
1969年6月24日、高野悦子、鉄道自殺―。
高野悦子という一人の少女を「高野悦子」たらしめるものは何だったのか。
明るい時代だった。日本が高度経済成長という昇り坂のある時代だった。だが、暗い時代でもあった。急速に変わる社会を眼の前にして、なにかが忘れ去られようとしていた。激動の歪みに耐えきれなかった人々はそれに対して、何らかの形で突き付けを試みた。彼女もそんな一人だった。大学とは何か、恋愛とは何か、日常とは何か。そんな問いに正面から向き合った彼女の生のもがきがこの手記には描かれている。
幸か不幸か、とにかく彼女はこのように生き、このように死んでいったのだった。自殺する直前にかかれた詩には悲しみと同時にどことなく爽やかさが漂っている。達観したともいえるのかもしれない。
人の人生とは、一つのドラマとして完結した時にはじめて解釈可能な客観的なものとなり得る。彼女は「生きるとは何か」という疑問を発し続け、それを「死」という不可逆的な極限の状態のもとで実現したのかもしれない。
それぞれにそれぞれの人生がある。だからこそ私たちは「生きるとは何か」をそれぞれに問い続けなければならないのだと思う。だが、ひょっとしたら生きているうちに答えは見つからないかもしれない。でも、それはそれでいいのではなかろうか。ひとの一生とは、常に模索の連続であり、過程でもあるのだから。
(法2年 剛田ゴン)
私は毎日、約二時間かけて早稲田大学まで通ってくる。つまり都心からはずいぶんと離れた場所に住んでいるわけで、自然も豊かである。
自然が豊かなこの地域では、季節の移り変わりが、そのまま色の変化として現れる。私が日本には四季があってよかった、と思うのは、その四つの季節だけでなく、春から夏、夏から秋…と変わる間がとても好きだからだ。その変化を、ここでは五感をもって感じることができる。私が特に好きなのは、夏から秋の変化だ。日が落ちるのが早くなり、秋の虫が飛び始め、鳴き始める。特に今年はとんぼが大発生。自転車で走っていて踏みそうになったくらいだ。柿の色が、まだ黄色のような橙色から、赤に近い橙色へと少しずつ変化していく。その鮮やかな色を引き立たせるように、草原はすすきのうすい茶色一色になる。その近くにかやぶき屋根の家が立っていたりするから、いかにも「日本の秋」だ!と私は一人満足してしまう。
今はすっかり冬になった。冬の空は、寒々としているからか、それともちゃんと科学的に説明できるのか、どちらにしても澄み切って見える。一限がある日は日の出を見ながらの登校だ。電車の窓から外を眺めると、ただ田畑が広がっている風景。ぴんとはりつめたような真っ青な空に、朝日の赤、橙が美しく映っている。時々現れる民家に日の光が反射して、ぴかぴか光る。夜遅く家へ向かって自転車をこぎながら、時々上を見上げると、星がぼろぼろ落ちて来そうなほどよく見えたりする。そういう時は思わず自転車を止めて、ボーっと眺めてみる。「あー、冬になったな」と、星の美しさと寒さから実感する。
私はこのような自然に囲まれて、静かにそれを眺めているとき、とても落ち着いた気持ちになる。よく友人から「どうして下宿しないの?」と言われるほど遠くて不便な場所でもあるが、やっぱり、ここがわたしの帰ってくる場所だなぁ、としみじみ思うのだ。
(一文2年 こおろぎ)
家庭教師を務めて一年になる。教え子は,生まれて初めての受験を目前に控えた中学三年。多感な年頃であり,日一日と焦りを募らせている。僕自身もかつて彼同様不安な日々を送った経験があるため,いやがうえにも同情せざるをえない。
刻一刻と迫る受験に対して不安は高まり,それを克服できない自分に苛立ち,挙げ句の果てに自分の世界に閉じこもり,すべてを拒んだ。学校帰りに雨に打たれ,無理やり風邪を引こうと試みた。教科書を河に投げこんだこともあった。しかし,何も変わらなかった。風邪が治ると学校に行かされ,教科書は買わされた。ただ時間を浪費しただけだった。
