No.907 2000/7/6 俺のおろかな物忘れ

語学教育研究所・塩田 勉


 昔から短気で飽きっぽい。複雑なことが理解できず、おっちょこちょい、すぐ忘れる。小学校の通信簿に書かれた批評である。直そうとしてみたけれど、三つ子の魂百までっていうやつでいかな直せるものではない。趣味を振り返ってみたら、飽きっぽく粗忽な欠点がよく出ている。それは人生の縮図だった。無意識であるだけに、趣味は人柄を容赦なく暴くものらしい。

 小学生のときは、理科の先生に影響された植物採集と祖母から仕込まれた山田流の琴にはまった。中学になったら物語を書くことが好きになった。高校では、先生を馬鹿にするのが天職だった。大学に入った後六年間ピアノに熱中した。外国語をつまみ食いし散らかすこともした。大学院に入ってからの年月は恋愛と失恋を繰り返しで、勉強どころではなく性愛の本を読みあさった。

 結婚してから子供を撮りまくる写真馬鹿に変身した。外国へゆくと外国かぶれになり、屋根のペンキを塗ったり壁に断熱材を入れ日曜大工を嬉々としてやった。ガーデニングに凝りだしたのもこのころだった。家庭料理もひととおりつくった。凝ったもの以外ならなんでもつくるようになった。

 一方、いろいろなジャンルの本に凝った。時代小説、マンガ、古武術、浮世絵、川柳、読めばなんでも面白かった。自伝、書簡集の時代もあったし、宗教書に夢中になった時期もある。幸い記憶力が悪いからすぐ忘れてカルトにははまらなかった。日本の民謡から西洋のクラシック、落語や浪曲も聴いた。狂言や能、日本舞踊や浄瑠璃などもテレビでよく見た時期、科学書を読みあさり科学番組をよく見た年が交替した。科学者の伝記にはまった時期もあった。

 二度目の留学中は、人物スケッチが面白くてスケッチ・ブックを何冊もつぶした。年齢が重なると、健康維持に関心が移り、健康食やら散歩やら体操やらヨガやら自律訓練法を研究した。とまあ、ときどきの欲望に応じてそのつど浅はかなオタクとなる。飽きっぽいから飽和点がくるとすぐ忘れる。半可通と雑学の人生で、何か、「通」として、「玄人」として他人様に披露できるようなものは何も残らなかった。やはり短気は損気か!、これを書いて反省モードにはまる時期がきた。

 政経学部三神弘子さんにバトンタッチ。


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No.906 2000/6/29 蕎麦屋の話

文学部助教授・十重田 裕一


 つい先頃、教育実習の訪問教員としてとある高等学校に行った。昼間部の授業参観の後、夜間部の授業開始まで四時間ほど時間があいたので、学校から四キロほど離れた古刹に行った。多くの文人墨客が訪れたその寺院を見学し、その門前にひしめく蕎麦屋に入ろう、というのが狙いである。ちょうど陽が翳りはじめた頃だったので、寺院に至る道の両側の樹木を吹き抜ける風は涼しく、木洩れ日も優しかった。茅葺屋根の山門をくぐり、一時間ほどかけて寺院とその周辺の見学を終えると、早い夕食にちょうどいい頃合いとなった。

 しかし、突然思い立って来たため、数ある店のどこに入ればいいのか全くわからない。五十軒近くあるどの店の看板にも、「手打ち」「国産そば粉使用」という言葉が躍っていて、どこが美味しいのやら皆目見当がつかないのだ。どの店も、「味におぼえあり」と見えてしまう。せっかく来たのだから是非とも美味しい店に入ろうと、三十分近く歩き回ったのだが、そうこうしているうちに、多くの店は閉店となってしまった。古刹を見学に来る人々を客とする門前の蕎麦屋は、寺の閉門にあわせてほとんどが店じまいをするのである。

