No.891 2000/1/20 どうでもいい記録

商学部助教授・嶋村和恵


 このエッセイには、多趣味な先生が次々登場している。私は、商学部報には、趣味はピアノ演奏などと書いている。真っ赤な嘘とは言わないまでも、一応体面を繕ってのもので、趣味というのは本当は恥ずかしい。研究室の乱雑度でいけばおそらく商学部でもトップクラスにいることは確かだが、これは私のずぼらな性格ゆえのもので、趣味でも特技でもない。私の研究室においでになった方は、さぞかしおおらかな性格の女性かと(もちろん嫌味で)思うはずである。

 実は私には、大した意味もない記録を付け続けるという習性がある。例えば、毎日食べたもの、食べた場所、一緒に食べた人の記録。調べてみたら十四年分あった。太りすぎを防ぐには食事記録が一番、という話を聞いて始めたのだが、まったく目的を達成することなく、単に記録になっている。しかしこれも便利なことがあって、我が家に人をお招きした時などに、毎回同じメニューを出してしまう愚は避けられる。今年一番食事を一緒にしたのは誰なのかもわかる。自分の体重の変化の記録もこれに付随してつけている。食べ過ぎた時にはやはり重い。理屈にかなっている。四年ほど前からは体脂肪率というのも付けている。絶対公開不可能な個人情報である。

 もっと変な記録としては、電気製品の乾電池やプリンタのトナーなどを交換するときに、つい日付を書いてしまうというのもある。この時期に関係のある記録といえば、年賀状。どなたからいただいて、どなたに出したという記録はおそらく多くの方が付けていることだろう。私の場合、年賀状をいただいた日付をつけてしまうのである。日付順に並べ替えてみると、毎年きちんと元旦にくださる方から、いつも十日過ぎにならないと来ない方まで一目瞭然。こんなことをしている私って、結構細かくて嫌な性格かも。

 次回は、私のパソコンの師匠であり、パイロットになることを密かに夢見ているらしい法学部の大塚英明先生にお願いします。


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No.890 2000/1/6 弘一大師のこと

社会科学部教授・島善高


 人に誇れるほどの趣味はないが、また趣味とは言えぬかも知れぬが、私が本当に心から楽しみとすることができるのは、史跡巡り、それも殆ど訪れる人もない史跡を巡って一人悦に入ることであろうか。

 本年(一九九九年)も幾つかの心に残る史跡を訪ねたけれども、取り分け嬉しかったのは、九月九日、中国の杭州にある虎ホウ(*1)寺(大慈山定慧寺)を訪うたことができたことである。猛暑の最中、涌き水を掬い飲みつつ(ここは涌き水が飲めることでも有名)、山道を上り詰めると、目的の弘一大師の横臥像があった。

 弘一大師は俗名を李叔同と言い、一八八〇年九月、天津に生まれ、上海の南洋公学に学んだ。科挙を目指して勉強していたが、制度そのものが廃止されたために、一九〇五年、日本に留学、上野の美術学校で西洋画、音楽、演劇などを学んだ。一九一〇年、三十一歳の時に帰国し、革命運動にも関わりを持ちながら、『太平洋報』や『文美雑誌』の編集に従事した。その後淅江省の師範学校、南京高等師範学校で図画や音楽を教え、多数の子弟を育てて、中国の美術および芸術に新風を吹きこんだのであったが、一九一八年、三十九歳の時に思うところ有って出家、杭州虎ホウ(*1)寺の了悟上人に帰依して仏道修行に励み、数多くの著作を残した。一九四三年九月、泉州温陵養老院で帰寂。享年六十三。

 数年前、弘一大師の一代記が中国国内で連続放映され、たまたま北京滞在中の私はそれを欠かさず観ることができた。俗事の殆どを断ち切って、北京で自適していた時の事とて、弘一大師の出家が妙に心を打ち、爾来、機会があれば訪ねてみたいと思い続けていたいのである。大師の横臥像は臨終の瑞相を見事に再現したものであるが、足元を徘徊する二頭の虎もまた逸品である。

