No.875 1999/7/8 旅に出て、あつめる

人間科学部教授・寒川(そうがわ)恒夫


 楽しくなければ研究ではない…などと日頃から学生に吹聴している身からすれば、趣味もお仕事から離れていては具合が悪い。幸いなことに、生来の収集癖はうごめいていて、私の研究テーマである「エスニック民族スポーツ」の道具集めは着々と進んでいる。一番ホットなのは六月十七日に入手したバリ島テンガナン・グリンシン村の格闘技ムカレカレで使う楯である。上半身裸の男が左手に楯、右手に葉茎(表面には固くて鋭いトゲが沢山ついている)を持ち、隙を狙って切り付け合う。インドラ神に血を捧げるのが目的だから、先に血を流させた方が勝ちになる。このトゲがすこぶるイタイ。同行した研究仲間は果敢にも挑戦したが、軟弱な私はこれをカメラに収める側に回った。

 手に持てる程度のものなら、さして苦にならない。ところが、余程に大きい道具もある。タイで雨季明けに行うボートレースで用いる舟は長さが三十メートルあり、一本の樹の幹を刳り貫いて造ってある。幅一メートル、船高六十センチのそのスリムなボディーは、両端が僅かに反り上がり、何ともほれぼれする美しさだ。村によっては船首に三メートル、船尾に三メートルの龍の頭尾を装着し、全体を水神ナーガに擬している。ああ、何としても欲しい。しかし、これは到底研究室には入らない。沖縄の夏に見る綱引の綱も巨大だ。長さ百メートル、太さ八十センチのワラ綱を二本造り、これを雄綱、雌綱と称する。それぞれの綱の先は、さらに内径二メートルの輪に作ってある。そこで雌綱の輪に雄綱の輪を差し入れ、出てきた雄綱の輪の中に丸太を通し、二本の綱を離れなくして引き合う。性の象徴的結合によって稲の稔りの豊かなることを予祝するのである。これも欲しい。だが、雄綱一本だけで研究室は十分塞がってしまう。それに雄綱だけでは片手落ちだ。愛する二人を引き離すようで心苦しい。そこで決心。今年八月の沖縄ゼミ調査では、二つの綱の頭部だけを入手しよう。お雛様のごとく研究室の入口に並べ立てるのだ。これで我が研究室の学生の恋もせ成就するというものである。

 次は法学部・森田典正教授にお願いしたいと思います。


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No.874 1999/7/1 シェーする俳句

文学部教授 ・古井戸秀夫


 月天という俳句の結社にいます。「がってん」と読んで、月に住む天使のことを言うそうですが、実のところ、おっと合点だーの「がってん」の方が実情にあっているように思います。

 主宰は、烏鷺(うろ)坊こと佐山哲郎師。浄土宗の下谷西念寺の若住職です。碁が強いので、烏鷺坊といいます。白石を、鷺、黒石をカラスに見たてて、烏鷺。碁の好きなお坊さまということです。もう十年も前になります。ピンチヒッターで、西念寺のお施餓鬼でお講話をしました。そのおり、井目(せいもく)・風鈴付きでお手合わせ願って一蹴されて以来、弱すぎてつまらないのでしょうか、碁は打ってくれません。その時、将棋も打って負けました。将棋は、小生の方が強いので、癪に障って、こっちの方からお手合わせをご遠慮しています。その代わりに始めたのが俳句なのかもしれません。

 ちなみに、小生は、白々といいます。由来は、少し恥ずかしいので言えません。「はくはく」と読みますので、同人の皆さんに、ハクハクとか、ハクハクさん、とか言われてきました。最近は、言うことが白々しいので、自分から「しらじら」と言うようにしていますが、ハクハク、ハクハクで通っているので、一向に改まる気配もありません。

 写真は、九六年正月の吟行のスナップです。鶯谷から、下谷の七福神を回り、西念寺に戻る途中で撮りました。レトロな大衆食堂に入って乾杯して出てきたところで、はいポーズ。思わずシェーとなりました。平均年齢四十うん歳。見事なできばえでザンショ。

 シェーうまき

  友よ公園に

   木の実踏む

 このうちの一人が、詠んだ句です。誰だかわかりますか……。

 次回は人科の寒川(そうがわ)恒夫先生にバトンタッチします。

※写真:96年正月の吟行の1コマ(右から3番目が筆者)