彼がやって来たのは,僕にとって正にそんな危機的状況のときだった。彼は,家庭教師であり,兄貴でもあった。僅かな休憩時間,取り留めのない僕の話に耳を傾ける彼の横顔にはいつも優しさが溢れていた。そして,その優しさこそが僕を絶望のどん底から救ってくれたのだ。あれから数年,今度は僕の番である。足りない知識を情熱で補い,今日も僕は少年を後押しする。
(社学3年 H958774)
今年の夏、私はゼミの海外研修でネパールの奥地・ジョムソンへ出掛けた。開発経済学を学ぶ私達はそこで、ネパールの人とともに発展を目指すNGO団体を訪問した。その団体の長が、七十五歳の近藤享さんであった。
ジョムソンは、チベットにほど近い谷間の集落である。岩と砂と少しの緑があるだけで、自然条件は厳しい。その谷間を、強風が音をたてて吹きぬけていく。私達は近藤さんが作った学校を訪れたが、辿り着くのにひと苦労した。しかし、近藤翁は馬にまたがり険しい道を悠然と進んでいった。風は依然として強かった。
その夜、近藤さんの事務所で夕食会をした。近藤さんを囲んでの食事は大いに盛り上がったが、話はいつのまにか翁の哲学談義になっていた。その中で彼は、「男なりゃ、風の吹くまま、気のむくまま」と人生を語った。私には、その言葉が深く印象に残った。JICAの職員として働き、大学で教鞭をとったのち、七十歳にしてネパールでの支援活動をはじめた近藤さん。その人生は、まさに風の吹くままといってよかった。厳しい風の中を進む翁に、生きていく勢いを感じた。
私達ゼミ生は、まるで風に運ばれるようにしてネパールの奥まで行ってきた。そこでは、風か豪音とともに流れていた。その中に、近藤さんいた。彼は、これからも風とともに生きていくだろう。私はどうか。自分の前には、いったいどんな風が吹いているのであろうか。分からない。しかし、きっと険しい行き先を、風の吹くままに進んでいくことであろう。そう、風が教えてくれた。
(政経3年 石平道典)
「CovernmentbyThepeple」―岡沢憲芙先生の政治学授業はこの言葉なしには語れない。あたりまえの事だが、それを実行する議会制民主主義が危機だ。政治の失望感・投票率悪化。政党の支持低迷・無党派…。政党の政策・主義が不透明、離合集散や国民の意図とずれる政治。確かに投票=政治参加したくない、無関心を装おう気持ち十分に分かる。でも、投票せずに今の政治、消費税・景気・行政改革・特措法等で批判するのはいかがなものか。議会制民主主義の危機はそうした身勝手な姿勢も原因であろう。
投票=政治参加がCovernmentbyThepepleの実践、議会制民主主義の欠かせぬ入力である。愛する母校の創立者大隈重信は議会制民主主義を支える政党政治を念願し、彼の同志達は普通選挙の実現を血の滲むような苦労で成し遂げ、現在のCovernmentbyThepeopleの実践へ道を開いたことを忘れてはいけまい。
一方で、政党の責任は重いことも事実。特に野党。唯一自民・共産党は議会制民主主義に役だつ。善し悪しは別にして対立軸明らかだ。東京都都議選・総選挙で両党は議席大幅増進したが、選択支はほしい。他の政党は政策・政権構想を明確に出してほしい。いずれにしても21Cの改革を担う政党政治づくりも議会制民主主義の中では必要だ。
若輩者で政治に素人の私が、なぜ書いたかというと、20歳で先月、市長選で投票する時に、有権者1年生として投票=政治参加の意義を自分自身問うたからで、他意はない。議会制民主主義は有権者の政治に対する監視・期待・要望・批判等を最大限に投票で反映できるシステムがある。議会制民主主義なくして、有権者の未来なし。皆さんも投票に。
(社学1年 栗原一栄)
京都から上京してきて、はや7ヶ月。もういい加減こちらの生活にも慣れてきた。生まれも育ちもずっと京都であった私にとって、異郷の地での生活には多少の不安があった。独りで暮らすことへの不安ではない。関西から関東へ、という異なる文化圏への移動に戸惑いを覚えていたのだ。こっちに来る前から東京文化についていろんなことを聞いていたし、いろいろ想像してもいた。まずは言葉。そして食文化。さらには人の性質などである。