 次回は商学部の嶋村和恵先生にお願いする予定。先生は私のカラオケのファンでもある。

(*1)ホウ:「足」ヘンに「包」


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No.889 1999/12/9 バラ造り

教育学部教授・堤貞夫


 私は山村で生まれ、戦中、戦後の物資のない時代に育った。自給自足が生活の基本であり、創意工夫をしなければ遊びも儘ならなかったのと、好奇心が旺盛であったことから、何でもやってみようと、いろいろなことに挑戦し、それなりに興味を持った。それゆえ自分では、一般に趣味として挙げられるようなスポ−ツ、山歩き、釣り、ガ−デニングなど多くの事柄を一通りこなせるように思っているが、趣味というほどのものはない。趣味と言えるかどうか分からないが、長いこと続いていることに「バラ造り」がある。

 初めてバラを植えたのは、三十年ほど前のことである。家を建てたが資金不足のため、塀の代わりに目隠しのための「つるバラ」をネットに絡ませた。他に二本の大輪種のバラを植えたが、これらのバラがいずれも予想以上の成長をして、あまりにも見事な花をつけたことが我が家の庭をバラだらけにしてしまったきっかけとなったようだ。もともと土いじりが嫌いでなかったことと、バラの花の美しさや芳醇な香りに魅せられて年々その数を増していった。二十年前、『新鐘』の趣味・談義という欄に「ばら造り」という拙文を物したが、その時に、既にに八十種、九十本にもなっていた。その頃、在外研究でアルゼンチンの南部国立大学に一年ほど滞在した。アルゼンチンでは何かにつけて中庭でアサ−ド(焼き肉)をするが、そこにはいつもバラがあった。土産に持ち帰ったパリーリャ(焼き網)を使って、我が家でも卒業生を呼んでバラを見ながらのアサ−ドをやってみた。現在ほど、焼き肉パ−ティが一般的でなかった頃のこととて、なかなかの好評で、それ以来、卒論の学生を加えた「バラ会」がかれこれ二十年も続いている。先輩との語らいの中から現役の進路が決まったり、この集まりが縁でカップルが誕生したことなどを考えると悪い気はしていない。バラの数も今や百五十種、百七十本余りになってしまった。

 次は、社会科学部の高島善高先生にバトンを渡すことにしよう。


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No.888 1999/12/2 カント、カント、ベルカント

理工学部教授・大坂敏明


 三点嬰ハ音、この音をすぐにベルリーニのオペラ「清教徒」に出てくる"アルトゥーロのアリア"と結びつける人は、余程のオペラ狂か、はたまたテノール大好き人間のどちらかである。かのパバロッティも、ライブでは出さなかったといわれるのがこの超高音だ。声の出せる時間帯に家にいる時は必ずこの音に挑戦する。ファルセット(裏声)ではダメ。ファルセットに胸声を混じえて初めて本物の音色になる。この無謀とも思える挑戦には別の狙いがある。プッチーニのオペラ「ボエーム」の中の名アリア"冷たき手を"を歌うためである。テノールなら誰でもが憧れるアリア。その後半に三点ハ音(よくハイC(ッェー)と言われる)が出てくる。この音に実声をタップリまぶして響かせるのには、さらに半音上の三点嬰ハ音が掴まえられるぐらいでないと駄目だ。"冷たき手を"を歌いたいための挑戦が続く。

 ベルカント(ベルは美しい、カントは歌唱の意)にとりつかれて三十四年になる。この間、声もレジェロからリリコへと、ここ数年はそれにスピントまで入ってくるようになった。オペラ「トスカ」の"星も光りぬ"まで歌になり始めた。三点ハ音が形になり始めると、テノールのアリアによくでてくる二点ロ音(H音)、有名な"誰も寝てはならぬ"とか、"女心の歌"にでてくる高音にも背伸びがいらなくなった。もっと頻繁に出てくる二点変ロ音(B音)はいつでも出せる気になる。わが世の春の気分である。

 自分が有頂天になっているということは、その陰に被害にあっている者が何人かいることを指す。家内は立場上諦めてくれているようだが、物心がついた頃から、公害、いや口害、少し違うな、そうそう"声害"に晒されてきた息子と娘は歌をやらなくなってしまった。わずかな心の痛みにもめげず、今日もまた…。

