NO.886 Nov.18,1999
『早稲田大学と文学』
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☆ 口上 早稲田の杜が芽生く頃、花の香りは沈丁花、人生意気に感じたら、ビクともするなと銅像が、ビクともせずに風に立つ。崩れかかった築山は、江戸の昔の高田富士。(中略) 昨日も聞いた今日も見た、早稲田の杜に青成瓢吉の出るという。御存知尾崎士郎原作『人生劇場』の一節より。(後略) |
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☆ 『人生劇場』歌詞四番 端役者の俺ではあるは 早稲田に学んで 波風受けて 行くぞ男の この花道を 人生劇場 いざ序幕 |
昨年創立七十周年を迎えた演劇博物館。坪内逍遥の古稀の記念に建設された、東洋随一の演劇資料を収めた博物館である。
會津八一(一八八一〜一九五六)は東洋美術の研究者であると同時に、個性溢れる高雅な書家として、また奈良の風光と美術に魅了された歌詠みとして知られている。古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱』、同著にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。
卒業後、新潟県下の有恒学舎の英語教師を経て、一九一〇(明治四十三)年、逍遙の推輓(すいばん)により早稲田中学の英語教師に就任。早稲田高等学院、早稲田大学で英語や英文学を講じる傍ら、美術史学の研究を進め、一九二六(大正十五)年には本学文学部の講師として東洋美術史の講義を始めることになった。
青森県出身で、天才・鬼才の名をほしいままにして幅広い活躍を見せ、四十七歳の若さで早世してしまったのが寺山修司(一九三五〜一九八三)である。