半年ちょっと暮らしてみて、実際どうであったかといえば、当たらずとも遠からずである。入学当初は行く先々で京都弁がもてはやされたものだ。それから、よく言われるようにこちらの食べ物の味は濃い。うどんの汁なんか真っ黒ではないか。向こうでは薄味の、しかしだしのきいた汁を最後の一滴まで飲み干すのが当たり前の食べ方であった。こっちでそんなことをしていたら成人病になってしまう。そして人間の気質に関して言えば、これまたよく聞く通り、こちらに比べて関西の人間は人懐っこい。特に向こうの店員は「見てるだけー」を許してくれない。すぐに話し掛けてくる。そういうものにうっとうしさを感じていた私は、むしろ東京の方があっさりしていて好きだった。けれどもたまに寂しくなる。やはりどこか他人行儀なところが否めない。悪く言えば人間味とか人情とかを肌で感じる機会が少ないのだ。
しかし、先日このような体験をした。夜中に腹を空かせてコンビニへ行き、カップ麺を買おうとした。そうすると、その姿があまりにひもじく見えたのか、店のおばちゃんがコロッケを二つ袋に包み、「食べ」と言って手渡してくれたのだ。人知れず胸があつくなった。ひょとしたら賞味期限が切れそうだったのかもしれない。けれども私はそのおばちゃんの人情を信じたい。優しさを感じたい。東京もまだまだ捨てたものではない。
(一文1年 大槻ごうし)
携帯電話の、現在の無秩序な使い方には反対である。先日、ある授業で、一人の学生の携帯電話が鳴った。それだけでも講義の妨げである。しかしこともあろうに、その学生は、鳴っている携帯電話を持って教室の外へ出ていった。そして数分後、平然と戻ってきた。
これは極端な例であるが、携帯電話の使用がその「場」を乱し、しかも使用者がそのことに無頓着な場面をよく見かける。周囲にとって大いに不愉快なことである。
携帯電話の利便性は否定しない。例えば早稲田では、人の多さゆえに、公衆電話の列に待たされて困ることも多かった。携帯電話の登場でそういった個々人の悩みは解決されてきた。しかし、それが集団にとっては、前記のような新たな問題を生み出していることに、十分な配慮がなされていない。
携帯電話の利便は、周囲の人への最低限の気配りを忘れないことを前提に、享受されるべきだと思う。
(政経4年 秋葉丈志)
携帯電話機が今もし手元にあったら○○さんと連絡が取れるのに、と残念に思った経験は誰にも一度や二度はあると思う。更に、待ち合わせで会えない時や乗り物で移動中に用件を伝えなくてはならなくなった時など、携帯電話がないことで不便さを感じたことすらあるのではないだろうか。こう考えると、普通の電話に比べて携帯できる電話の方が不便だと言う人はまずいないはずである。だが、便利な反面、もちろん欠点もある。特に話題になるのが通話料の高さと電話の呼び出し音による他人への迷惑ということであろうか。そういえば実際に「他のお客様のご迷惑になりますので、携帯電話やPHSの電源はお切りください」という車内アナウンスをよく聞くし、「試験中携帯電話などの電源はオフにしてください」という試験監督の指示aH いや違う、携帯電話を利用している人間が原因なのである。しーんとした電車の中で不意に鳴り響く電話の呼び出し音とその直後に起こる大きなしゃべり声、問題を一生懸命考えている人の頭の中を揺さぶる騒音、これらは全て携帯電話を持っている人の責任である。裏を返せば、責任を持つことができないのであればその人には携帯電話を持つ資格などないということなのだ。通話料にしても同じことだ。料金が高くつくのが嫌なら、できる限り家の電話や公衆電話を利用するといい。高くついた料金は自分がその便利さ故に使いすぎてしまった結果なのだから、素直に自分で責任を負えばよい。電話のせいにするのはお門違いなのである。