 次は教育学部の堤貞夫先生にお引き受け頂いた。


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No.887 1999/11/25 無趣味の趣味

法学部教授・早川弘道


 趣味は無い。特技は無趣味ということになろうか。朴念仁である。孤独を愛し、孤立を恐れずという程には、枯れている訳でもない。人の世の何事にも興味は尽きぬ。されどやはり趣味には思い至らない。趣味を持たぬ五十年の歳月は無為であったか。

 好きなことはある。木樵の真似ごとと草取り。河原の石拾いと紅葉狩り。薪割りと落葉焚き。空を見上げての日和見と風雲の観察。雨音を聴きながらの珈琲と雪見の酒。パイプの手入れと家中の掃除。古新聞を何カ月も積んでおくこと。数年分積んで茶箪笥と冷蔵庫が開かなくなり、引越のやむなきに至ったことがあった。書棚の前や机の脇に、本を一メートル以上の高さに重ね上げること。一番下の方に数日来探していた本を発見した時の喜びと苦しみは、ひとしおのものがある。

 夢のような一日もある。朝六時に鳥の声で目を覚まし、「朝のバロック」を聴きながら新聞を読む。濃いめの珈琲を楽しんだ後の半時程の散歩。あとは日がな本を読んでいる。家人不在の折りは昼食は必ず忘れる。ただただ机に向かって本を読む。茶も何もいらない。閑けさだけがあればよい。一冊の本は、やがて五冊、十冊と友を呼ぶだろう。机上から足下に本がこぼれおち、崩れ散り咲く。このまま夕陽が拝めれば最高である。

 時には小半日、何を考えるでもなく机に向かって、窓外の移ろいに眺め入るままも好い。鳥の囀り、風の聲、雨脚の影、雪片の舞い。無我の境地といった上等のものではないが、思索の閃光がひらめく万に一の機は、得てしてこうした無為の裡に訪れる。読む訳でもない本を携えて、行くあてもない道辺をたどるのも好ましい。苦しんだ末の原稿の出だしの一節を、突然思い浮かべるのは、こうした時である。

 考えてみると、無趣味もまんざら捨てたものではないのかもしれぬ。小生の趣味と特技は、無趣味です。

 次回の執筆者は、趣味多彩にして特技万般の大坂敏明さん(理工学部教授)です。


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No.886 1999/11/18 趣味こそ我が人生

商学部教授・小澤悦夫


 専門分野が何であれ、語学教員としては雑学屋にならざるを得ない。だから趣味人になったという訳でもないだろうが、振り返ってみると大分ワキ道に手間暇かけてきた気がする。

 高校の時に古典ギター部と写真部に入って以来、ギターを弾く暇こそ余りないが今でも爪を伸ばして磨いている−、写真の焼き付け・引き伸ばしも自分でする。大学時代の夏休みには毎日何時間もギターの練習をしたが、しまいには指が動かなくなってしまう。それを我慢して弾いているとまた少しずつ動くようになる。その辺りで一段レベル・アップした気がする。語学も同じことで、泣きながらでも集中的に勉強する時期がなければまず使いものにはならない。

 ギターから派生してクラシック音楽も好きになり、CDを聴くのも人生の楽しみの一つ。日本のコンサート料金は高いので余り行かないが、ボストンに一年遊学していた時はボストン響の定期会員になって通ったものだった。その間二度マエストロ・オザワと間違えられた(ホントです)。

 大学院に入った頃から将棋を始め、上野や新宿の将棋クラブによく通って十年程前に二段になったが、最近は行く暇もなく実力は足踏みのまま。それでも将棋は覚えてよかったと特に思うものの一つで、死ぬまで楽しむつもりでいる。

 国内でも外国でも旅行に出ると必ず美術館と動物園に行くことにしているが、この数年は特に絵画に魅かれて美術館巡りをしている。一番好きな画家はフェルメール。一番好きな絵は「青いターバンの少女」。私のライフワークはこのフェルメール描く少女と心中する方法を見つけることである。推理小説は好きでよく読むが、腕の立つ推理作家ならどんなトリックを考えるだろうか。

