第875号 Jul.8,1999

■フリートーク「電車の中ではご注意を」

 電車通学中、いつもハイヒールのコツコツ鳴る音には過敏に警戒してしまいます。高校生のとき、通学途中のラッシュでハイヒールに踏まれたことがありました。幸いかかとの先があまり尖っていなかったので、貫通はしませんでしたが、あまりの痛さに声も出なかったのを覚えています。あの時先が尖っていたらと思うとぞっとします。ファッションで履いていると思うんですが、それ以来凶器に見えてきました。

 スチュワーデスがかかとの高いハイヒールを履かなくなったのは、かかとの先が尖っていることによる弊害のためだそうです。かかとの先が尖っているためにそこにかかる重み(圧力の大きさ)のために、飛行機の床がぼこぼこになってしまうからです。ハイヒールの威力が良く分かる例だと思います。

 またテレビでしばしば言われているように、健康上かなり良くないようです。足先が圧迫され、生理機能や内臓にも悪影響があります。人は、踵から足先にかけて足の裏全体がつくように歩くことで体全体の血液の流れを良くしているので、足先だけで歩けば血流は悪くなります。最悪の場合体質が変わってしまうこともあるようです。また、そのままにしておくと内半拇指や外反拇指など足の骨も変形してしまうので、ハイヒールを履く人は、毎日家に帰ったら親指と小指を横に引っ張ることで指のストレッチをしたほうがいいそうです。

 先が尖っているヒールに踏まれたら、恐らく貫通するか骨が折れるでしょう。今までにそのような被害に遭った人は聞いたことがありませんが…。ただひどいラッシュ時ではそういうことも起こり得るので、時にハイヒールが凶器になることも頭の片隅にでもとめておいたほうがいいのではないでしょうか。それから、特に電車の中ではハイヒールを履いている人が転ばないように注意しましょう。ハイヒールによるさまざまな弊害はバカになりませんから。

(理工1年 ラッシュ通学者)


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第874号 Jul.1,1999

■フリートーク「授業時間中の歌の練習について」

 歌の練習をしている声が、授業中ずっと聞こえていることがあります。教室のすぐそばで歌っているのでなくても、一階で歌っているだけで、三階の教室や、ドアを閉めた一階の教室の奥まで聞こえてきます。これが気になるかどうかは人によって違うとは思いますが、歌声が聞こえていると先生のお話に集中できなくなったり、子守唄になってしまうのは、私だけではないだろうと思います。

 練習をするのにちょうどよい場所を見つけるのが、難しいかとは思いますけれど、その時間に講義を受けている者としては、歌声に妨げられずに授業を聞きたいのです。授業時間中に、校舎内やその近くで練習するのは、遠慮していただけたらと思います。

 直接本人に伝えるべきなのかもしれませんが、直接は申し上げづらいのと、授業が終ったときには歌声も終わっていてどの人だったのか分からないことが多いので、この場をお借りしてお願いさせていただきます。

(法3年 ゆう)


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第873号 Jun.24,1999

■フリートーク「勉強会のすすめ」

 大学院の有志でやっている勉強会が、とても充実している。大学院の授業は小人数。多くても十五人ほど、少ないと三人ほどで先生と向き合う。当然、テキストは読まなければならないし、少人数での議論となれば内容もある程度は理解していないと進まない。

 そこで、授業に備えて、有志で予習しようという算段。毎週金曜日、授業が始まる前の一時間に、この勉強会をやっている。毎回希望者がレジュメを作り、それをもとに疑問点を挙げていく。わかっていたつもりのことでも、聞かれて説明しようとすると、内容を咀嚼していないことに気づく。話しながら、自分の言っていることがよく分からないのだ。

 「こういう勉強会が全部の授業にあればいいのに」とは出席者の弁。勉強会のあとの授業で、先生の問題提起に「これ、さっき話し合ったな」とひらめくことがある。かくして、勉強会の意義を確信する。