最近、持つ資格もないのに携帯電話を持つ人が急増し、それに伴って問題点も急浮上してきたが、多くの人が自分たちの過失を電話機器の問題点に置き換えて考えているのではないだろうか? 携帯電話はあくまで媒体でしかないことをよく考えてほしい。うまく利用すれば非常に有効なコミュニケーションの手段になり得るものなのだから。
(人科2年 エグい奴)
私のした活動なんて、書いて記すほどのことではないかも知れない。就職活動のために何かをしたとか、満足のいく活動をできたというわけではないからだ。けれど、そんな体験が、もしかしたら、これから活動する人の参考になるかも知れない。そう思ってペンを執った。
今年は協定廃止になったせいで、多くの企業が採用活動期を早めた。学生も企業も一緒になって焦っているような時期もあった。周りで内定をゲットしたという話をきくと、神経がピリピリして、内定を採ることが就職活動の結果であるような気さえした時期もあった。
全く冷静さを欠いていたと思う。マニュアル本のようなもので詰め込みをしようともしたけれど、ほとんどできなかったし、できたところで意味もなかった。筆記試験も面接も、その時の自分のコンディションとか、これまで示してきた自分の興味などの方が、よほど結果を左右した。そう。企業との相性や接触するタイミングが、意外に最も決定的であったりする。
就職活動は楽しめば勝ち、とはよく言われる。それは本当だと思う。楽しんだ方が得だし、運も導けるというものだ。でも活動のスタイルは人それぞれなのであって、楽しむことのできない人もいるだろう。不安だったり、悩んだり、自信をなくしたり。そういう人は無理に明るく楽しむ必要はないと思う。因に、私は悩むことが多かった。
私は将来の自分のやりたいことが、見つかっていなかった。活動をしながら、自己分析を通して、懸命に、やりたいことを明確にしようと努めたが、結局、わからなかった。今だ、わからない。けれど、それでも良いのだと気付いた。
活動を通じて、自分をじっと見つめることができたし、さまざまな人に出会い、多くのパワーをもらうことができた。就職するにせよ、しないにせよ、活動をしたことは決してムダではない。私にとって、自分探しの旅はまだ始まったばかりであり、就職活動はその序章だったのだから。
(人科4年 ぴっぴ)
「医学部ですか」。私が「大学五年生です」と言うと、たまにそう聞かれる。
早稲田に医学部は存在しない。「実は…」と度々、アルバイト先で説明した。
私は七月中旬に、ある出版社から内定を頂いた。二度目の就職活動であり、「何とかなるのでは」という甘い期待もあった。が、現実は厳しい。マスコミ業界からは内定は一つ。
「文学部。一浪・一留」という肩書きが、一般企業で響いたように思う。マスコミ業界においては、それ程不利とは感じなかった。私の内定先には、大学六年生もいるし大学院生もいる。
マスコミ業界は早大OBが多く、早大生がのびのびできる環境だと思う。仕事は激務だろうが、見返りも大きい。
「早稲田はマスコミに強い」。この噂は半分当たっている。私の内定先にも早稲田は数人いる。しかし、である。他大と比べ、受験者が格段に多い。ある意味では、早稲田の同学部の人間がライバルになる。あるテレビ局の集団面接で、三人共に「早稲田」ということすらあった。
後輩諸君に訴えたいことは、「どうか充実した学生生活を」ということである。早稲田という空間で毎日を充実させれば、面接時の話のネタは沢山あるはず。それと自己反省も含めて「勉強して」ほしい。面接において「勉強」をアピールする学生は皆無だった。机の上の勉強も、社会勉強に劣らず重要である。
結果として、新聞社は全て筆記落ちだが出版は内定先を含め大手三社に通過。「元々、出版に向いていたのかな」と今は考えている。