 その時までまだ余裕があるから、柴犬のコロすけ(本名「龍王号」)と散歩したり文鳥のピーター(本名同じ)と遊んだりしながらゆっくりと想を練ることにする。

 次週は法学部の早川弘道先生です。乞うご期待。


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No.885 1999/11/11 日暮れて道遠し

商学部教授・山本哲三


 何かを求めていたのか、何かに追われていたのか、振り返れば五十路、とりたてて趣味と呼べる程のものを持ち合わせていない。唯一、「胸に刺すことばかり」の時代に熱中した渓流釣りが、趣味といえば趣味かもしれない。眠れない夜などは、よくその頃の釣り紀行を思い出す。その中には、今に思えば、相当危険な釣行(ちょうこう)もあった。今日は、その中の一つ、約二十年前に信州の山奥でほとほと往生した話をしたい。

 私は車の免許を持っていないので、釣行の際は、公共交通機関で目的の渓流の近くまで行き、あとは山道、そま路を歩いてポイントに入るのである。三月上旬のある日、茅野に行き、駅からバスで目的地に向かい、バス停から歩くこと小一時間、ポイントの橋に着いたときは午後をかなり回っていた。早速、「昼なお暗き」上流を避け、下流に向け、山女魚を求めて釣行を開始した。渓相はよいが、谷は深く、岩を這い、淵を迂回しながら、下ること約一〜二時間、気がつけば辺りは暗く、急いで引き返すことにしたが、急速に闇は濃くなり、橋に戻るのは困難になった。気温は下がり、水は手を切るように冷たく、あるのは冷たい岩盤と雪の急斜面だけである。もう駄目か、と思われた。

 その時、空を仰ぐと遠方に一条の光が見えた。道路があるに違いない、そう思い雪の斜面を必死になってよじ登った。ところが、雪は太股まで達し、足場の確保もままならない。転落の恐怖に襲われた。そこで潅木を掴みながら登るため、邪魔になるものはすべて捨てることにした(リュック、帽子、マフラー等)。悪戦苦闘すること数時間(実は二十〜三十分)、漸く道路に出たときには体力を使い果たしていた。何とか歩きはじめたものの、疲労と寒さで麓への道は限りなく遠く思われた。あの時、林野庁のジープに拾われなかったら、と今も幸運に感謝している次第である。なに、肝心の釣果(ちょうか)の話をしていないって? その通り。しかし、君、ここで野暮な質問はするなかれ、だ。

 次回は、莫逆の友、商学部の小澤悦夫教授にバトンをタッチする。


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No.882 1999/10/20 わが青春の寅次郎

理工学部教授・森戸晋


 文学部菊池先生の高尚なエッセイの後はちょっとズッコケさせていただくことにしよう。「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します...」、ご存知「男はつらいよ」の切り出しである。私の大学/大学院生時代は、寅さんシリーズが定着し人気が出はじめた頃だった。親しい友人の旦那が山田洋次監督の弟子だったこともあり、大の寅さんファンとなった私は、主題歌のレコードを買って何回となく聞くほどになり、口上をはじめ主題歌全体を覚えてしまった。学生時代に染み込んだ歌がその後の自分にずっとついて回るとは思いもよらなかった。

 その後米国留学の機会を得たが、異国での友人作りに思わぬ手助けとなったのが「男はつらいよ」である。ドーム(dormitory=寄宿舎)の部屋に貼ってあった寅さんのレコードのジャケットを見た友人の「そいつは一体なんだ」という質問から始まって、テキ屋の説明、口上から主題歌へと盛り上がっていった。友人たちが適切な理解をしてくれたかはさておき、寅さんが愛すべき人物であることは伝わったようで、多くの友人(家内を含め)と近づくきっかけを与えてくれた。今でもたまに「まだ寅さんをやってるか」と聞かれたりする。教員として大学に戻ってからも、なぜか学科の懇親旅行では「男はつらいよ」が定番になってしまっている。また、研究室の博士第一号氏の結婚式では突然歌うハメになって、歌った本人も来賓もビックリという経験もした。

 私にとっての「男はつらいよ」は一つの象徴に過ぎないが、自分の人生五十余年を振り返ったとき時間的に十分の一程度に過ぎない大学時代に学んだことや得た友人が、いかに自分の身体に染み込み、今の自分を支えているかに驚かざるを得ない。学生時代は宝を詰め込む貴重な時間だった!