 勉強会と授業に続く、昼食の時間。年配の入学者とカレーでも食べながら、今度は企業での経験に耳を傾ける。この勉強会をきっかけに、ずいぶんとまた「知」の世界が広がっていきそうだ。

(政研修士1年 秋葉 丈志)


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第872号 Jun.17,1999

■フリートーク「教員リレーエッセイを読んで」

 今年度から新しく始まった連載「教員リレーエッセイ」を読みました。今迄、『教授』と聞くと、とても遠い存在のような気がしていました。けど、このエッセイを読んで、先生の学生時代の様子や、時代をリアルに感じる事が出来て、凄く『意外』と同時に、『身近』な感じがして(とても失礼なんですが…)、嬉しく思いました。

 残念ながら、私は学部が違う事もあって、第一回目の大野先生を知りませんでした。けど、このエッセイを通して、他学部の先生方のお話を聞けるのも、また私の楽しみになりました。早稲田は、とにかく人が多いですから、出会える人もほんの一部だと思います。でも、例え紙面を通してだけだとしても、普段では出会えないと思われる方々のお話を聞けるのは、とても貴重だと思います。

 これからのエッセイ、楽しみにしています。

(法3年 キティ)


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第871号 Jun.10,1999

■フリートーク「雑感」

 今年度の早慶戦はまことに素晴らしかった。夕暮れの神宮からワセダまで高歌放吟、おうおうと雄叫びをあげつつ、諸手を振りつ、陶酔の絶頂のなか夜の薄墨は十号館の前で、我が同胞と肩組み都の西北を歌えば、両頬は熱い涙に溢れていました。

 あの日ほど、何もかも空っぽにして叫び、あれほど深く、我らがワセダを誇った日はありませんでした。勝利の美酒にも、大いに酔いました。しかし私は、ワセダとワセダの人々、そしてワセダである自分に、恍惚となるほどに酔いしれていました。わがままに、またあからさまに、何かを愛することのできる時間、これを青春と呼んでよいものなら、私はこの青春をこの先、恥ずかしげもなく誇り続けるのでしょう。

(教育4年 里 憲治)


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第870号 Jun.3,1999

■フリートーク「製糸工場が消えてゆく」

 ゴールデンウィークに久しぶりに故郷に帰って、残念なニュースを耳にした。近所の小さな製糸工場が取り壊しになってしまうという。

 明治維新の世になってから、富国強兵と殖産興業政策の担い手として、製糸業は花形産業だった。外国人技師を沢山招聘し、技術導入を積極的に図り、多くの官営工場が建てられ、地方の資本家も製糸業に数多く参入した。そこでは出稼ぎに出された貧しい農家の娘たちが、過酷な労働条件に耐えながら、労働者として雇用された。激動の時代において、製糸工場は“欧米に追いつけ追いこせ”を目標に置いた日本の資本主義の発展を陰で支えていた。

 山形県の置賜盆地の田園の中にひっそりと立つその工場も、そんな時代の嵐が吹く中で建設された。以来、建替えられることもなく、今でも当時のままのたたずまいを見せている。木造の古びた工場の上にそびえる大きな煙突、白塗りで趣のある蔵。一歩足を踏みいれると明治の日本を垣間見ることができる。かつてそこで、大竹しのぶ主演の映画「あゝ野麦峠」の収録が行われ、その姿が広く全国に紹介されたこともある。

 大正デモクラシーの世に変わっても、戦争が続く悲しい時代になっても、高度成長で農村から少しずつ人が消えていっても、バブル経済が押し寄せてきても、その製糸工場はいつも変わらぬ姿を見せ続けていた。それは小さな農村で暮らす人々にとっても大きな自慢だった。だが、世紀末の時代の大波に耐えられなかったのだろうか、ついにこの夏に姿を消すことになる。

 かつて母に連れられ工場の中で遊んだ思い出が懐かしくなり、私はふとその工場を訪ねてみた。激動の時代を生き抜いた、たくましきその建物にさよならを言う前に、工場を背景に記念写真を一枚撮った。写真には、百年の歴史と、沢山の人たちの汗と涙が写っているような気がした。