 蕎麦で名にし負う場所柄ゆえ、お互い鎬を削り、どの店もそれなりに美味しいに違いないと考え、タクシーのりば近くのある店に入った。ところが、期待は大きく打ち砕かれた。試みに別の店に入ってみようとも思ったが、時間がなくなったので、後髪をひかれるようにタクシーに乗り、夜間部の授業を参観すべく再び高等学校に向かった。運転手に蕎麦屋のことを聞いたところ、次のような答が返ってきた。「お客さん、このあたりの蕎麦屋は、観光客や花見客が多いので、黙っていても商売になるんですよ。もちろん、旨い店もあるし、精進している店もあるけれど、そうでない店も少なくないねえ」。

 以前行ったことのある蕎麦の名所が、どの店も個性的で高いレベルを維持していたことを思い起こし、両者を分かつのは何なのかを考えながら、この話に耳を傾けていた。

 次は、語学教育研究所の塩田勉先生にバトンタッチします。


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No.905 2000/6/22

文学部教授・岩本 憲児


 わが敬愛する画家の藪野先生から、「リレーエッセイ」を書くようにとの電話あり。短い原稿でよかったはずと、おぼろな記憶でまずは承諾、『ウィークリー』で確認したら「とっておきの話」というテーマ。うーむ、これは困った。写真を使うとなると、メキシコの女優さんとの写真? 中国のトップモデルとの写真? どうもミーハー風? とっておきの話ならぬ、とっておきの写真になってしまいそうだ。まじめな写真を探すことにしよう。あったぞ、剣豪宮本武蔵の銅像の前というのはどうだ。私は数年前から剣道部の部長をやっているから、この写真こそ私にふさわしいと自分で納得。夏は合宿、春は武者修業遠征と、剣道部員の出かけるところへ私も顔を出す。かつては熊本の剣道美少年だった私も、いまは学生たちと稽古などは一切しない。心臓麻痺で倒れたらたいへんだから。今年の三月は久方ぶりの(部長としての私は初の)熊本遠征になった。

 熊本市には細川刑部邸(武家屋敷)とか島田美術館(武蔵ゆかりの美術品、遺品あり)とか、山麓の霊巌洞(武蔵が篭って瞑想した)とか、「剣」と結びつく歴史的な場所があり、郊外の武蔵塚もその一つ。学生諸君が県警の猛者たちと汗を流している合間に、私もまた汗をふきふき武蔵塚まで足を運び、近くの人に頼んで写真をパチリ。写真は記念像で、武蔵塚はこの公園内にある。私はもう剣の修行はしていないのだから、早大剣道部が日本一になりますようにと、殊勝なる願掛けである。もっとも、部長になって以来、研究熱心? な私は武道史、武士道論(『葉隠』までも!)など専門外の読書が多くなり、本来の自己の研究テーマたる映画とモダニズムとか、映像とアヴァンギャルドとかから隔たっていくことはなはだしい。そこで次回は、文学から映像へどんどん接近している文学部の十重田裕一先生へ登場していただこう。


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No.904 2000/6/15 

専門学校教授・藪野 健


 町を歩き、読みとり、表現に結びつける授業を始めています。何度も訪れた町でもその度に違った表情をみせ、発見があり、町の人との出逢いがあります。

 文学や社会学など違った分野の先生も一緒に、江戸切絵図、戦災焼失区域表示の区分地図を時折開きながら歩くと、重層する都市の構造がみえてきます。

 それにスケッチブックとアルミの椅子。

 座りこんで絵を描いていると、町の人の眼が優しくなるように思います。まず犬、猫がのぞきこみ、次に子供。「何描いてるの」それがきっかけで会話が広まります。母親や祖父母、それに近所の方々。老若男女/学生が一緒になってなごやかになります。時に戦前の住居をみせていただいたり、貴重なお話がうかがえます。