 次は、教員組合執行部時代のハッスル書記長、商学部山本哲三先生にバトンタッチ。


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No.881 1999/10/14 モネロン島のどぶろく

文学部教授・菊池徹夫


 趣味や特技と問われても、聴く一方の音楽、推理小説を中心とする本の乱読…。だが、こんなことはことさら趣味と言うほどのことでもあるまい。だいたい研究などというのは趣味が本業になったようなもので、だから私には考古学が趣味といっていいかもしれない。特技となると、さて、食い物の好き嫌いがないことぐらいで、他には何もない。もちろんヒラメの昆布じめでひれ酒などはタマラナイが、調査で方々へ出かけると、行く先々で変わった食べ物、そしてそれに合った酒に出会えるので食いしん坊の私にはありがたい。

 考古学のフィールドは、だいたいが辺鄙な地域が多い。一昨年の夏、サハリンのモネロン島(海馬島)に船で渡った時のこと。ロシアの考古学者と一緒に崖をよじ登り、草木の茂みをかき分け遺跡を探して歩きまわった私たちは、泥だらけのまま、夜には獲れたての巨大な毛ガニやタラの肝、それにカラフトマスとジャガイモのスープなどを肴にヴォトカのボトルを次々空けた。ところが、いよいよ島を離れる予定の日になって海が荒れ出し、待てど暮らせど迎えの船が来ない。ワリョーシャは私たちのために、にわか仕立てでロシア式サウナ「バーニャ」を沸かしてくれた。だが、せっかくの湯上がりにビールどころかヴォトカもイモさえ残っていない。見かねたサーシャは、島守のタタール族の爺さんの造った大事な濁酒を一瓶まきあげて来、スヴェータは波で打ち寄せられた昆布を採ってきて醤油で炒めてくれた。かくて、無線はおろか電話も電気さえない海岸の小屋で、ろうそくのもと、私たちは地響きのような波の音を聴きつつ、嵐の夜を陶然と過ごした。

 さて来年は、科研費が取れればの話だが、クリル(千島)列島に米露との共同調査で行くことになりそうだ。そこではどんなものが食べられるのか、いまから楽しみである。

 というわけで、検診のたびごとの数値は怖いけれど、食いしん坊という特技ほど幸せはないと思っている。

 次は理工学部の森戸晋先生に杯、いやバトンをお渡ししましょう。


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No.880 1999/10/7 趣味は二流・三流でいいから何でも

法学部教授・近江幸治


 畏友、縣(あがた)教授からバトンを手渡されたが、はたして「私の趣味・特技」は何か、困った。下手の横好きで、何にでも手を出すからである。スポーツ系はほとんどやってきた。テニスはそこそこに、スキーはSAJ二級現役、ゴルフも現在進行中、サーフィンは「恐怖の直線サーファー」などなど。しかし、多くは、途中で止めてしまったりしている。

 ただ、職業柄、この十年近く、飽きていないものの一つにパソコンがある。ワープロ・ブームだった八・九年前に、ハワイのデューティーフリーでモンブランの金張りの万年筆がほしくなり、「ワープロは絶対にいらないから」という条件で買って貰った(誰に?)。その言葉も乾かないうちに、すぐワープロを買ってしまった。その直後の状況は想像に任せるとして、これまで、98、Macなどを含めて、十数台のパソコンを動かしてきた。

 なぜこのように新しい機械に手を出すかというと、この世界の技術進歩はすさまじく、半年で新機種が出、一年も経てば、CPUの機能は格段に進歩しているからである。要するに、メーカーの思う壺である。しかし、ソフトを立ち上げたり、データ処理をしている場合、いったん早いマシーンに乗ったら旧機に戻れないのが一般の感情であろう。三リッター級以上のトルクの大きい車に乗ってドライブを経験するのと同じである。

