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Monthly Spotlight / 秋吉亮太

数学を哲学する ~証明とは何か~

哲学と数学の密接な関係

哲学と数学は、まったく違う学問と思われているかもしれませんが、本来はとても近い関係にあります。古代哲学者の多くは、数学や自然科学に深い造詣をもっていましたし、現代の数学者や物理学者も、「数ってなんだろう」「時間ってなんだろう」といった哲学的な疑問をもっている人はたくさんいます。

そもそも哲学は、基礎概念をはっきりさせることを目的とする学問です。扱うテーマは何でもかまいません。例えば、体を構成する細胞はたえず入れ替わっていますが、すべての細胞が入れ替わっても別人になるわけではありません。そう考えると、「私って誰だろう」「人格ってなんだろう」という疑問がわいてきます。こうした疑問は、立派な哲学の問題といえます。ふだん当たり前に受け入れている基礎概念に興味をもって丁寧に考えること、それが哲学なのです。私はその対象が数学であり、とりわけ「証明とは何か」を、哲学と数学の立場から探っています。

数学の証明は絶対的なものではない!?

私たちの思考には、形式や法則があります。例えば、「早稲田大学の学生は賢い。花子さんは早稲田大学の学生である。したがって、花子さんは賢い」というのは真ですよね? 「早稲田大学に通っている人は学生である。したがって、学生はみな早稲田大学に通っている」というのは偽です。こうした推論は、誰もが無意識に使っているものですが、なぜ私たちの思考にはこのようなルールがあるのでしょうか。改めて考えるととても不思議です。

人間の思考のルール、すなわち論理を対象とする学問を「論理学」といいます。論理学のうち数学を対象とする分野を「数理論理学」といい、その中で証明を扱うものを「証明論」といいます。

数学における証明とは、ある命題が正しいことを論理的に導くための手段、いわば相手を説得するためのツールです。言葉で相手を説得するとき、どんな論理展開をするかは人によってさまざまであるように、実は、数学の証明も完全に決まったものではありません。例えば、「定理」と呼ばれるものでも、その証明の道筋を論理学的に分析すると、穴がある場合があるのです。もちろん、数学者のコミュニティが受け入れた証明は正しいことが多いのですが、穴があったり複雑になりすぎているために、現在の論理学では、こうした証明を機械的にチェックするツールも開発されてきています。

こうした状況が示唆しているのは、数学者によって証明をどう捉えているかは異なり得るということではないでしょうか。数学の証明には、その人の思考の個性が表れます。私はそれを研究しています。他人の頭の中を覗くことはできませんが、証明の構造や複雑さを分析することで、その人の頭の中で何が起きたかを知ることができるのです。私の研究では、数学の証明だけでなく、著述やノートの記録なども分析対象にしています。

人々を魅了する「無限」の不思議

私が特に興味をもっているのは、20世紀初頭に起きた「無限」をめぐる論争です。無限というのは非常に不思議な概念です。我々は無限のものを数えることはできません。無限は「極めて大きな数」と似てはいますが、ある意味、「人間の理解の能力を超えている」といえます。にもかかわらず、証明を使って示されると、無限について何故かわかってしまう。そうした無限のもつ魅力は、昔から多くの哲学者や数学者をひきつけてきました。

20世紀初頭、ラッセルという数学者は、それまで考えられていた無限の概念に矛盾があることを発見しました。これは「ラッセルのパラドックス」といわれ、大混乱をもたらしました。このときの論争の中心となったのは、フレーゲ、ブラウワー、ヒルベルトの3人。いずれも、19~20世紀の哲学・数学界の巨匠と呼ばれる人たちです。彼らはそれぞれ違う立場をとり、証明を使って無限についての議論を繰り広げました。特に、直観主義のブラウワーと形式主義のヒルベルトは、パーソナルに喧嘩をするほど対立関係にありました。2人は異なる学派であると今も考えられており、2人が行った無限の証明も、全く異なるタイプのものであるというのが共通認識となっています。

異なる学派を統一的に分析する学際的アプローチ

私は彼らの無限の証明を論理学の目で見ることで、共通する部分があることに気づきました。つまり、これまで異なる学派と考えられてきた直観主義と形式主義を、「証明とは何か」という大きな問いから統一的に見ることで、そこに共通基盤を発見できる可能性があるのです。

具体的には、直観主義数学の根本原理に「バー帰納法」というものがあるのですが、ブラウワー自身の正当化の議論は一種の仮定に依存しており、数学的には理解できないとされてきました。私は最近、ヒルベルト学派の証明論のツールを用いることで、このブラウワーの議論を数学的に再構成することを提案しました。ただ、この再構成がブラウワーの意図を十分に汲んでいるかには論争の余地があり、現在さまざまな研究者と議論をしているところです。

哲学と数学のバックグラウンドを活かせる強み

私が研究する上で重視しているのは、哲学と数学のバランスをとることです。実は、無限などの証明は、数学だけでなく、哲学的な部分もあるのです。特に直観主義であるブラウワーは、感覚的に処理している部分があります。どこまでが数学で、どこまでが哲学かを見極めるのも、大事な仕事の1つです。そこは、哲学と数学の両方のバックグラウンドをもつ私の強みであると思っています。

私の研究テーマは他にもいくつかあり、実際の研究では、哲学や数学の手法を駆使して複雑なことをしているのですが、根底にあるのは「証明とは何か」という非常にシンプルな問いです。哲学の議論は延々と続くので難しさもありますが、私のような学際的アプローチはほとんどなされていません。自分の強みを活かし、また、国内外の各分野の研究者らと積極的に共同研究をおこなって、大きなテーマに果敢に取り組んでいきたいと思います。

取材・構成:秦 千里
協力:早稲田大学大学院政治学研究科J-School

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