 東京は広いばかりでなく、実に複雑です。四百年の間に大火、震災、風水害それに空襲と災害に打ちのめされ、その度に甦り、洗練を加えてきた都市も珍しい。表通りからまるで美しいものから壊していったのではないかと思える程、折角震災や戦災にも残った赤煉瓦や黒漆喰塗込の豪壮な建築群が消えていきました。それでも一歩路地に入ると出桁造りや看板建築がしぶとく美しさを保っていて悲喜こもごもです。記憶が都市にとって重要な意味をもつことは、歩いてみつめたり町の中に入り込んで会話することから伝わってきます。

 友人たちと借りている大正末の月島の長屋の一室が教室となることもあります。窓を開けると数軒先の家の中を通って風が抜けていきます。喜怒哀楽も一緒に運んできて筒抜けなのですが、極めて生き生きした場が形成され、生活の舞台となっていることを知ることもできます。

 そんな中で、人と同じように都市にも新旧があり生老病死があり、さまざまな生活が共存することの意味が語られます。学生から次々に都市現代の建築論が展開し、記述や表現が試みられていくのが楽しい限りです。東京は絶好の舞台のように思えるのです。次回は舞台といえば映画論の岩本憲児先生に。


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No.903 2000/6/8 「若者の悩み」

理工学部教授・内田 種臣


 点滴を受けながら、周りのベッドから一斉に流れるニュースを聞いて驚いた。それは、僕の故里で起こった、十七歳の少年による、バスハイジャック事件である。加害者や被害者の住所がどれも馴染みのある所で、何か通常の事件とは違ったものとして聞こえてきた。僕の高校生の頃にも、高校生による殺人事件とか障害事件というものはいくつかあった。僕自身、喧嘩に巻き込まれたこともある。

 そういえば、当時、社会党委員長の淺沼稲次郎氏が青年に殺害されたこともあった。短気な僕も、あるところで、「お前のようなやつが、ヤマグチオトヤ(犯人の名前)のようになるんだ! 鑑別所に送るぞ!」と、脅しを受けたことがある。僕もまわりの悪友も、失恋の痛手で立ち直れないくらいであったが、なんとか「ストーカー」にはならないで済んだと勝手に思っている。今の少年は、昔と本当に違ってきたのか?

 「悪い」ことをすると、「反省しろ!」と、よく言われた。もっともである。

 しかし、何が悪いか分からないことも多かった。確かに僕は問題を起こしたであろうが、それは、僕が悪いからである以上に、僕が問題を理解できなかったからであるように思われる。自分に対してであれ、他人に対してであれ、悩むように追い込んではダメで、よく考えられるようにしなければならないのではないだろうか? 最近、問題に対処するのがいかに下手であるかに気付くはめになった。誰にとっても、「よく考える」こと、状況をよく表現することは難しい。このような困難が集まればどうなるか? 自分の未熟さが、陰謀をでっちあげ、犯人をでっち上げ、あの人は「善い人」、あの人は「悪い人」と言って、不安と期待の中で、分かりやすいストーリーを作っていく。もっともっと良く考えられたら…。

 次は専門学校の薮野健先生にバトンをタッチします。

※写真:向かって一番右が内田先生


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No.902 2000/6/1 わが遊歩

商学部教授・川中子 弘


 遊歩とは、正体不明ないし変幻自在、車に轢かれそうになりながら時に君子豹変の危うい境にも歩を遊ばせる。とはいえ人様に会うのは苦手なので、賑々しいあたりに出れば古本屋、カフェ、呑み屋、パン屋…人気ない山道にさしかかれば梅の一枝、温泉、今頃なら山ウド(と思いつつ八百屋で間に合わせて)、海辺に道が通じれば小石拾い(「この石ころどうする気?」「……」、どれも一億年はあるこの大記念碑の奥行の深さを理解させる能力は私にはない)。

 鉱脈の豊かさは当人の酔狂次第なのだが、それがこの頃は裏目にでて、なにかと以前ほどの感興が乏しくなってみると、ただ歩くだけのことになる。ないものをないと言いかねた無趣味の地金をかみしめる次第なのです。だからこれは旧聞に属するが、欧州の港町サン・マロの石畳の路地へと少々足をのばした時のこと、東西の古いものが所狭しと並ぶ店内で、清初のコーヒー茶碗を一組手に入れた。