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No.873 1999/6/24 棚田を耕す

教育学部教授・中島峰広


 私は、棚田支援市民ネツトワ―クの代表を務めています。この会は、棚田ブ―ムのきっかけをつくった第一回全国棚田サミットが高知県梼原(ゆすはら)町で開かれたのを機にして結成されたものです。会員は、棚田に特別の思い入れをもっている会社員・主婦・学生・定年退職者などであり、生産性の低さから消えてゆく棚田を保全するための活動を行っています。

 会が結成されて四年目を迎えますが、一年目は日本一の棚田卓越地にある新潟県松之山町で、田植と稲刈の農業体験を致しました。

 二年目は、会員の一人が住んでいる長野県八坂村で仲間が借りている棚田の耕作を支援するため、東京から交互に会員が出掛け、田起・代掻・田植・草刈・稲刈、農閑期に行う井堰修理に参加しました。

 三年目は、千葉県鴨川市の棚田で、無肥料・無農薬栽培・天日乾燥の米づくりを体験し、着実に活動の内容を高めてまいりました。

 四年目の今年は、鴨川市で放棄されていた棚田を復元し、自分たちだけで田起から脱穀までの米づくりに挑戦しています。棚田は大山千枚田といわれ、水源を持たない天水田の田圃です。

 去る五月十五日に二十坪程の棚田の復田を行いましたが、想像以上の重労働でした。スコップを差し込むのは容易でしたが、重粘土質である上ヨシの根が張っているため、起こすのに大変な力がいり、さらに起こしても天地返しするのに土がスコップからはがれず、苦労しました。

 五月三十日には砕土して、畦を塗り、田植を済ませました。というと簡単なようですが、畦塗は素人にはむつかしく、地主のお百姓(百の仕事ができるという意味ともいわれます)さんの手を借りることになりました。

 これからも田の草取、畦の草刈と作業が続きます。棚田に関心のある教職員の皆さん、そして学生諸君、私たちと一緒に汗を流してみませんか。作業が終って田圃の縁で飲むビ―ルは格別な味です。

 次回は文学部の古井戸秀夫先生にバトンタッチいたします。


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No.872 1999/6/17 本業と趣味のはざま−推理小説を愛読

政治経済学部教授・筑波常治


 本欄のねらいは「私の趣味・特技」を書くことの由。だが特技とは何かの機会にさりげなく披露してこそ粋である、ことさら宣伝するのは野暮だとわたしは考える。では趣味は? じつはいちばんこまる質問だ。趣味とは本業に対置される言葉だろうが、わたしにとってその間の線を引くのがはなはだむつかしい。読書はまぎれもなく本業にはいる。旅行は海外、国内をとわず好きだが、観光目的ででかけても、本業に関連ある素材(ねた)をいつのまにか仕入れてきている場合が多い。そして本当の趣味とは、これまた吹聴せずひとり静かに楽しむものではあるまいか。

 学生時代、せめて旅行のあいだだけでも堅苦しい読書からはなれて、息ぬきの本を読みたいと思い、推理小説をたずさえることにした。いらい半世紀ちかくそれを実行し、汽車の中で、夜のホテルの部屋で、愛読しつづけている。物語は謎にみちた事件にはじまる。探偵役が登場して証拠をあつめ、容疑者をわりだし、最後に真犯人をつきとめる。ところがこの過程が、科学研究の一連の手順とおなじなことに気がついた。まず謎にみちた不可解な事件だが、それはこれから研究すべき主題(テーマ)に相当する。謎解き役の探偵はすなわち研究者。証拠あつめの活動は、調査、観察、実験などによって必要な事実(データ)を得る作業にほかならない。物語がすすむにつれて犯人かと思える疑わしい人物がいく人もでてくるが、これは仮説の提示である。そのなかから証拠にあわせて真犯人を追いつめるのは、仮説とデータを照合して正しいと考えられる結論に到達することだ。このようにみなすと推理小説のすじだてと科学研究のやりかたは基本的に一致している。有名なコナン・ドイルはじめ推理小説作家に理系出身者が多いのも偶然ではあるまい。という次第で、本業と関係なく息ぬきのつもりで読み出した推理小説が、これまた本業と重なりあうはめになってしまった。

