麿赤兒さん


■麿赤兒(まろ・あかじ)

1943年奈良県生まれ。本学文学部中退。「ぶどうの会」を経て舞踏家土方巽に師事、その後状況劇場の設立に参加。60年代から70年代の演劇界に変革の嵐を起こす。

72年、舞踏集団「大駱駝艦」を旗揚げ。舞踏に大仕掛けを用いたスペクタクル性の強い手法を導入し、海外でも高い評価を受けている。

また、映画、舞台などでの活躍も目覚ましく、出演作品多数。

★演劇との出会い

62年ぐらいでしたか、東京へ出て来たのは。田舎の演劇青年というようなもので、演劇をやるには、親戚へのアリバイ作りみたいなことで、早稲田の演劇科に入ったんですけどね。ところが、最初の1年は教養課程ばっかりで、ちっとも演劇の授業なんかないもんだから、それが待ち切れなくて早稲田を飛び出しちゃいました。

演劇との出会いは中学生の頃、新制作座とか山本安英さんのぶどうの会などという劇団が地方へ来て、芝居を観たことですかね。もう中学の頃は演劇部で演劇をやっていたんですけれどもね。田舎のことですから、部員もせいぜい5人とか六人ぐらいでした。家に帰るのがいやだから、部室を根城にして、下校拒否をしていました。先生も理解がありまして、まあ、演劇というほどのものではなく、見よう見まねでやっていました。その頃、遠くから来てまた去って行くぶどうの会みたいな劇団に、淡い憧れを抱いたんでしょうね。

★早稲田の思い出

僕が早稲田にいたのは62、3年頃でしたが、ゴチャゴチャしていたけれども余裕があったような気がしますよ。60年代の学生運動がピークの時期でしたけれども。

何か、あの頃は夢を持っていたように思います。それは今でも同じですけれども、学校へ行くとか行かないとかという問題じゃないような。後輩はよく騒いでいましたけれどもね。文学部はキャンパスが離れていますから、文学青年でしたしね(笑)。そういうところで、静かにしていましたね。田舎者なので、牧歌的な気分でやっていましたね。意外と純粋に演劇を目指していましたね。早稲田には「自由舞台」とか「演劇研究会」とか。でも、そういうところでもないかな、という感じがして、結局山本安英さんが主宰していた「ぶどうの会」というところへ行ったんですね。山本先生は「夕鶴」で有名な方でしたが、ああいう現実離れした雰囲気に何かインパクトを感じたんでしょうね。今考えてみると、立ち姿には踊りの要素なんかがあったのかも知れませんね。

ところが、「ぶどうの会」も僕が入って半年で解散してしまって、研究生だけで劇団を作ったんだけれどもそれにも飽きて。その頃は新宿界隈をゴロゴロしていたんですが、そこで唐十郎と会ったりして、また違う刺激を受けて。「ぶどうの会」が解散したことで、僕の中の何かがバーンと弾けたんでしょうね。最初は何だかよくわからなかったんですが、演劇論の中に政治的な主張みたいなものが良く出て来て、それが馴染めなかったというのもありましたね。当時はすべてが混沌としていましたから、そういうところへ巻き込まれてしまったんですね。

★舞踏との出会い

新宿時代に、明治大学の唐に会ってずいぶん刺激を受けました。彼の演劇ノートを見せてもらったりして。当時、高校の先輩がある舞踏の稽古を見せてくれて、その人達が土方巽のところでやっていた人達だったんですね。何しろ、何もかもがカルチャー・ショックで、芝居の事ならある程度読めるんですけれども、それ以外の異質な世界でびっくりしましたね。僕は、新し物好きではあるんですけどね。それを観まして、その頃から、そういう肉体的な表現と芝居への新しい目覚めが私の中にあったんでしょうね。演劇を解体する演劇、みたいな、挑発的なものがあったんだと思います。