 出がけに初老の店主は自宅の電話番号を教え、これはすぐには出ないが、待てば必ず出るからと妙な念をおした。その容貌、なにかで見たフラマン辺の用心深くしたたかな豪商に似なくもない。静まった大邸宅にしばらく電話が響き、遠くから誰かが近づいてくる。大海賊(公認の)、それにたしかアメリカ成金を輩出した古い貿易港である。右から左へ物を動かすだけで身代を築いたブルジョワは相当あったに違いなく、Kangxi(康煕)帝というこの茶碗も、東インド会社の荷こぼれの一端が長い歳月人目をここに逃れていた、などと言えば進んで騙される客の感傷だろう。だが、値交渉には一押し二押し駄目でも、三押しで渋々呑んでニッコリ別れる暗黙の呼吸がある。それがこの落としどころを敵は一向に首をたてにふらず、結局言い値で買わされたのだった。この強気もぶつへの自信、何百年揺るがぬ身代あればこそ、と返って妄想は続くのだが、ともあれ陰でインド洋を往来したようなものだから、我が遊歩も捨てたものではないと思うべきなのかもしれない。

 これは記号学的にどう分析すればいいのですか、理工の内田種臣先生?


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No.901 2000/5/25 師恩

理工学部教授・但田(ただ)栄


 雪国育ちで、スキーは四〜五才から始めた。小学と中学ではアルペン・スキーの選手だった。あれは中学二年、三月末のことだ。競技会がこんなシーズンオフと思える時期に行われたのは、そこが千メートル級の山奥で、このころにならないと入山できないほど、当時は雪が深かかったからだ。その日は快晴。コースは急斜面のブッシュを鉈(なた)で切り開いた程度で、とくに旗門はなく、頂上付近から尾根に沿って滑降するといった、かなり荒っぽいものだった。スタートの合図とともに、勢いよく斜面に飛び込んでいった。ゴール近くまできたとき、そこの急カーブだけが木陰のために氷結していて、思わずバランスを崩し、そばの雑木に激突してしまった。右脚はまったく動かなくなった。 

 そのとき、急遽、私を救出してくださったのは、中学のスキークラブの顧問で、保健体育担当の堀という、とても小柄な先生だった。応急処置として、すぐに辺りの木片で脚に添え木をされた。先生は、悪寒と痛みでガチガチふるえている私に、ごく少量のウィスキーを含ませ、私を背負って、おそらくは四時間以上もかかって下山された。当時は、まだ自動車道路もなく、人里まで降りるには山道を歩くしかなかった。夕暮どきで、足場も極めて悪いときだった。その間、先生から「痛いか」と聞かれ、「大丈夫です」と何度か答えたことだけを覚えている。

 翌日には、四十度近くの熱が出、右脚は普段の三倍ほどに腫れ上がっていた。足首の骨が、二本折れていた。しかし、いわゆる単純骨折で済んでいたため、その後の回復も早かった。先生の的確な処置のおかげである。思えば、もう三十五年近くも前のことになる。その先生は、四十に才の若さで亡くなられてしまった。一方、この私は、今、先生の齢をかなり超えた年になっている。ここ数年来、冬から春にかけて、中年太りも重なり、右脚がうずく。痛みを紛らすと称し、ごく少量のつもりでウィスキーを飲み、私を背負ってくださった先生の、あの小さな背中のことを思い出している…。

 次は、私の大学時代からの先輩である、商学部教授川中子弘先生にバトンタッチいたします。


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No.900 2000/5/18 それは整理好きから始まった