 といったようなことでおあとは、教育学部教授の中島峰広さんに引きついでいただきましょう。


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No.868 1999/5/20 とっておきの話

教育学部教授・東中川徹


 「おまえの字はなんて汚いんだ。習字の塾に行きなさい」。父にこう言われたのがきっかけだった。小学校六年になったばかりの頃である。それから毎日曜日、九時から十二時までの習字のおけいこ通いが始まった。その塾は熊本の百錬会という書道会に属していて、会発行の書道誌に月に一度「お清書」を送り、審査されて級が上がるのが楽しみだった。しばらくすると近くの神社で大学の先生が教えている書道塾にも行くように勧められ、土曜日の夜はそこへ通うこととなる。当時は街灯も十分ではなく、神社の近くの暗い墓地がとても怖く、走って通ったのを思い出す。

 「なかなか筋が良いから続けなさい」と言われてすっかりいい気になり、そうなると面白くもなり、かなり熱中して稽古に励んだものであった。級もトップになり書道展にも入選するようになった。その年の県展で小学校の部で最高の知事賞に決まったときは、お習字を始めて間もない時だっただけに信じられないように嬉しかった。

 やがて高校生。受験勉強のかたわら書道クラブで細々と続けたが、その時の作品がある書道展の学会賞になり、東京都美術館に展示された時は随分と有頂天になった覚えがある。

 大学時代の書道同好会では、師範の田辺皓先生から新しい書の楽しみ方を学んだ。それまでは手本の写しや托本の臨書ばかりであった。田辺先生のやり方は、唐詩選や現代詩集などから書きたい詩や歌を選び、どういう字体や構成で作品にまとめるかを『五體字類』などを見て自分で工夫する、というものであった。考えて見ればそれこそが本当の創作であり、もっと早くからそれに気づくべきであったと思うと、なんとも幼かったものである。早稲田に来て三年目。今ではときどき筆をとる程度。キャンパスで折にふれて書道展の看板を目にすると、日常の活動ってどんなことをしているのかなぁ、と思ったりする。

 自慢するものが何もない私が、ちょっと何か自慢したい時のための「とっておきの話」である。

 ここでバトンを政治経済学部の筑波常治先生にお渡しして次回の執筆をお願いすることにします。


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No.867 1999/5/13 今は昔の音楽三昧

理工学部教授・中里弘道


 私と音楽、特にいわゆるクラシック音楽との出会いは、中学生の頃だったと記憶している。群馬の片田舎にある私の小学校は、当時は全校でも二百人程度、私のクラスは二十八人であったが、中学校では二つの小学校の卒業生が集まって二クラスとなった。二クラスの同級生の中には、中学校で初めて一緒になった私の従兄弟も含まれていた。彼とはその後高校まで一緒となったのだが、当時既にピアノが結構な腕前であったらしい。そんな彼に触発されたのか、ラジオの音楽番組を聞き始めることになり、クラシック音楽に目覚めることとなった。

 「何か楽器を始めたい」というのが、「高校に入ったら何が欲しい?」と母から尋ねられた際の私の返答だったようである。

 運良く希望の高校に合格し、買ってもらったのが、今となってはとても楽器とも呼べないほどお粗末な銀メッキのフルートであった。高校時代は吹奏楽部に所属してそれこそ毎日練習をしていたが、その後の学生時代ではなかなか自由に練習できる環境にもなく、また生来の怠け癖のおかげか、腕前の方は相変わらずお恥ずかしいレベルに留まっている。

 そんな中で、七年前、文部省の在外研究で十カ月間滞在した音楽の都、ウィーンでの生活は今も忘れられない。幸いにも、現地でフルート愛好者(国連職員)の方と親しくなることができ、他の音楽学生とともにアンサンブルなどさせてもらった。特に、夜はほとんど毎週のように国立歌劇場(もちろん立ち見!)に出かけ、一流の歌手とオーケストラの演奏を楽しんだ。残念ながら、私は音楽が分かるような耳を持ち合わせていないが、素人でも素晴らしい歌手は分かるもののようである。それに立ち見という制度が本当に素晴らしい。

 当時、一番高い椅子席が二千シリング(約二万円)であったが、その直ぐ隣り、単に椅子がないというだけで立ち見は二十シリング(約二百円)であった。体力勝負(チケットを買うために公演開始一〜二時間前から並び始めるので、四〜五時間は立ちっ放し!)ではあるものの、確実にしかも安価に一流の演奏が楽しめるのである。

 その後遺症か、チケットはとてつもなく高く、しかも入手困難な東京では、一度も演奏会に出かけない生活となり、専ら自分の楽器を「拭く」この頃である。

 次回は、教育学部・東中川徹先生にお願いしました。


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No.866 1999/5/6 北京歴史散歩

法学部教授・竹中憲一


 私は北京に約七年住んだ。私が北京に住み始めた頃は、改革開放政策がまだ始まる前で、昔の北京の面影の残る時期であった。孤独で、娯楽のない北京での私の趣味は、北京の街をひたすら歩くことであった。

