接する馬喰町が江戸を代表する宿場町でもあったことから、その相乗効果によって、問屋街としての発展により拍車がかかる形となった。
しかし、明治・大正時代に入ると、馬喰町に宿場町としての活気は減退。そんななか、問屋街として成長を遂げていた横山町に飲み込まれる形で、馬喰町一帯にも問屋が増えはじめた。こうして「問屋街の横山町・馬喰町」というイメージが確立された。

町の繁栄を支えた
「養子」「のれん分け」

横山町・馬喰町の問屋街としての繁栄には、制度的なものも大きく影響している。その一つとして「養子」がある。この町で問屋を経営する旦那衆は、商売を一代限りではなく、何代にもわたって継続していくために、商いに才覚のある人材を養子とすることに積極的だった。また、丁稚のなかで見込みのある者に商いのイロハを教えて「のれん分け」を行い、開業からその後の面倒を見るなどしてグループを形成することで、商いの裾野を広げようともした。「養子」と「のれん分け」なくして問屋街の発展はなかったといっても過言ではないだろう。
そんな横山町・馬喰町問屋街のメインストリートが「新道通り」。かつては、この通りに店を構えると出世するといわれ、“出世新道”といわれたこともある。問屋街の大盛況ぶりを示す一つのエピソードだ。また新道通り一帯の問屋は、昭和初期の大恐慌下において、自転車操業を強いられる取引先の小売店などに対して「現金安売り」を実施。以降、「現金安売り」の看板を掲げる問屋が増えていった。
現在も衣料品や日用雑貨などを扱う問屋が所狭しと立ち並び、問屋街ならではの独特の雰囲気を醸し出している。また、2003年(平成15)からは文化服装学院と提携して横山町・馬喰町問屋街活性化プロジェクトを推進するなど、新しい息吹を吹き込もうとしている。

写真提供:
中央区京橋図書館、横山町奉仕会

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