(経研2年 MASA)


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第869号 May.27,1999

■書評「大量絶滅を読んで」

 地球における生命種は過去六億年間に六度の大量絶滅を経験した、と某雑誌に記されていた。私は大量絶滅というと、隕石衝突が原因の一つであると考えられている恐竜の絶滅(六千五百万年前)だけであると思っていたので大変驚いた。六度の絶滅の中でもケタ違いの大量絶滅は、二億五千百万年前のP/T境界絶滅事件と呼ばれるものである。

 時代を追って生物の種類の数を表す折れ線グラフをみるとその凄まじさが一目で分かる。この時代、というより点といった方が相応しいのだが、この時に線が急激に、まるで絶壁から真っ逆さまに落下したように下降する。これまで増え続け、何の疑問もなく生を享受していた生物が、無残にも誰に裏切られたのかも分からず、悉く絶えた。このように世界を一変させた原因は、超大陸の分裂にあると現在考えられており、この大陸の分裂を引き起こす原因はマントル内の高温の巨大な上昇気流であるスーパープルームの活動にあるということである。この巨大なきのこ雲のような形をした上昇気流によって地殻が押し上げられ、大規模な火山活動が始まり、分裂が引き起こされる。そしてこの二次現象は核爆発のそれと似ている。

 私は当たり前のように今日を生きて、明日を迎えようとしている。それすら傲慢に思わせてしまう何者かに対して、恐ろしさを感じるよりも、ただ茫然としてしまった。そしてほんの一部分の表層で齷齪生きていることに自嘲してしまうのである。妙に陰鬱な文章になってしまったが、一方ではこんな大きな圧力をくぐり抜け、生き延びてきた生物の強さに何か微笑ましさを感じる。今日もこの下で地球は胎動している。そんなことを思いながら軽く地面に触れてみた。

(社学4年 齋藤 理詠)


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第868号 May.20,1999

■フリートーク「マスコミの誇張に不満」

 TBSで、「公務員の平均ボーナスは八十二万、企業の平均ボーナスは四十五万。二倍近くも違います。公務員だけが甘い汁を吸っています」という報道があった。この公務員だけという誇張に腹が立った。平均値だけだと一見誇張したようには見えないだろう。ところが、平均値というのが曲者だ。ボーナスにだって下から上まである。しかもこの公務員の平均は、議員や官僚、知事や市長といった上の方のボーナスが相当高いためにこれだけ高くなっている。実際ほとんどの一般公務員はここまでいかない。一方、企業の方は工場労働者などボーナスが低い人が多いために平均は低くなっている。

 こういった報道のためか、「公務員は裕福でいいわねえ。給料も安定しているし」などと耳にすることが多くなった。確かに、地方に行けば比較的にやや裕福なのだろう。しかし、それがそのまま都市部に当てはまるわけではない。一般公務員の年収は都市部の平均年収に比べるとかなり渋い。僕の家庭などは、同じマンションで他にこれ以上年収が低い家庭がないというくらいだ。具体的な数字を言えば、手取りで七百万強。これならまだ同じ公務員でも小・中学校、高校の先生の方が年収はいい。一般公務員の年収などこの程度だ。これだと、都市部ではかなり厳しい。どこで甘い汁など吸えるのだろうか。

 公務員で裕福なのは、官僚や議員など一部の上の役職者だけだ。そのうえ研修旅行などで税金を食い物にしているのに限って、そういった連中ばかりなのである。だからあれだけ必死に選挙活動するのだろう。縁の下の力持ちは贅沢な生活などできない。

(理工1年 一般公務員の息子)


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第867号 May.13,1999

■フリートーク「大学の授業」 

 去年入学したばかりの頃、私は大学の授業についてほとんど知識がなかった。そのため当時は、授業がひどく無味乾燥気味であったり、熱のこもらないものであっても、少々失望もしたけれど「大学の学問とはこういうものなのだから仕方がないのだ」と思いあきらめていた。

