第783号 September 26, 1996


応援歌ものがたり 〜稲魂のエール〜(2)

 応援歌〜稲魂のエール〜第2回は、本学の第一応援歌「紺碧の空」(発表時、第六応援歌)誕生のエピソードをお伝えする。
 まず、当時の早慶野球戦の戦況から説明する必要があるだろう。昭和二年、三年と慶応が全勝。4年の3勝3敗をはさんで、5年も慶応が春秋4連勝という一方的な記録を打ち立てている。この頃といえば、昭和2年に発表された慶應義塾応援歌「若き血」が一世を風靡していた頃であり、それがこの慶応黄金時代をさかんに煽っていた。慶応野球部のパワーを何倍にもアップさせたこの「若き血」の凄さに、早稲田はただ圧倒されるばかり。早慶戦の勝敗が大学内の雰囲気を大きく左右していたこの時期だけに、非常に重苦しい空気がキャンパスを支配していた。このどうにも沈滞した学内を一気に蘇らせるような画期的な応援歌が、早稲田にはどうしても必要であった。
 応援部が学内募集した歌詞の中から、西條八十教授が一字の修正も加えずに選出したのは、当時高等師範部3年の住治男氏の「紺碧の空」だった。しかし、作曲者がなかなか決まらない。何しろ、あの強烈な「若き血」を凌駕するものでなくてはならない。徹底討議の末、日本コロンビア専属の古関裕而氏に白羽の矢がたてられた。
 弱冠21歳、無名の新進作曲家は、この抜てきに心を躍らせた。そして彼が、夢中で青春の情熱をぶつけた応援歌「紺碧の空」が、ここに誕生したのである。来たるべき決戦に向けて、古関氏直々の指導の下、応援部の連日の特訓が繰り返された。
 昭和六年春、早慶戦でデビューした「紺碧の空」は、野球部と応援席を一気に奮い立たせ、歴史に名高い三原脩選手のホーム・スチールを呼ぶなどして、早稲田を勝利に導いた。この評判は一躍全国に広まり、その後、「紺碧の空」は本学の第一応援歌となりその地位を不動のものとする。作詞の住治男氏は27歳の若さで肺結核に倒れ、無念にもこの世を去るが、作曲の古関裕而氏はこれが出世作となり、次々とヒット曲を飛ばし続けて音楽界の寵児と騒がれることになる。
※参考文献:牛島芳「応援歌物語」(1979年、敬文堂刊)

「紺碧の空」 作詞・住 治男
作曲・古関裕而

紺碧の空 仰ぐ日輪
光輝あまねき 伝統のもと
すぐりし精鋭 闘志は燃えて
理想の王座を占むる者 われ等
早稲田 早稲田
 覇者 覇者 早稲田



青春の時 望む栄光
威力敵無き 精華の誇
見よこの陣頭 歓喜あふれて
理想の王座を占むる者 われ等
早稲田 早稲田
 覇者 覇者 早稲田

 「紺碧の空」記念碑(大隈会館敷地内)


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