政治経済学部教授・佐藤 正志


 私は自宅近くのジムのステアマシンの上でもう四十分も足踏みを続けながら、流れ出る汗が冷や汗であることに気づいていた。というのも、その間もずっとこのエッセイのことを考えていたからだ。数年前に前後して同じキャンパスに戻ってきながら、まだ一度も会っていない懐かしい首藤重幸先生からのE・メールに、つい気軽に引き受けてしまったのだが、それが趣味と特技の話の欄だなんて……。ジムで身体を鍛え、中年の人生を頑張れと言ってくれたような気のするパーカーのスペンサー探偵のことでもと思ったけれど、とても推理小説を愛読しているなんて言えないし、と悩んでいて、ふと「とっておきの話」は読者に役立つお宝情報でもいいのではないかと思いついて、最近見つけたマックのソフトのことを思い出した。

 もともと私がパソコンに関心をもつようになったのは、無類の整理好きというか、整理魔的性格からであった。かつて私にとって研究は、沢山の文献カードと研究ノートを作ることからはじまった。問題はそれらをどのように整理するかであった。もし電子的なデータベース化が可能であり、テキスト間をハイパーリンクで関連づけるような電子ノートができたらなどと十年くらいDOSマシンで悩み続けた後、十年ちょっと前にマックに出会った。なんとそこには、雑多なファイルをフォルダに投げ入れるだけという、超整理法が準備されていたし、ハイパー・テキストの理念は標準のアプリケーションとして実現していた。そしてパソコンは情報と思考を整理するための道具であることを直接に経験させてくれたのは、デファクトな標準アプリになっていた、「アクタ」というアウトライン・プロセッサと、「エンドノート」というビブリオグラフィ構築用のデータベースであった。

 懐かしいこの「アクタ」のクラシック・バージョンがフリーウェアとして手にはいることが最近わかった(http://a-sharp.com/acta/)。しかも日本語環境で使うためのパッチまで準備されている(http://www.bekkoame.ne.jp/~iimori/sw/ActaPatch.html)。さらに「エンドノート」に似た「パピルス」というソフトを一定のデータ量までなら無料で使うことができることを知った(http://www.rsd.com/)。これが「とっておきの話」であることを、「iMacを買ったけど、早くてすごい」というメールをくれたあの人ならわかってくれると思う。ということで、理工学部の但田栄先生にリレーすることにしよう。


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No.899 2000/5/11 ブラックボックス

法学部教授・首藤 重幸


 前回のエッセイ担当の野嶋先生とは、私が日本各地の職場を流浪する度に、その地で遭遇し続けるという不思議なご縁で結ばれている。

 早稲田大学入学当初、周囲には『資本論』第一編第二十四章を暗記していたり、二・二六事件の檄文を口ずさむ学生がいたりで、早稲田という所の妖しさに堪まらず旅行に逃避した。その旅先でも、多くの早稲田流旅行術の奥義を極めた「名人」たちと遭遇した。なかでも、ポットをリュックに放り込み、行き着く旅の先々の水で湯を沸かし(街中で、お気に入りのコンセントを発見して勝手に通電する、その名人芸)、コーヒーを楽しむ先輩を見た時には驚き、一気に人生が解放され早稲田大学が好きになった。

さて、現在の趣味の話。二年前、老眼の進行で、トランジスタやICの型番の文字が判別できなくなり、抵抗の色帯の識別なども困難になった。これが主原因で、私の趣味のリストから「初歩的・電子回路」作成が消滅し、残った趣味は、建坪率六十パーセント規制で法的に創出された自宅の庭の、「草むしり」くらいになった。しかし、草むしりでは、もし長生きした場合の老後を乗り切れない。そこで、最近、回路復活。強力な老眼鏡も作った(これで、条文も読めるようになった)今、光の量で内部抵抗が変化する部品を使って、近くの保育園児を驚かせる「手かざし音色変化・早期人生占い機」を作成中。

 電気(機器)なくしては生きてゆけない自分でありながら、その原理や基礎回路はブラック・ボックスのなかにあり、わからない。ある日、これは、その筋でいう「疎外」ということではないかと感じ、ここに原理への接近のための電子回路作成の意義を発見した。と、配偶者には説明しているが、相変わらず、雑誌の設計通りに基盤を作り初歩的な回路を仕上げているのであるから、ますます疎外は強まっているのが現実。