僕も普通の演劇が面白くなくなって来ていたので、ちょうど唐の考え方がピンと来たんです。もっとも、それをやってもお客が20人とかそんなものでしたけれどね。異端中の異端というところでしょうか。

そんな中で、稽古を見せてもらった舞踏の連中から声をかけられて、土方巽のところへ行ったんです。ここでも大きなカルチャー・ショックがありました。東京へ出て来てから2年ぐらいのことでした。ただ、そういうものと波長があったのかな、僕の中で何か新しいことをやりたい、という気持ちがあったんでしょうね。

土方の方もアメリカ・ドイツ系のモダンダンスに飽き足りなくなっていた時期だったんだと思うんですよ。僕も普通の演劇から抜け出たいという気持ちを持っていましたから、そういう感性がピタッと合ったんでしょうね。

それが土方という変な男との出会いだったんです。僕が20歳過ぎの頃、土方が35ぐらいでしたから、兄貴みたいなものでしたね。彼も若かったから、誇りと不安が彼の中にもあったんでしょう。唐の芝居を、戸山ハイツの箱根山の壊れたプールで、野外劇のようなものを演出したりもしました。

★大駱駝艦の旗揚げ

大駱駝艦を旗揚げしたのは29歳の時でした。その頃から舞踏とは言っていなくて、「天賦典式」と言っています。唐との付き合いも長いし、その影響もあったんで、肉体と唐的世界を融合できないか、みたいなことで、舞踏とも言わず演劇とも言いませんでした。だから、最初のポスターは、何をするものかわかりませんでした。何かの宗教かと間違われたりしました。でも、僕は、何であれ肉体の表現行為として捕らえていました。

「天賦典式」というのは、「天賦の才」という言葉があるけれど、誰でも何か一つは取り柄があるもんだということで、演劇だとか踊りだとかの専門知識がなくてもできるぞ、ということなんです。ただ立っているだけでも、表現と言えば表現じゃないか、ということなんです。肉体がすなわち作品だ、みたいなものです。20年なら20年生きて来た、その肉体自身がもう1つの作品ですよね。そういう観点ですね。身体に20年の歴史があるわけですから。

そういう表現がエロティックであったり、おどろおどろしかったり、不気味だったりするんですが、それを志向しているわけではないんですよね。結果としてそういう風に見えてしまったということなんでしょうね。「エロティック」とか「土俗的」だと言われる、その言葉を超えなければいけない、という思いがありましたね。言葉として好きなのは「混沌」とか「カオス」というものですね。

最近は少し系統立った考えができて来るようになりましたけれど、最初はそういうものはありませんでしたね。今で言うパフォーマンスの走り、みたいなものじゃなかったんでしょうか。それから、「物語性」というものを持ってみたいと思うようになりました。でも、普通の物語じゃ飽き足りないということで、いろいろな試みをしました。肉体的には潜在意識のぶつかり合いみたいなものですね。そういうものを組み合わせて物語ができないか、ということだったんです。身体を物として考えて、物に語らせる、ということですね。

他の芝居にも出ますけれども、僕には舞踏があることによって、他の芝居に出た時に「存在感」とか「個性」とかと皆さんが言ってくださるようなものが出て来るんじゃないかと思いますね。芝居と舞踏の相互関係みたいなものでしょうね。それと、名優は名舞踏手だと思いますね。でも、名舞踏手は名優かって言うと、それはなかなか難しいんですけどね。名優は舞台へ立っているだけで醸し出すものがありますからね。

★学生へのメッセージ

しゃかりきにやってみることですね。基本的には人間も生き物ですから、人間としてどう生きるか、っていうのは、それぞれの努力にかかって来ると思いますね。だから、皆さん、頑張ってください。

★大駱駝艦舞踏公演の案内

撮影:荒木経惟 (C)Copyright 1998 Dairakudakan

【URL】http://rakudakan.tripod.co.jp/

(1998年10月15日掲載)


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