NO.886 Nov.18,1999
『早稲田大学と文学』


 芸術の秋、読書の秋。秋の夜長、コーヒーを片手に普段は手にしない文学作品を手に取ってみるのも一興だろう。読者の皆さんは、日本の文学史に、本学が大きな足跡を残していることをご存じだろうか。今回の特集では、創立以来百十七年の間に多くの文学者を輩出した本学の”文学力”を探ってみることにしよう。

 『早稲田文学』という雑誌があるように、本学と文学との関わりは深い。本学からは有名無名を問わず数多くの作者を輩出しているばかりではなく、本学における文学の歴史も長い。
 本学出身の文学者の名前を考えてみると、演劇博物館を設立し、わが国の演劇に偉大なる足跡を残した坪内逍遥に始まり、自然主義文学の先駆者とされている国木田独歩(一八七一〜一九〇八)、大正期の演劇に大きな影響を与えた島村抱月(一八七一〜一九一八)、校歌を作詞した相馬御風(一八八三〜一九五〇)、児童文学に多くの名作を残した小川未明(一八八二〜一九六一)、日本の詩歌に燦然と輝く名作を残した北原白秋(一八八五〜一九四二)、一昨年記念博物館も創設された歌人の會津八一、推理小説界の巨人・江戸川乱歩など、枚挙に暇がない。
 また、尾崎士郎の『人生劇場』や五木寛之の『青春の門』など、作品の中に本学が登場したり、登場人物が本学と関わったりする作品も数多く残されている。
 これらのすべてを網羅することはとても不可能なので、この特集では、読者の皆さんに馴染みのあるものを幾つか紹介していくことにしよう。

1.『人生劇場』と尾崎士郎

 今でもコンパなどで『人生劇場』を歌う人がいるのではないだろうか。奥島孝康総長がこの歌をこよなく愛していることはつとに有名である。
 尾崎士郎(一八九八〜一九六四)の代表作である『人生劇場』の主人公・青成瓢吉(あおなり・ひょうきち)は、尾崎士郎自身がモデルであるとされているのはご承知の方も多いかもしれない。大正時代の学生運動に身を投じた青成の生き方は、多くの読者の支持を集め、舞台化され、そして歌にもなった。
 本学の学生たちの心意気を示すものとして『第二校歌』とも呼ばれているこの歌は、一九三七(昭和十二)年に古賀政男作曲、佐藤惣之助作詞で発表され、大ヒットとなった。しかし、間に挟まれている口上は、誰が作ったものかは正確にはわかっていない。ただ、歌が発表される数年前に上演された『人生劇場』の宣伝文句が原形であったのではないかとされている。ここに、その口上の一部、本学に関係のある部分と、四番の歌詞を紹介しよう。
☆ 口上
 早稲田の杜が芽生く頃、花の香りは沈丁花、人生意気に感じたら、ビクともするなと銅像が、ビクともせずに風に立つ。崩れかかった築山は、江戸の昔の高田富士。(中略)
 昨日も聞いた今日も見た、早稲田の杜に青成瓢吉の出るという。御存知尾崎士郎原作『人生劇場』の一節より。(後略)

☆ 『人生劇場』歌詞四番
端役者の俺ではあるは
早稲田に学んで 波風受けて
行くぞ男の この花道を
人生劇場 いざ序幕
 人生意気に感じて生きる青年の姿が浮かび上がってくるこの作品、本学に所縁の深い、忘れられない作品の一つである。