 そうこうしているうちに、今年の始め、パソコンを自作してしまった。写真がそれである。ポピュラーな ASUSTek P2B-F' Pentium2450MHz を基本に、メモリー128MB、HDD 12GBのほか、3Dグラフィック・カードやサウンド・カードなど、最新鋭のものを搭載した(理工系の方は自作は当たり前であろうが、文系にとっては、基礎知識がないから大変な苦労がいる。事実、大塚英明教授の懇切な援助がなかったらできなかったであろう)。この機のおかげで、データソフトを六つも七つも開いておいて、その間の処理を縦横無尽に"ストレスなく"行うことができることを覚えた。しかし、半年経過した今、Pentium3 600MHzなどが話題の中心になっている。食指が……。

 次回は、歴史学の文学部教授 菊池徹夫先生にバトンを渡します。


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No.879 1999/9/30 いつまでもバッハ

政治経済学部教授・縣(あがた)公一郎


 本年一月一日を以って、早稲田大学混声合唱団(早混)会長を、教育学部の田辺洋二教授から引き継いだ。その理由は、私が専任教職員中数少ない早混OBであるからに、他ならない。一九七五年から七九年の学部四年間、朝から晩まで合唱していたといって過言ではない。今でも一回二時間半週三回の練習日程と聞いているが、空き時間も先輩から教わり、後輩を指導する。休業中も、さまざまな組み合わせの合宿が催される。合宿経費を賄うためにアルバイトで懸命にお金を貯め、お決まりの場所に合宿に行くと一日八時間一週間練習して、殆ど周辺を旅行もせず帰京する。お陰で、最も時間に恵まれた学部時代に、日本各地を巡って見聞を深める事全く無く過ごしてしまったのは、大変残念である。悔いて余りある。

 しかし、得たものは大きい。宗教音楽、とりわけJ・S・バッハの合唱曲に学生時代の体力と情熱で、全身全霊取り組んだことである。私個人の思いを述べるなら、「早混はバッハであった」と言い切ってもよい。近年滞独研究の際、自宅から徒歩一分の教会で、カントライ(教会付合唱団)に加わった。学生時代以来培った知識と技量は、大変歓迎され、重宝がられた。カントーア(音楽長)に提案して、長らく実践を希望していた作品二曲の演奏を実現した。しかも、或る時予定していたソリストが急病となり、穴が開いたため、代役を務めよとのお話まで頂いた。さすがにこのお誘いは固く辞退したが、この時の嬉しさは格別であった。やはり、「早混のバッハ」は、ほんものだったのだ。

 過日、早混時代に経験した二曲を二十数年ぶりに演奏する機会を得た。ミサ曲ロ短調と、モテット一番である。学生時代にどうしても取れなかった力みが、抜けている。自然と無理無く歌えるのである。体力が落ちたことの当然の帰結だろうが、年を経ることの魅力は、こうしたところにあるのかもしれない。今年で、断続的ではあるが、合唱生活三十二年となる。これからも、寸暇を見つけて続けられれば、と願っている。

 次のランナーとして、法学部近江幸治教授に、御快諾頂いた。


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No.878 1999/9/22 T.E.L?

商学部教授・中村清


 T.E.L.て誰のことかお判りになりますか? ロレンスのことです。と言ってもあの英文学者ロレンスではありません。トーマス・エドワード・ロレンスです。一九六三年にデヴィット・リーン監督によって「アラビアのロレンス」というタイトルで映画化されましたからこの名前には御記憶があると思います。

 三十七年前に渋谷パンテンオン座に父と一緒にロードショーを見に行ったことを昨日のように覚えています。映画の中でロレンスを演じた金髪碧眼のピーター・オトゥールの妖しい美しさに魅了された人も多いはずです。映画は、ロレンスの四十六年という決して長くはない人生の中で、アラビア独立のために戦った二年間を描いています。しかし、風雲急をつげる中東戦線に送り込まれた二十八歳のロレンスが、アラビア軍を組織し、独立への道を切り開いたのは決して偶然ではありません。

 ロレンスはオックスフォード大学ジーザス・カレッジ(学寮の食堂にはロレンスの肖像画が掲げられています)で考古学を専攻し、中世の築城に関する卒業論文によって優等で卒業しています。またユーフラテス河カルケミシュの発掘に参加し、アラビア語の方言も理解できるほど語学に長けていました。アッシュモリアン博物館にはロレンスが持ち帰ったヒッタイトの出土品が展示されています。