 北京に遊んだ芥川龍之介は長袍(チャンパオ)と呼ばれる中国服を着て、芝居小屋、骨董街、名所旧跡に吸い込まれるように歩き回った。「北京にある事三日既に北京に惚れこみ候」と室生犀星に手紙を書いている。最初は芥川の『北京日記抄』を片手に芥川と空間を共有することから始めた。同じ道を歩いてみて、芥川の受け止めた北京を共有することによって、芥川の研ぎ澄まされた感受性の片鱗を実感する自己満足にひたったものである。

 北京散歩もいろんな所に出かけたが、地図のない散歩で、探し出す楽しみがある。最初に探したのは中国の指導者毛沢東の「下宿」である。毛沢東は一九一八年夏湖南省から北京にやってきて、北京大学の図書館補助員となる。スノーに語った回想の中で、「わたしの地位はあまりに低かったので、だれも近寄りませんでした」と孤独な心境を述べている。図書館の仕事をしながら北京大学の授業をこっそり聴講しているとき、中国共産党の創設者・李大 と運命的な出会いをする。李大 は早稲田大学の出身で、かつて早稲田奉仕園に住んでいた。

 毛沢東の「下宿」は故宮の裏の景山公園の近くにあるらしいという。公園の近くで陽なたぼっこしている古老に尋ねて歩いたが、皆知らないという。第一日目は失敗、次の日曜日、旧北京大学図書館から景山公園に向けて尋ね歩いた。これも失敗、次に作戦を変え町内会に行って尋ねたところ、公園のそばの三眼井胡同(横丁)にあると言って、案内してくれた。家宅侵入罪を恐れながら中を覗くと、洗濯をしていた中年の婦人がいて、指し示した指先には粗末な平屋の建物があった。毛沢東の「下宿」である。室内は改造されたが外壁は昔のままだという。帰りは「下宿」から旧北京大学図書館まで、毛沢東が通ったと思われる道を毛沢東になったつもりでゆっくり歩いてみた。昨年半年北京に滞在したが、北京の変貌は激しく、今浦島のような気持ちになってしまった。写真は毛沢東の下宿。

 人間科学部・山内兄人先生からのバトンを理工学部の中里弘道先生に渡します。


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No.865 1999/4/22 ハリネズミ散歩

人間科学部教授・山内兄人


 人間科学部の僕の実験室ではネズミを使って脳の性分化の研究を行っている。生物を志した者は、子供の頃に虫などを集めるなど収集癖のある人間が多い。ご他聞に漏れず僕にもコレクター気質が十二分にある。ただし中学高校の時には虫ではなくカニを集めていた。ネズミを扱うようになり、ネズミ年でもあることだし、「ネズミ」に触手が動いたことは事実である。しかし、ネズミの置物はあまりにも多く、落着いたところは「ハリネズミ」であった。名前にネズミがついているが、動物学的にはネズミの仲間ではなく、むしろモグラに近い。日本には棲んでいない動物である。そのようなことでヨーロッパに行く毎に買い集めたハリネズミのクラフトが本箱の中でひしめいている。

 本物のハリネズミと最初に出会ったのは、一九八九年に吉村作治教授の薦めでエジプト旅行をした時である。まだ七歳だった息子が階段ピラミッドの麓で「たわしが落ちていた」と拾ってきたものが干からびたハリネズミの死体だった。僕はそれを大事に鞄に仕舞い込んだのである。その後、それを覚えていた吉村先生の義弟である斎藤栄二氏が二匹のハリネズミを持ってきてくださった。我が家で、ヌトとトト(エジプトの神の名)と名付けられた彼らは、三匹の先住猫族におかまいなく部屋の中を歩き回った。心配した日本の寒さも、住み家である木箱を電気ザブトンの上に置く事で解決できた。エジプトのハリネズミはヨーロッパのものと違い、細身のオオミミハリネズミである。触ろうとするとシュウシュウと声を出す。手のひらの上で丸くなったハリネズミを、コロンと絨毯の上に置くと、やがて顔がモクッと現われ、手足がニョッと出てきて、クリッと元にもどるとトトトトトと歩き出すさまはとても可愛い。トトは既に年を取っていたようで短命であったが、ヌトは元気に三年生きて老衰死した。僕のメールアドレスは[email protected]である。hedgehogはハリネズミの英名。写真は我が家の庭を散歩しているヌト。