自分の適性を考えるのも大切だが、熱意が一番だと思う。コネが一つもなくても、特別な資格がなくても、普通の人でも「内定」は頂ける。凡人の私がそうだったのだから。
昨年、私は自分の経験をまとめられなかった。留年するまでもなく、自分の意志を固め方向性を見出してほしい、と切に願っている。
(一文5年 地方出身者)
就職活動真っ最中のある暑い夏の日、説明会に参加しようと訪れた銀行の前で、そこの渉外担当者らしいおじさんに声をかけられました。
「今年は状況も大分良くなってきているし、学生の方が企業を選ばなくちゃあね」
暑さで気力も体力も消耗しかかっていた時期だったので、おじさんのこの励ましでまた元気が出てきたのを覚えています。
「就職活動は自分探しの旅」とよく言われますが、本当にその通りだったなと感じています。活動中は、「自分が本当にやりたい仕事は何なのだろう」ということをイヤという程考えさせられますが、そこで決して先入観や皆が受けるから…といったことで志望業界や会社を決めてしまってはいけません。私の場合は、沢山の企業をしっかりと自分の目で見てみようと思い、四月〜七月までで四十社程回りました。その中で自己実現が図れると感じた金融業界を志望するようになりました。文学部の私にとってはかなりの不利になりましたが、「今は経済や金融の知識は殆どありませんが、人の倍勉強していくつもりです」と面接では元気に答えて、念願の銀行の総合職に内定しました。
自分の将来のことについて真剣に考えたり、さまざまな会社を回って会社の仕組みを知ったり、沢山の人に出会って有益な話を聞いたりと、就職活動は多くのものを得、自分を大きく成長させるチャンスです。常に自分が主役であることを忘れず、自分に合った仕事・会社を選ぶのは自分なのだという姿勢で「旅」に出てはいかがでしょうか。
(一文4年 雫)
「得意な料理は?」「ゆでたまご。」これが僕の料理の腕前だ。大学へ入って一人暮らしを始めて以来、ほとんど外食かコンビニで、自炊などしたことがない。
でも、ウィークリーの「料理の凡人」を読んで、「これなら出来るかもしれない」と思った。簡単そうだし、栄養のバランスもよさそうだ。いつまでも「ゆでたまご」と言っているわけには行かないし、自分で何か作れた方が楽しい。そこで、「和風マカロニ」と厚あげを使った「ボコボコ」に挑戦してみた。最初はうまくできるかどうか不安だったが、やり始めたら意外に楽しい。量の計算をまちがえたのか、たくさんできてしまった。
さて、味の方は?…おいしかった。いつも食べている味気ないコンビニの弁当より、ずっとおいしい。それは、自分で作ったという達成感がある。思わず「意外と料理の才能があるのかも知れない…」と思ってしまったほどだ。
「料理の凡人」を読んで「料理の達人」を目指すことにした。
(社学2年 シェフ)
やがて車内の慌ただしさも薄らいで、叢った青葉のトンネルを潜った一両の電車は、ゆるりと方向転換し、そのまま神田川と平行して終点・早稲田駅へと到り着く。 周知の通り、都電荒川線は都内唯一となってしまった路面電車である。朝夜は通勤電車の相を呈し、昼間は下町に住む主婦たちの足となっている。こう書くと普通の電車と何ら変わりないようにみえるかもしれないが、一度乗ってみると殺伐とした都会では味わいにくい、一種独特の庶民的な臭いに気づく。JR等の満員電車と同じ位混雑していても、不思議と息苦しさというものが漂わない雰囲気がある。それは如何にも勤め人然とした人が少ないからだろうか。乗客と運転手がより密度の濃い関係のせいだろうか。
私が都電にのりややもすると次の駅からどっと賑やかな中年婦人の群が流れ込んでくる。どこやらの小学生の母親たちという風である。休むことなく声をあげて各々子供たちの話に興じている。間もなく次駅へ到着すると彼女たちはいそいそと外へ吐き出され、今度は一気に乗車した男子校生の騒然とした声にとって変わる。とにかく止むことない元気な会話が常に車内にはある。そうかと思えば白い帽子をかむりコウモリ傘を杖にして静かにたたずむ白髪の紳士の姿がある。