 そして一年が過ぎ、新たに講義を選択する段になった。今年もそんなに変わり映えはしないだろうと思いつつも、一縷の望みを抱いて私は、講義要項を隅から隅まで読み、できる限りの資料を見て講義を選択した。

 その結果、去年一年間の思いは一蹴された。

 早稲田に来たからこそ受けられる、興味深いアカデミックな講義。一方的ではなく学生の反応を見て進める授業。「象牙の塔」的な専門の研究を、ずぶの素人同然の学生にも分からせようとする教授の姿勢。淡々とした口調の中にさまざまな知識が織り込まれて、こちらを引き付けて離さない教授。

 同じ大学か、と思うほどの変化だった。

 そして何より、教授を媒介に入ってくるさまざまな知識や考え方は正に衝撃だった。これは決して大げさに言っているのではない。あまりの感激に親や友達に触れまわった程なのだ。これは影響を受け易い私の性格が関係しているのかもしれないが、これほど感激することはそうないだろう。

 わざわざ奨学金を借りて入っただけのことはある、と親子で満足する日々である。

(政経2年 マルサの女)


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第866号 May.6,1999

■フリートーク 「私のヒロイン」

 トロンボーンの音色の美しさを初めて私に教えてくれたのはNさんだった。

 忘れもしない。大学一年の春、「練習風景だけでも見ていかない?」と誘われて恐る恐る部の練習場に足を踏みこんだあの日。

 曲はレスピーギの「ローマの祭り」第一楽章だった。小さな体で大きなトロンボーンを力強く吹くその姿がとても印象的だったのを覚えている。Nさんのソロを聴いて、トランペットが吹きたかった私は希望パートを慌ててトロンボーンに変更した。

 マーチングドリルという演奏形態がある。ヨーロッパの近衛兵を思わせるような衣装を身にまとい、次々と隊形を変えながら演奏する。音楽と一口に言ってもいろいろあるけれど、見る者もそして演奏する側もあれ程熱くする音楽形態を私は知らない。

 幕が上がる。スポットライトがステージを浮かび上がらせると、観客はどっと歓声をあげる。

 「観客の喉をかき枯らすくらい盛り上がるようなドリルにしろ」。それが当時の指揮官(ドラムメジャー)からの御達しだった。一年の秋の演奏会で私はNさんと同じステージに立てたことをとても嬉しく思う。

 スポットライトの光をいっぱいに浴びて、ソロを吹き終わった後、敬礼をしたNさんの横顔を私は一生忘れない。ケビン・コスナーだって、ロバートレッドフォードだって、あんなりりしい敬礼はできないだろう。笑顔の似合う温和な顔がその時きりりとひきしまり、大きな瞳から溢れる心のしずくがキラリと光った。

 あの時、Nさんが輝いて見えたのは決してスポットライトのせいなんかじゃない。熱いハートで懸命に数々のハードルを跳び越えてきた者のみが持つエネルギーが体外発散された時の光なのだ。

 普段は滅多にメロディーを吹くことのない目立たないつつましやかな楽器。だけど強さも、やわらかさも、しなやかさも、優しさも、雄大さもすべてもっている――トロンボーンはたぐい稀な奇跡の楽器だ。

 そしてそのトロンボーンが世界で一番似合う女性――それがNさんだと私は思う。

(教育3年 川平 理笑)※学年は昨年度


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第865号 Apr.22,1999

■展覧会の感想 「「シルクロードへ」

 閉場の二日前、予てから行こうと考えていた“シルクロードのかざり”展へ足を運んだ。それは冷たい風の吹く冬空の午後だった。その広告はシルクロードの絨毯を紙にしたようなもので、鮮やかな紅を背景に幾何学的な紋様が敷きつめられていたが、私はこの紅と紋様に惹かれ、そしてなによりシルクロードという言葉に憧れていた。