 さて、法学部の竹中憲一先生にバトンタッチしましょう。


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No.864 1999/4/15 食べ物と人間

人間科学部教授・谷川章雄


 仕事柄、地方に出かけることが多いが、私には食べ物の好き嫌いというものが全くない。とは言っても、いわゆるグルメではないので、食べ物に対する執着心がそれほど強いわけではない。

 二十年ほど前に沖縄の多良間島に行ったとき、サトウキビ苅りの中休みの宴会に呼ばれて、山羊汁を食べた。これは山羊の肉を塩味で煮た素朴なもので、島の若者と一緒に泡盛を痛飲しながら、腹一杯食べた。

 珍しいものでは、沖縄でウミガメの刺身を食べたことがある。石垣島で貝塚の発掘をしたときには、猟師からリュウキュウイノシシの肉を買って、味噌で煮てしし鍋にした。一昨年の夏には、インドネシアでバリ島のイヌの肉のサテ(串焼き)を食べた。

 うまかったものでは、佐渡の定置網にかかったブリ、伊豆七島の利島のまるごとゆでた伊勢エビ、沖縄の粟国島の自家製の豆腐など、思い出すたびに唾が出てくる。

 食べ物はその土地の文化の窓口であるが、感覚的なものなので偏見もつきまとう。昆虫食などをゲテモノと言ったり、手づかみでものを食べるのを野蛮だと考えるのは、間違いだろう。バリ島でバリ人の家庭の食事に呼ばれたときは手食だったが、手で食べ物の手ざわりや温度を楽しむことができるのである。

 あるとき、「食べ物の好き嫌いの激しい人は、人間に対しても同様である」と友人が言うので、「それじゃあ、偏食のない私は人間に対しても天使のような存在だ」と得意になって答えた。すると、友人は平然として言ってのけた。「おまえのはむしろ悪食だ」

 次回の執筆者は、人間科学部の山内兄人先生にお願いしました。


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No.863 1999/4/8 4半世紀前の人間カラオケマシン

理工学部・大野高裕


 キャンパスを歩いているとさまざまな髪型やファッションの学生とすれ違う。びっくりするような色に染めている髪、転ばないかと心配したくなるノッポの靴、こんなのがかっこいいのかなと理解に苦しむような服。「何という時代なんだ」とため息をつきかけたとたん、ふっと二十五年前、自分が早稲田大学の学生になったあの当時の記憶がよみがえった。そういえば、あの頃とそっくりじゃないか。染めてはいないが長い髪、ウエスタンブーツを意識したハイヒール、裾の広がったパンタロンのジーンズをはいて、キャンパスを得意げに闊歩していたのはこの私じゃないかと、思わず苦笑してしまった。

 そうそう、あの頃もう一つの定番は、フォークギター。「ニューフォーク」といわれるジャンルがブームで、吉田拓郎、南こうせつのかぐや姫、財津和夫のチューリップ、小田和正のオフコースなどの曲が弾きたくて、歌いたくて皆で練習をした。C、Am、D7、G7などと必死でコードを覚えたが、なかなかいい音が出なくて、しかも弦を押さえる指先がマメで痛くなってしまったものだ。

 腕前で言えば私なんかよりも、はるかに上手なギターの弾き手は沢山いたけれども、私には一つの特技があった。それはどんな曲でも、譜面なしで伴奏できてしまうことだ。聞いたことのある曲ならば、誰かが歌えば、それに合わせてコードを何となくうまく当てはめることができてしまう。当時はまだカラオケがなかったから、とても重宝された。ジャンルはニューフォークから演歌まで、なんでもOKだった。そう、今はほとんど見かけることができなくなった飲み屋街の「流し」のお兄さんまでの芸域には達していないものの、そこそこいい線いっていたものだ。仲間で飲むとき、家族で宴会をやるときには必ずと言っていいほど、「おい、ギターもってこいよ」と人間カラオケマシンとして私は活躍した。

 最近は通信カラオケなど最新兵器があるから、全くお座敷は掛からない。それに最近の曲のコード進行は難しすぎて、弾けない。老朽化した二十五年前のカラオケマシンには荷が重すぎる。もう出番がないであろうあのころのギターは、今でもがっちりしたケースに納まって、私の書斎の片隅でひっそりと暮らしている。

 さて、次回は多彩な能力をお持ちの人間科学部・谷川章雄先生にバトンタッチします。


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