ゲームデザイナー 薗部博之さん

■そのべ・ひろゆき

 1961年、茨城生まれ。84年理工学部卒後、アスキーに入社。仕事の傍らゲーム開発に取り組む。89年退社後、フリーのゲームデザイナーとなる。競馬に興味を持ち、91年「ダービースタリオン」シリーズ第一作を発表。販売総数580万本を超える人気となった。96年株式会社「パリティビット」を設立

  実は、早稲田に入れるとは、思っていませんでした。記念に受けておこうかなぐらいの気持ちで受けたら受かっちゃって。だから、特に早稲田をめざして入ったわけでもないんですよね。

早稲田と言っても、理工学部は離れているから、「戸山工科大学」とか言われてました。あまり“早稲田に入ったんだっ”ていう実感はなかったですね。たまに本部の方に行って、大隈講堂を見ると“おー早稲田だ”って思うんですよ。

学生時代は、ほとんど勉強をしませんでした。サークルは、最初将棋部に入りました。でも、早稲田の将棋部はアマチュア名人クラスで、むちゃくちゃレベルが高いんですよ。それで、途中から個人的に麻雀部になってしまいました。学生時代の思い出といったら、麻雀しか記憶にないんですよ。

理工学部の機械工学科で、あまり縁はなかったんですけど、三年生の時パソコンに興味をもち始めたんです。でも当時はパソコンは高くて、貧乏学生だったんで、なけなしのお金でパソコンを買いました。すぐにお金を取り戻そうと思って、一等賞金百万円っていうプログラムコンテストに応募しようと思い、学校にも行かずにずっとゲームを作ってました。さすがに、買って三ヵ月位だったんで、入賞はできなかったんですけど、せっかく作ったんで、アスキーが発行している、パソコン雑誌に投稿したら採用されたんですよ。その縁で、アスキーでバイトするようになって、そのまま就職しちゃいました。

ゲームを作りたくて就職したんですけど、アスキーはもともと出版社でゲームを作る部署がありませんでした。今みたいに、ゲーム産業が発達してなかったんで、ゲームを作ってるのは学生のバイトだったんです。僕は自分で作りたかったんで、誰かを使ってというよりは自分で作りました。だけど、会社で作ってると怒られるんで家で作ってたんです。最初はパソコンゲームだけでしたが、ゲーム業界も発展してきて、「ファミコンのゲームを作ってみないか?」と言われて野球のゲームを作ったんですよ。そのゲームが売れたんです。それで、なんとなくやっていけるかな? っていう自信がついたので、フリーになりました。

野球ゲームの次の作品を考えていた時、競馬の好きな友達に誘われて、初めて競馬場に行ったんです。そこではまってしまって、じゃあ、これを次の仕事にしちゃおうと思って、「ダービースタリオン」を作りました。僕は、自分で一番興味を持っているものをゲームにしたいと思っていますから。仕事も趣味も一緒なので、仕事と言えば、どうどうと競馬場に行けますしね。

ゲーム作りには時間がかかります。三日徹夜したからできるようなものではないですから。でも、ゲームを作るのは楽しいですよ。だから、ゲームを作るのが僕にとっての、最高のゲームですね。

今の仕事に大学の勉強は直接は役に立っていないんですけど、四年間の大学生活でパソコンに出会って、それが仕事になっていますね。新入生には、自分のやりたいことを見つけてほしいです。会社を選ぶんじゃなくて、仕事を選んでほしいですね。

(1998年4月1日掲載)

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