 次回は、政治経済学部の佐藤正志先生に「リレー」(電磁開閉器)。


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No.898 2000/4/27 私なりの青春時代

人間科学部教授・野嶋 栄一郎


 私が、東京は目黒にあった国立教育研究所から北陸の福井大学に移ったのは昭和五十五年の夏でした。明けた年の冬は、運悪く、「56豪雪」と今でも語り継がれる大雪でした。やれやれと運の悪い我が身を嘆いていたら、翌年の春には文部省から今度はコロンボプランの派遣専門家として赤道に近いスリランカに行けとの命令。今回の私のとっておきの「失敗談」はこのスリランカでの出来事です。

 スリランカでの生活は波乱万丈でした。何よりも衝撃的だったのは、滞在三カ月目にして民族闘争による殺戮の現場に出くわした事でした。シンハリ人とタミール人の戦いは、遡ること紀元前から二千年を越える怨念の戦いでした。戒厳令下の約二カ月間の窮乏生活の中では強烈な匂いを放つ黄変米をすら口にせざるを得ませんでした。

 やっと暴動が静かになったら、大使館やJICAの要請による仕事がどっと舞い込み始めました。その中の一つに、大使館の企画によるプレスキャンペーンがありました。私共もそのあおりで、二〜三日集中的なプレスインタビューを受けました。その中でも格別熱心だったのが「SUN」という新聞社でした。皆さん、SUNと命名された新聞社には気をつけましょう。熱心なインタビューに、スリランカの教育改革のあり方を一所懸命考え、答えたのですが、紙上のタイトルとしては、「日本の教育専門家がスリランカの教育政策を徹底的に糾弾した」と顔写真入りで一面にでかでかと出てしまったのです。スリランカ教育省の私のカウンターパートたちも、また、大使館やJICA事務所も皆一斉に青ざめてしまいました。同行した某国立大学の同僚なh迴ネの仲間たちの方が私の真意を理解しそれを上層部に伝えてくれて事なき得ました。

 この他、タミール人の町ジャフナに潜入したり、フラッシュをたいたばかりに野性の象に襲われそうになったり、当時は面白がっていましたが、今から思えば危ない橋を渡っていたものです。既に子供が二人もあった身でありながら、間違いなく、あれも私なりの青春時代であったと確信しています。

 次回は福井大学時代の同僚、法学部の首藤重幸先生にバトンタッチします。


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No.897 2000/4/20 揺らぐ標的

文学部教授・木村 裕


 少し前、射撃部部長をお引き受けして以来、技量は別として折に触れて空気銃の射撃を楽しんでおります。マイナーのスポーツだと思っていたのに反して、射撃人口は相当多くてメジャー中のメジャーと言えることが分かってくると、今度は分かっていたはずの鉄砲族の会話がよく理解できていないことに気付きました。であればもう自分で射撃をするしかないと思うようになり、思い切って住居最寄りの警察へ出向いてみました。担当官は「練習場があるのですか、では早稲田ですね」と、たちまち私の事情を察して銃の購入までの説明と共に手続きに必用な書類等を渡してくれました。久しぶりの試験合格はことのほか嬉しいものでした。所持許可証を受け取るときなどはSWATのメンバーになったような気分でああもう元の私では無いのだなあと気取りたっぷりに身のこなしまで違っていただろうと思います。

 東伏見の施設は天下一品です。その中で部員諸氏の指導の下に撃ち始めましたが、的中しても外れてもどうしてそうなったのか分からないのが実情でした。何せ当時の最新の銃を入手し、最高級の射撃服を部員から譲り受けて気分は上々でありましたから、意のままにならないなど論外の事でした。構えて眼を寄せた照門の中で静止しているはずの標的がそ知らぬ風情で気ままに揺らぐ様子は、見事に私の気持ち掻き乱します。いやしくも行動変容過程を講ずる研究者の端くれである以上、必ずや部員諸氏が目を見張る成績を出さねばなりません。この揺らぎを乗り越えることはできるのか。そしてその向こうには何があるのか。