運転手は乗客に気を配り声をかけ時には「戒めの言葉」をも発する。見知らぬ乗客同士の会話もかわされる。
意外に都電の存在は余り認知されていなかったようだが、初めて乗った人の評判は悪くない。
私はJRの混雑に恐れ入った都電愛用者である。人という人が同質化され有無をいわせぬような満員電車を離れ、呑気な下町観光気分の抜け切らぬままに都電早稲田駅から本キャンへの僅かな道程を駆ける日々は遠くつづく。
(教育2年 和楽備 )
難解な映画だ。
言葉で生きる男と感情で生きる女。お互いを分かり合えない2人が、退屈な日常から逃走する。放浪は盗み、暴力、そして死という刺激に彩られる。生を実感したいがために、彼らの行動は刹那的で、破滅へと指向していく。乾いた陽気さだけが唯一の救いだが、絶望感を引き立たせることにも役立っている。
最近、世界中を旅する若者が多いと聞く。それを題材とした本も売れ筋らしい。こうした「自分探し」の傾向を『気狂いピエロ』は先取りしていたのだろうか。
「自分探し」には積極性がある。成果はどうあれ、本当の自分を見つけだそうとする建設的な旅である。それに反して、『気狂いピエロ』の二人にそのような積極的姿勢は見られない。
女は男を「ピエロ」と呼ぶ。それは意図的なものに違いない。ピエロのような生活をかなぐり捨てた男を、なぜ女は「ピエロ」と呼び続けるのか。ここにも「自分探し」との大きな隔たりがある。ピエロの役割を拒否したところで、それは“狂った”ピエロに過ぎず、ピエロという本質から逃れることはできない。絶望的な袋小路の中で、二人は「瞬間」の美に魅せられ、激しく散る道を選んだにすぎないのだ。
閉塞状況にある現代日本。社会学者である宮台真司は「終わりなき日常を生きろ」と訴える。「自分探し」とは異なる、もう一つの解決法。鋼のように難解な詩とポップ・アートが同居する『気狂いピエロ』は、むしろ冷め切った後者の姿勢を補強するものと言えよう。
(経研修士2年 “野呂 A太郎” )
恥ずかしいけれど、飛行機に乗ったことがないし、海外旅行に行ったこともない。卒業旅行にヨーロッパっていうほどお金もないけれど、思い切って初めての海外旅行をした。
まず成田から初めての飛行機体験。それもいきなり国際線だ。予想していたよりもデカイ飛行機だった。「揺れたら恐いな」と思っていたけれど、予想よりも揺れないで無事にグアムへ到着。日本からは三時間半でも、立派なアメリカだ。通関やホテルのチェックインでうまく英語が話せるかどうかすごく緊張したが、みんな日本語ペラペラなのに半分びっくりしたような、半分がっかりしたような……。
安いホテルにまずい食事の貧乏旅行だったけれど、青い空と青い海は誰でも同じように迎えてくれる。やっぱり、海もビーチも「グアム」って感じで、改めて海外にいることを実感した。ビーチも島内観光も楽しかったけれど、一番驚いたのが本物の鉄砲を撃てたこと。カルチャーショックだった。ここはやっぱりアメリカなんだ。
アッという間の三日間、僕の初体験は終わった。予想していた以上の収穫を得た五万九千八百円だった。
(理工三年 次は本土だ! )
「日本で一番好きな作家は?」と聞かれれば即、三島由紀夫と答える。僕が生まれる前に衝撃的な死を遂げた作家だが、僕は随分多くの彼の作品を読み、感銘を受けた。
その三島の「近代能楽集」から「葵上」と「卒塔婆小町」が、美輪明宏の主演でパルコ劇場で上演された。美輪明宏という人も不思議な魅力を持った女優(?)で、独自の世界を持っている。その世界と、三島の世界のぶつかり合いが、すごく衝撃的だった。
室町時代の能を現代劇にアレンジした「近代能楽集」を、美輪明宏自らの演出・主演で上演するという、二つの才能が一つになって、何とも言えない幻想的・耽美的な空間を造り上げていた。美輪明宏という人は、きっと三島の難解なレトリックや科白を、ほぼ完璧に理解しているのだろう。すごい才能だと思う。