2.坪内逍遥の残したもの

坪内逍遙博士  昨年創立七十周年を迎えた演劇博物館。坪内逍遥の古稀の記念に建設された、東洋随一の演劇資料を収めた博物館である。
 文学と演劇は切り離せない密接な関係にあり、戯曲という形式の文学作品が、舞台で演じられてそこに新たな生命を吹き込まれる。本学から巣立っていった演劇人も数多いが、ここではその先駆けであった坪内逍遥(一八五九〜一九三五)について触れてみたい。
 坪内逍遥が日本の近代劇に与えた影響は数多くあるが、何と言ってもその筆頭に挙げられるのが、シェイクスピアの完訳であろう。日本で初めてシェイクスピアの全作品を翻訳するという偉業を成し遂げ、後に続く演劇人の先達となった事は言うまでもない。その後、数多くの人々がシェイクスピアの作品を翻訳しているが、その嚆矢となった業績は偉大である。
 ここで、面白い例を一つ紹介しよう。誰もが知っている『ハムレット』第三幕第一場のハムレットの独白。「生か死か。それが問題だ」という科白は、『ハムレット』を観た事がない人でも知っているだろう。この科白を日本で初めて訳した坪内逍遥は、次のように訳している。「存(ながら)ふるか…存へぬか…それが疑問ぢゃ」。明治時代の香りが残る文語調の香気高い訳語は、今から思うと隔世の感がある。
 坪内逍遥が残した業績は、シェイクスピアの全訳や演劇博物館の創設だけに留まらない。自ら筆を執り『桐一葉』や『沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』などの歌舞伎作品を残す一方で、従来の江戸の戯作と欧米の小説との差異に思いを潜め、一八八六(明治十八)年には『小説神髄』を発表している。これは、当時における新しい文学理念の確立の先駆けであり、心理主義的写実主義の原理を体系的に説くものであった。この小説が後の文学に与えた影響は大きく、自らもその実践として『当世書生気質(かたぎ)』を発表している。
 また、演劇方面では一九〇六(明治三十九)年に文芸協会を旗揚げして、旧来にない新劇の草創期に大きな役割を果たしたことも見逃せない。『ハムレット』やイプセンの『人形の家』など、海外の作品を次々に上演し、日本における近代劇上演の基礎を作ったのである。

3.會津八一と早稲田大学

学規  會津八一(一八八一〜一九五六)は東洋美術の研究者であると同時に、個性溢れる高雅な書家として、また奈良の風光と美術に魅了された歌詠みとして知られている。古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱』、同著にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。
 會津八一と本学との出会いは、一八九九(明治三十二)年八月、本学の前身である東京専門学校の巡回講演で、坪内逍遙の講演を目の当たりにしたことが最初だった。その後、一九〇二(明治三十五)年に東亰専門学校高等予科に入学。翌年には早稲田大学文学科(前年九月に早稲田大学と改称)に入学して、英文学を学ぶことになった。
會津八一博士  卒業後、新潟県下の有恒学舎の英語教師を経て、一九一〇(明治四十三)年、逍遙の推輓(すいばん)により早稲田中学の英語教師に就任。早稲田高等学院、早稲田大学で英語や英文学を講じる傍ら、美術史学の研究を進め、一九二六(大正十五)年には本学文学部の講師として東洋美術史の講義を始めることになった。
 會津八一は同年に『早稲田大学新聞』に発表した「実物尊重の学風」で「学問をしてゆくに、実物を能く観察して、 実物を離れずに、 物の理法を観てゆくと云うことは、何よりも大切なことだ。どれ程理論が立派に出来上がって居ても何所かに、 実物を根底にする真実性が含まれて居なければ、即ちそれは空論だ、 空学だ。 取るに足るものではない」と述べている。
 さらに、「自分は自作の書画を売って教材用の材料を買っているが、これだけでは足りない。早稲田には多くの学生がいるから、学生諸君がこういう点に理解をもたれると長い間に一大コレクションができる。新築の図書館と同じ位の大きさの博物館がわが学園の 一隅に聳え立つ日の一日もすみやかならんことを祈る」と結んでいる。
 會津が早稲田大学で初めて博物館の設置を提唱してから、すでに七十年以上の月日が経った。かつての會津の思いをいくらかでも活かした博物館が、 今井兼次設計の旧図書館(西早稲田キャンパス二号館)を再生して開館したのは皆さんもご存じの通りだろう。

