第800号記念 タモリ ロングインタビュー


 「早稲田ウィークリー」創刊800号を記念して、タレントのタモリさんにお話をうかがいました。学生時代の思い出、クラブのことなど、テレビでは知られないタモリさんの学生時代の一側面をお楽しみください。             

■タモリ

1945年福岡県生まれ。本学文学部哲学科出身。本学在学中に「モダンジャズ研究会」に所属、司会として活躍を始める。その後、保険会社のセールスマン、ボーリング場の支配人などを経てタレントに転身。「笑っていいとも」をはじめ、多くのレギュラー番組をヒットさせている。主なレギュラー番組に「タモリのスーパーボキャブラ天国」「タモリ倶楽部」など。

★僕の学生時代

 僕が入学したのは昭和三十九年なんですが、その頃はまだ学生が貧乏でしたよ。学生の雰囲気も今とは全く違いますね。あの頃は慶応なら慶応、早稲田なら早稲田っていう学校の雰囲気があったんですよ。今はもう同じような感じですね。それと、地方出身者が少なくなったのかな。昔は地方が多かったですよね。地方の稲門会の組織がしっかりしていたし。

 「蛮カラ」も残ってましたね。「貧乏」を逆に自慢するようなところもあったしね。ひどい貧乏ですよ。ご飯炊いて醤油だけで味付けて食べてる奴とか、仕送りが来た時に大量にインスタントラーメンを買い込んで、そればっかり食べてて身体をおかしくした奴とかね。靴の先のところが開きながら歩いている奴がいるんですよ。前から見ると靴が地面から離れてない(笑)。

 大学は、下駄が禁止なんですよ。授業中にうるさいから。でも、貧乏で下駄しか買えない奴がいたりね。僕も貧乏でしたね。でも、まだいい方だったかな。だから、今の学生がマンションなんかに住んでるのは信じられないですね。

 僕は最初は都立大学に住んでいました。一人同級生がいて、最初は様子がわからないんで、そいつのところに転がり込んで半年ぐらいいましたね。それで他の同級生が学芸大学にいたんで、「一緒に住もう」っていうことになって、一緒に住んだんですよ。都立大学の木造アパートでしたが、一年前ぐらいにあの辺りを走ってて、思い出してそこへ行ってみたら、まだそのアパートがありましたね。その頃新築でも何でもないのに、三十年経ってもまだありましたね。

 それから、後半は学校の近所の友達のアパートへ居候でしたね。大体、下に大家さんが住んでて、上に早稲田の学生が何人かいるんですけれども、そういうところは他の奴が来て泊まるのは禁止なんですよ。それが、どういうわけか僕だけは可愛がられて、そこのおばさんのところでしゃべったり、親父さんと酒飲んだりしてましたね。学生時代のいい思い出で、楽しかったですね。

★ジャズとの出会い

 学校の方はすぐに行かなくなっちゃったですけれども、ジャズのクラブの方はずっとやってましたね。だから、いまだに付き合いがあるのは、クラブのOBですね。

 ジャズとの出会いっていうのは、それまでいろいろな音楽を聞いてたんですよ。姉がクラシックのピアノをやってましたから、クラシックも一通り聞いたし。チベットの音楽まで聞いたんですけれども、ぴったり来るのがなかったんですよ。その時に、近所の後輩の家へ行って、アート・ブレーキーのレコードを聞いたら、何がいいのかわからないんですよ。そんなことは今までなかったんで、一生懸命聴いてみようと思ってレコードを一枚借りて、家で性根入れて聞いたら、その瞬間から好きになちゃったんですよ。「ぴったり来る音楽はこれしかないな」。それで、大学にそういうクラブがあるって知って、そこに入ろうって決めてたんですよ。それで、「モダンジャズ研究会」に入ったんです。

 それで、入ったはいいんですが、トランペットが下手で、先輩の名言なんですけれども「マイルスのトランペットは泣いてるけれども、お前のトランペットは笑ってる」って言われました(笑)それから何年後かに「マイルス・スマイル」っていうレコードが出て、「やっぱりマイルスも笑ってるじゃないか」っていう話になるんですけれど(笑)

 それで、お前はしゃべりの方が面白いからって言うんで、マネージャーと司会をずっとやらされてました。しゃべりの人生はその辺から始まりましたね。それで、あの頃は地方の稲門会が学生バンドを呼ぶんですよね。学生バンドでも結構お客が入ったので、夏は二ヶ月位、春は一ヶ月位全国を回るんですよ。それで司会をするんですが、だんだんオレの話が長くなって、受けたりして。メンバーから、「俺達はお前のしゃべりの間に演奏してるんじゃないから、勘違いしないでくれ」って言われて、「あ、そうだったな」なんて(笑)