僕は演劇が好きでよく劇場へ足を運ぶが、こんなに満足して劇場を出たのは久し振りだった。
演劇は秋からがシーズンと言われているが、こういう「ゾクッと来る」芝居を、また観に行くチャンスがほしいと思う。
(一文6年 在原業平)
皆さんの中には、大学院進学を考えている人、目下受験勉強中の人がいらっしゃることと思います。
でも実際、大学院に関する情報は少なく、どうやって準備をしたらよいのか分からない人も多いのではないでしょうか。
そこで、大学院に入るためにぜひやっておいたほうがよいことを、私の経験にもとづいて、以下の通り指摘してみたいと思います。
まず、過去の入試問題の傾向をきちんとつかむということです。はっきりいって、まったく出題されそうもない分野の勉強をしても無意味です。やはり、傾向にそって、ポイントをしっぼて勉強するのがいいと思います。
第二に、語学を徹底的にやることです。大学院の筆記試験では、通常、語学と専門科目が課されますが、合否は語学の出来いかんで決まるといわれています。語学で出題されるのは、読解・和訳問題が主です。読解・和訳は、毎日継続してやらなければ力がつかないことを強調しておきたいと思います。読解をせずに単語だけを暗記するやり方もおすすめできません。いずれ、忘却というわなにはまってしまいます。文章を読みながら覚えた単語はなぜか忘れることが少ないのです。
三番目は、専門以外の分野もかじっておくことです。学際化が叫ばれている折、専門分野だけではなく、他分野にも目を向けておくことは決して無駄ではないでしょう。
最後に、自分の希望する指導教授に事前に受験する旨を伝えておくといいと思います。いろいろと役に立つ情報が得られるかもしれません。私も、先生に手紙を書き、数日後お返事をいただきました。
これらは、すべての場合にあてはまるとは限らないので、あとはご自分で適宜判断していただきたいと思います。
社会の高度化等にかんがみ、大学院はいちだんとその重要性を増しており、進学することの意義は大きいといえましょう。
皆さんのご健闘をお祈り申し上げます。
(文研修士2年 財津信也)
More than machinery, we need humanity. More than cleverness, we need kindness and gentleness. Without these qualities life will be violent, and all will be lost.
これはチャップリン初の本格的トーキー作品『独裁者』(一九四〇)の中の最後の大演説の一節であるが、これらチャップリン作品からは多くのアフォリズムやウィットを見て取ることができる。
チャールズ・スペンサー・チャップリンは一八八九年四月十六日ロンドンのウォルワースに生まれ、一九一〇年イギリスのフレッド・カルノ一座の一員として渡米し、キーストン社のマック・セネットにその才能を見出されて映画界入りし、やがて監督も務めるようになり、エッサネイ・ミューチュアル・ファーストナショナル・ユナイティッドアーチスツ社と移りその地位を不動のものとした。この間作品も初期のスラップスティックコメディーから「犬の生活」を転機としてストーリー性を重視した完成度の高い長編へと移ってゆき、そのスタイルを確立した。
彼の作品を見ていて気付くことは時代の古さを全く感じさせないことである。それは、作品の内容が「食べること・働くこと・愛すること」(『私のチャップリン』淀川長治著)であるだけでなく、そこに―富と貧しさ・人間と機械文明・ファシズムとデモクラシー・自由と抑圧等々―という二十世紀(あるいは人類普遍)の諸問題が内包され、それが作品を通じ時代を超えて痛切な真理となって訴えるからではないかと思う。
彼がこの世を去って今年でちょうど二十年になる。これからもさまざまな角度からチャップリンを見続けていきたい。
(社学2年 チャーリー)