4.巨星・江戸川乱歩の足跡

 先頃、江戸川乱歩原作の『双生児』が映画化されるなど、現在も乱歩の人気は落ちていないようだが、乱歩が本学の出身であることは以外と知られていないかもしれない。
 江戸川乱歩(一八九四〜一九六五)は本学政治経済学部在学中から、エドガー・アラン・ポーやコナン・ドイルなどの海外の推理小説を耽読し、自らも習作や翻訳に手を染めていた。その筆名がエドガー・アラン・ポーに由来しているのは有名なエピソードで、ご存じの皆さんも多いだろう。
 一九二三(大正十二)年に『二銭銅貨』『一枚の切符』を雑誌『新青年』に発表。それから明智小五郎、怪人二十面相など、今もお馴染みのキャラクターが登場する傑作を次々に発表、一躍文壇の寵児となった。乱歩の発表する小説は、一方では少年向けの探偵小説、一方では乱歩独特のおどろおどろしさを持った独自の世界を築いたもので、読者の支持を得たのである。
 そんな乱歩だからだろうか、夜中に土蔵に籠もって、蝋燭の灯りをたよりに一人で怪奇小説を書いているなどという風説がまことしやかに流されたりもしたのである。
 乱歩が日本の推理小説界の草分けであることは紛れもない事実だが、乱歩の残した足跡はそれだけには留まらない。推理小説に関する研究や評論にも優れた作品を残す一方で、後進の作家の育成にも力を注いだ。一九五四(昭和二十九)年、自ら江戸川乱歩賞を制定し、優秀な作品に賞を与えることで新人作家の発掘と、推理小説界の発展に寄与した功績は大きく、賞は今でも続いている。本学出身者にも受賞者は多く、『浮世絵三部作』の高橋克彦さん(七十五年商卒)、『逆説の日本史』の井沢元彦さん(七十七年法卒)、『魔界水滸伝』や『グイン・サーガ』などで多くの人気を集めている中島梓(栗本薫)さん(七十五年文卒)らが同賞を受賞している。

5.天才・鬼才寺山修司

寺山修司  青森県出身で、天才・鬼才の名をほしいままにして幅広い活躍を見せ、四十七歳の若さで早世してしまったのが寺山修司(一九三五〜一九八三)である。
 本学教育学部を中退後、さまざまな活動をする寺山は、すでに十五歳で雑誌『青蛾』を発行、十六歳で俳句雑誌『牧羊神』を創刊するなど、早熟ぶりを見せていた。十八歳の時には短歌研究の新人賞を受賞し、歌壇にデビューしている。
 身体が弱く、在学中からネフローゼなどで入退院を繰り返すが、その短い生涯の間に、凝縮された才能が一度に爆発したような活躍ぶりを見せた。以来、歌人、詩人、小説家、劇作家、演出家、映画監督、シナリオライター、文芸評論家と、幾つもの肩書きを持つが、どの分野においても縦横無尽の活動でその才気を示し、天才とも鬼才とも呼ばれた。
 中でも寺山が最も興味を持ったのは演劇で、自ら劇団『天井桟敷』を主宰し、前衛的な演劇活動に精力を傾けた。その第一回公演として一九六七(昭和四十二)年、三十一歳の時に『青森縣のせむし男』を発表。その革命的な演劇は若者の熱狂的な支持を受けた。以後、美輪明宏の伝説的な舞台となり、今日も上演が繰り返されている『毛皮のマリー』や、『書を捨てよ町に出よう』などの傑作を次々に発表していく。現在も寺山作品を上演する劇団は多く、その人気の程がうかがわれるだろう。
 時代を駆け抜けるかのように生きた天才・寺山修司。一昨年には故郷の青森県・三沢市に記念館がオープンした。文学碑が立つ記念館を訪れ、寺山修司を偲ぶファンは今も後を絶たない。
■寺山修司記念館 三沢市大字三沢字淋代平116-2955 TEL0176(59)3434

 この特集では、本学における文学の一端を垣間見たに過ぎない。ここでは取り上げなかったが、多くの文学者たちが長い歴史の中で本学の文学の歴史を築いて来たのである。機会があれば、また他の人々にもスポットを当てることにしよう。
(参考文献:『早稲田と文学の一世紀』早稲田大学図書館編、協力:寺山修司記念館、會津八一記念博物館、坪内博士記念演劇博物館)

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