 それで、急激に学校へ行かなくなりました。あの頃は、ハワイアンはフジテレビの露木さんが司会をしてましたね。その後が、松倉さんっていうフジテレビのアナウンサー、タンゴの方はTBSにいる松永さんっていうアナウンサーがやってましたね。ハワイアンのマネージャーがCMディレクターの川崎徹さんで、面白かったですよ。早稲田の出身者はこの業界にも結構いますしね。

★学生時代の思い出

 ほとんどクラブのことですね。これはもう語ればきりがない位いろいろなことがありましたね。演奏旅行行ったり。演奏旅行ったって、昔は貧乏で特急とか乗れませんからね。急行に乗るんですけれども、一番長い距離は鹿児島から青森まで行ったことがありましたね。鹿児島から東京へ朝着いて、上野を午後発つんですよ。疲れも何ともしなかったですけれどね。

 演奏旅行の一ヶ月とか二ヶ月っていうのは本当に楽しかったですね。ギャラが出るんですよ。毎晩飲み歩いてもまだ余る位で、今で言うと、大卒の初任給よりも遥かに多かったですね。

 合宿なんかもあって、合宿の最後は楽器別の大宴会で。宴会が多かったですね。この頃からお酒は飲んでましたけれども、今みたいにイッキなんていうのはなかったですね。

 僕はマネージャーやってましたんで、マネージャーっていうのは大変なんですよ。稲門会から仕事を取らなきゃいけないんですけど、僕らのモダンジャズっていうのは地方じゃ受けが悪いんですよ。それで、接待をするんですけれども、その頃はまだクラブから接待費が出てた時代なんですよ。

 それには酒を強くならなければいけないっていうんで、その頃はあまり酒が好きじゃなかったんですけれど、上のマネージャーに毎晩飲みに連れて行かれました。半年ぐらい毎日連れて行かれて、ウィスキーのうまさがわかんなかったですよ。それで、「お前はもういい」って諦められたんですよ。

 それで、自分でもウィスキーは飲めないなって思ったんですけど、ある時学芸大学の下宿に帰る途中にバーの看板を見たら無性に飲みたくなったんですよ。それで入って飲んだら、ウィスキーがうまいんですよ。それからウィスキーがうまいと思うようになったんですけれど、今でもその瞬間を覚えてますよ。

 その先輩が有能なマネージャーでね、当時マネージャーは重要なものだから、選挙では選ばれないんですよ。マネージャーが次のマネージャーを育てるんですよ。どういうわけか見込まれたんですが、その人にはびっくりしましたね。

 接待の席でベロベロに酔っ払ってる時でも、重要なことを言わなきゃいけないと、真面目な顔して僕にポッとささやいて、またワーッと盛り上げるんですよ。サラリーマンよりすごいなと思いましたね。ビシッとしてるし、時間を守らないと怒るし、本当にクラブのことを考えてるんですよ。

 それで、その人が四年の時の夏休みに演奏旅行があって、中間ぐらいまで来たところで、かばんを渡されるんですよ。その時が、完全な引き継ぎなんです。ただ一言だけ「お前、これ持て」って言われるんです。「はい」って言って受け取る方はわかるんです。今日からオレが全権を持つんだなって。

 そのかばんを渡した時から、その人は一切何も口出ししなくなりましたね。その代わり、その人の堕落した生活が始まりましたね。朝は出て来ないし、ベロベロに酔っ払ってるし、退職したサラリーマンみたいな(笑)

 今の基礎は大学で養われたところがずいぶんありましたね。

★アッという間の大学生活

 学籍は一年でなくなっちゃいました。つまずきの始まりは、同級生三人で、二年になる時の五月の連休にどこかへ旅行に行こうということになって、その時最初に仕送りが来たのが僕だったんですね。その二人は後で仕送りが来るから、一旦オレの金を使おうっていうんで旅行に行ったんですけれども、二人とも返しゃしないんですよ。そのお金、学費だったんです。それで、「学費未納のため抹籍」という処分になりました。あいつらのおかげです(笑)。でも、あいつらとはいまだに付き合ってますけどね。

★早稲田への想い

 ジャズとか友達関係ですね。この業界は早稲田が多いですから、ずいぶん助かったことがありましたよ。あそこの局にはあの先輩がいるとか。上のプロデューサーが先輩で、オレが出演者で、フロアではいつくばっているADが後輩だったっていうこともありましたよ(笑)ずいぶんとスムーズに仕事がはかどりましたよ。

★今の学生に対してのメッセージ

 何らございません。みなさんご立派で、しっかりしてますね。我々の頃は、本当にバカだったと思います。今は学校行っても授業ちゃんと聞いてるし、ちゃんとしてますね。我々の頃は恥ずかしかったですよ。何も考えてなかったです。その分面白かったし、いまだに仲がいいですからね。我々の頃はバカ丸出しだったから、低レベルで共感が結び付いているわけで、強いですよね(笑)。誇れるって言ったらそのぐらいじゃないですか。でも、楽しかったなあ。

(1997年4月17日掲載)


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