 ロレンスはまさに毀誉褒貶(きよほうへん)という言葉が当てはまる人物ですが、私が興味を抱くのは、「アラビア後のロレンス」です。ファイサルによるアラビア建国という夢は砂漠の王者イブン・サウドに奪われ、ロレンスの夢は唯一ヨルダン王国として残っているだけです。しかし、パリ講和条約ではロレンスは英首相ロイド・ジョージの経済顧問であったケインズと並んで八面六臂の活躍をしています。ザ・タイムズなどにも投稿を繰り返し、英國のアラビア政策を鋭く批判をしています。

 どうやら紙面が尽きたようです。ひとつだけ付け加えておきたいのは、ホメロスの「オデュッセイア」の英訳はロレンスの手によるということです。

 このリレーのバトンは政治経済学部の縣(あがた)公一郎先生に渡します。


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No.877 1999/9/16 君も知るや食の国

法学部教授・森田典正


 二十代後半の六年を私は学生としてイギリスで過ごした。最初の一、二年はともかく、最も退屈で、寂しさも感じたのはクリスマス時期だった。友人がクリスマス・ディナーに呼んでくれ、贈り物まで用意してくれても、所詮、イギリスのクリスマスは家族団欒の集いだった。そこで三回目のクリスマス、思い切ってイタリアに旅行した。学生の貧乏旅行だったが、以後、イタリアを何度も訪れるきっかけとなった。冬枯れの樹木に、みぞれ混じりの雨が降るロンドンからローマに着いて、バスがサン・ジョバンニ・ラテラーノあたりまでくると、松の緑がやけに暖かくみえたことを今でも思い出す。それから数年してエンブレム・ブックの起源の研究と称して、フィレンツェに一カ月ほど滞在したことがある。しかし、結局、フィレンツェの国立図書館よりバーや飲み屋で、できたばかりの友人とお喋りしていた時間の方が長かったにちがいない。まさにそんな時E・M・フォースターの『眺めのいい部屋』を読んでいて、こんな一節にでくわした。「ジオットーの絵画や法王制の腐敗について研究するためにイタリアまできて、青い空と青い空の下に生きる男と女のことだけを思い出に、故郷に帰った旅人が何人いたことか…」学生として自分もまともだと安心していいのか、情けないというのかなんとも奇妙な気持ちになった。

 イギリスではイタリアで仕入れてきたレシピを試したり、安トラットリアで食べた食事を真似て作ったりで、やがて、イタリア料理ばかりを作るようになった。イタリア料理を趣味と呼ぶのもはばかられるが、料理を作ることは好きである。友人の家におしかけて、居候をしては、ママから家庭料理を教わった。けれど、家庭料理はその家庭でしか作れない。スイスのイタリア語圏、ティチーノの小さな山村で、友人のお母さんはたっぷり半日間、暖炉にかけた大釜のポレンタ(玉蜀黍(とうもろこし)の粉)を、しゃもじでかき混ぜていた。薫製のようなおいしいポレンタだった。健啖家だったロッシーニの生まれ故郷ペザロでは、夏にもかかわらず、名物のバカラ(ぼうだら)を作ってもらった。地下の物置から、からからに乾いて、真っ白く塩をかぶったバカラを出してきて、裁断機で切り、一晩じっくりと塩抜きをして、さらにトマトで煮込むのである。おいしいものは時間がかかる。

 今でこそパルマ・ハムも解禁となり、乾燥茸(フンギ・ポルチーニ)も大手スーパーなら買えるようになった。しかし、私が留学から帰った頃は、まだ、イタ飯ブームの前で、細長いイタリアトマトをかんづめで買うのも一苦労だった。そこで、イタリアやイギリスに行くたびに、少しずつ日本で買えないものを買って帰っては、友人を呼んで食事をした。落語の「寝床」にでてくる、義太夫語りとにたりよったりである。

 次は商学部・中村清教授にお願いしたいと思います。

写真:美味しそうな食卓を囲む森田先生


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