 入場券を購入し、いざ展示場へ向かう。いつも感じることだが、会場に入る時、まるで異空間に足を踏み入れるような恐れを抱く。一瞬その恐れで躊躇し、内の様子を窺ってしまうが、そんな妙な葛藤をした後、えいっ、とばかりにその世界に突入する。その瞬間なにか神聖なものに土足(もちろん土足)で踏み込んだ気がして罪悪感と畏れで硬直してしまうが、同時にある種の安堵感も持つのである。

 さて、こうして異空間の住人となったわけだが、果たしてそこはシルクロードだった。服やベルト、髪飾り、水差し、カップ。彼らが普段使っている“かざり”がそこにあった。このようなものを見ていると、すぐそこへ行きたい! と思ってしまうのだが、これらの“かざり”を見ているうちに、今までにはない考えが飛び込んできた。

 私は今冬空の下、“シルクロードのかざり”に触れている。そのまさにその時もこれらを身に纏い、歩いて生活している人たちが確かに在る。私がシルクロードを見ている時と彼らがシルクロードを生きている時は同一線上にあり、決してその瞬間出会うことはないけれど、同じ時を生きている。そう感じるとなんだか急に嬉しくなってきた。

 物理的に私はそこへ行ってはいない。けれども、こころがシルクロードを旅することができたのだ。

 シルクロード、それは東と西をつなぐ道。時空を超えてつなぐ道。

(社学3年 夢見る少女)※学年は昨年度



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第864号 Apr.15,1999

■フリートーク 「本に書き込みをしているあなたへ」 

 大学の図書館を利用していて気になることがあります。本への書き込みです。

 鉛筆なら消すことができますが、中にはボールペンや蛍光ペンで書き込まれているものもあります。

 図書館の本は、将来にわたって保存されるべき貴重な知的遺産であることは言うまでもありません。したがって、知的遺産である本に書き込みをすることは絶対に許されることではありません。

 どうしても書き込みをしたいのであれば、コピーをとるか、あるいは実際に購入していただき、存分にやっていただきたいと思います。

 以前本欄に、図書館でお金を盗まれたという投稿が掲載されたと記憶していますが、最高学府に身を置いている以上、お互いにルールを守って、気持ちよく図書館を利用したいものです。

(文研3年 財津 信也)※学年は昨年度


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第863号 Apr.l8,1999

■フリートーク 「―卒業に際して―」

 私は今春早稲田大学を卒業する者である。卒業に際し、大学生活を振り返って私が心残りに思っていることを、自省も含めて最後に書き残しておきたくなり筆を執った。

 高校時代、私の学校生活の基軸は「挨拶」であった。登校時に守衛さんに挨拶、教室に入って友人に挨拶、朝礼で挨拶、授業の始業時と終了時に挨拶、廊下ですれ違う来客の方や保護者に挨拶、トイレや洗面所で用務員さんに挨拶、部活の時でさえ、使い終わったテニスコートに向けて「ありがとうございました」と一礼するのが当たり前となっていた。

 しかし大学ではまるで正反対の生活を送ることとなった。何気なく始まる授業、教授が「今日はここまで」と言い終わるのを待たずに学生は次々と席を立っていく。廊下では用務員さんが清掃しているとそのそばを邪魔だといわんばかりに一瞥しながら通り過ぎていく。更に空缶、たばこの吸い殻、ガムなどを平気で周りに捨てていく。図書館の貸し出しの際も、何も言わずに本を係りの人に向けて投げ出して後は知らん顔である。

 「挨拶」をしなくても大学生活に何の支障もきたさないが、「挨拶」があればもっと人間味のある生活が送れるだろう。そして同時に、自分がどれだけ多くの人と関係しているかも実感できるはずである。新学期の始まりに、声を出さなくても、とりあえず一礼することから始めてみてはどうだろうか。

(教育4年 ゆうこ)※学年は昨年度


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