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Monthly Spotlight / 本田晃子

モスクワの建築と映画のモスクワ

雑誌から映画へ――メディアの中の建築

私は、ソヴィエト・ロシアの建築史をメディア論的な観点から研究しています。20世紀以降の建築史は、メディア論と組み合わさった形で論じるべきだと考えているからです。たとえば写真の登場で、建物も写真に撮られうるということ、つまり建築が写真というメディアを意識し始めますし、また同時にほとんどの人は建築物を目にする前に、メディアを通して建物を把握していて、実際に見る時も事前に把握した見方に影響されるようになりました。このように、メディアを通すことで従来とは建築の受容のされ方も変化し、建築とメディアは不可分の関係になっていったのです。ただ現状では、「映画の中の建築」などをテーマに組まれた特集はありますが、理論として研究書が1冊出ることはほとんどなく、相変わらず実際に建てられた物それ自体を論じる傾向が強いと感じます。ロシア本国においても、ソヴィエト・ロシアの建築をメディア論的に見た研究は、ほとんどなされていません。

一口にメディアと言っても様々ですが、私はオフィシャルな言説の書かれた建築雑誌に加えて、人々に広く鑑賞された映画を分析の対象にしています。建築雑誌はほぼ専門家しか読まないので、その影響力は限定的です。ただ、建築物をどういうふうに解釈すべきかということは書かれているので、その知識が徐々に、建築関連の専門家から他の知識人へ、つまり当然そこに含まれる映画監督へと広がって、最終的に映画の中で具現化されていきます。

なぜ映画を取り上げるかと言うと、当時テレビはまだ普及していませんし、識字率も徐々に上がっていくとはいえ新聞を読める人は限られていました。何より新聞は文字がメインで、ビジュアルなイメージとして写真を載せようにも限界があります。その点、映画は空間というイメージを丸ごと伝達する上で圧倒的に優れたメディアでした。自分の名前を書くのがやっとな人でも見に行けるメディアであり、当時の人は同じ映画を何度も何度も見に行ったりして、出てくるセリフも歌も衣装も全部覚えているぐらい、みんなが夢中になっていました。映画というメディアの影響力は、今からでは想像できないほど強いものだったのです。

図1: 雑誌『モスクワ建設』(1933年、5-6号)表紙

ソヴィエト宮殿というソ連政府主催の巨大建築コンペの最終案の姿に、レーニンのイメージをモンタージュしたもの。この号のほとんどのページが、ソヴィエト宮殿の特集に費やされている。ちなみに、党から雑誌記事の細かな内容について指令があったわけではなく、雑誌記者たちが自ら政府の方針を忖度して、このような表紙や記事を書いたものと思われる。


図2: 移動式映画を眺める人びと(1940年代)

                   時代的にも、軍帽の人がちらほら見られる点からも、おそらく戦場での一コマと思われる。

建築とメディア、そして権威

私は修士課程や博士課程では、ロシア・アヴァンギャルドの建築家を追っていました。彼らが活躍したロシア革命の時代は、すでにある権威を壊すことが象徴的な身振りとして非常に重要でした。ただ、権威を壊した後、スターリンの時代になると、新しい共同体を築くにあたっては、完全に平等な状態ではなく求心力が必要だというふうに変わっていきます。求心力を生み出すうえで権威が必要となり、権威をわかりやすく表すものとして、巨大な建物が求められるようになりました。アヴァンギャルドの建築家たちの目指した水平で透明な建物ではなく、ソヴィエト宮殿のように実現不可能なほど巨大な建物が計画されたのです。そしてこれらの巨大建造物は、たとえ実現されずとも、他ならぬメディアを通じてソ連邦全体に知られていきました。そこで今は、スターリン時代以降における「建築」「メディア」「政治的権威」という三者の関係性について、映画を中心に論じようとしています。

イメージの建築家としての映画監督――アレクサンドロフ『輝ける道』

第二次世界大戦前、スターリンはモスクワ大改造計画を打ち出し、モスクワの町をモニュメンタルで、もっと整備された状態に変えようとしました。すると、映画監督もまさに変化しつつあるモスクワの街を背景に作品を撮影しはじめる。中には変化するモスクワの街そのものが主人公であるかのような作品(メドヴェトキン『新モスクワ』1938年)も現れました。

同様に、新しいモスクワを舞台に選び、当時高い評価を得たグレゴリー・アレクサンドロフ監督の『輝ける道』(1940年)という映画があります。このラストシーンは実在する全連邦農業博覧会の会場で撮影されたのですが、映画で描き出される建築空間は、建物の配置などが実際とはまったく違います。監督自身がイメージの建築家として、実際にある建築のイメージをかき集め、別の建築空間をスクリーンの上に作ったからです。つまり、建築がメディアの中のコンテンツになることによって、現実のものとは矛盾する空間に変質してしまったのです。

実は当時、地方に住んでいる人がモスクワへ行くのは本当に難しいことでした。集団化などで住む場所を失った農民が大都市に流れ込んでくるのを抑えようと、政府が移動を制限していたからです。すると、地方の人には撮影された空間と現実の空間の矛盾が全く知覚できません。映画の中で理想のモスクワがリアリスティックに描かれてしまうと、どこまでが書き割りのモスクワで、どこからが本当のモスクワかわからない。何となく虚実のイメージの複合体としてモスクワを受け取ってしまう現象が起こるわけです。しかも映写環境も現在ほどよくはないですし、その中で見たらフィクションの部分と現実の部分との境界はさらに危うくなったことでしょう。

図3: 『輝ける道』ラストシーンより

映画『輝ける道』の博覧会の場面に登場する、グルジア共和国パヴィリオンの内部。室内にもかかわらず、背景には聳え立つソヴィエト宮殿(実現されなかった上に、博覧会会場からはずっと離れた場所に建設される予定だった)が見えている。

建築空間の神話

スターリン時代、建築は映画の中で非常に重要でした。建築を通して権威が表象され、さらに映画として撮られることでいっそう増幅されることになります。『輝ける道』で描かれた建築のイメージもまた、スターリンの個人崇拝と結び付けられました。このように、モスクワにあった特定の建築物が神話化されていったのです。ところがフルシチョフ時代になると、そうした神話は批判を受けることになります。加えて党は、プロパガンダの手段としての建築の限界に気付き始め、もはや建築はそこまで主要な役割を演じることもなくなっていく。大きな建物を造るよりも、むしろ宇宙船を打ち上げた方がよほど世界の注目を集められるという点に気付くのです。

とはいうものの、現実に建築空間が残っている限り、ある程度の影響力は残っていきます。ならば、90年代のソ連崩壊直後も含めた時期までに、スターリン時代で成立した建築空間の神話が、どのような批判を受けて変容しつつ生き延びたのか、あるいは息を引き取ったのか。建築空間の神話がメディアを通じてどのように変化したかを、長いスパンで捉えていかなければならないと考えています。

取材・構成:青山聖子/谷川 舜
協力:早稲田大学大学院政治学研究科J-School

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