 射撃は静止不動のスポーツですが、猛暑の夏には汗が噴き出し、冬の極寒は震えと感覚麻痺を起こさせます。滅多に無い事とは言え、目まいや眩みも危険につながります。大学は見かねて火薬を使う射場にエアコンを入れてくれました。この快挙のおかげで射撃部の成績は着実に向上し始めました。残るは空気銃の射場のエアコンです。

 慶応が先頃アッと驚く全国優勝を飾りました。やればできる。我ら早稲田勢も負けてはいられません。

 次は、人間科学部の野嶋栄一郎先生にバトンをお渡しすることにしましょう。


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No.896 2000/4/13 コマ・独楽・陀螺・トップのこと

理工学部教授・中川 義英


 コマを漢字で示すと「独楽」と書きます。「独学」ならぬ「独楽」は、そのまま「コマ」とは読めないはずです。ここまで書いて、私の趣味の一つは調べ、集め、「独り楽しみ」、蓄えることではないかとふと気付きました。私たちの身の回りには回転している物は少ないです。コマの魅力は回転していることにあります。「集める楽しさ」、「回す楽しさ」、「創る楽しさ」、があります。私も仕事で日本の各地や外国に行ったとき必ず木製のコマを主に探し求め二百を越えました。

 25年位前、福岡での学会後、周遊券を使い九州北部を回りました。熊本で「ひねりごま」を組み合わせた、<分福茶釜の狸ごま>を見つけました。ところが買えなかったのです。気が付いた時には、コマに小遣いを使い果たし、ほとんど飲まず食わずで汽車を乗り継ぎ、やっとの思いで東京に戻りました。その2年後<狸ごま>は手に入りました。

 結婚式の記念品として、江戸独楽の広井政昭さんに相応しい塗りの<夫婦ごま>を制作していただきました。式当日は、『トップ・サービス』と称してコマを配りながら会場を回りました。コマは英語でTopです。その後のスピーチで「トップ(頭)になるか、それともスピン(きりきり舞)か」と言ってしまったのです。今も私はスピン(いわばコマの「みそすマツクリ(古末都久利)と呼ばれているが、独楽には孔(あな)があいている」との意味の内容が『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』にあります。これは「鳴りごま」の一種だと思います。その後、コマツブリ(狛鷸(はくいつ))などの記述も経て「コマ」になりました。ところで「独楽」は「トーラー」という音につながると思いませんか。中国語では「陀螺(トーロー)」と言います。日本では木地師などがろくろ技術を身につけていく中で独楽や狛類玩具を創っていたと言われています。

 さてコマには、回転させると中から羽根が出てきて大きなコマのように見せる<よくばりごま>というのがあります。私は今、地域のスポーツ活動のお手伝いもしています。これも欲張りの現れです。きっかけは学生時代に射撃部に属したのが一因です。

 そこで、次は、射撃部の部長を務めておられる文学部の木村裕先生にバトンを渡します。


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No.895 2000/4/6 辛口食道楽

法学部教授・大塚 英明


 おもわぬところでおもわぬ食嗜好に気づいたのは、三十代前半のことである。

 一九九一年から三年ほどニューヨークに留学していたが、ごたぶんにもれずときどき無性に日本食が食べたくなった。当時かの地では日本食屋がオツに澄ましかえって、結構な値段を付けていた。ニューヨークではもともと物価が高いので「贅沢は敵」だった(そのため禁日本食宣言をしたら、向こうの友達はあわれがって、会食のときは必ず日本食屋にしてくれた。もちろん向こうもちで)。

 ある日、さる弁護士にエンパイアステートビルの下のコリアンレストランにつれていかれた。コリアンの「辛さ」が、ニューヨーカー達に密かなブームであるという。しかし彼は、キムチを一切れ食べただけでもういけない。もともとあの辛さは生粋のアイリッシュ向けではないのかもしれない。私は残った大量のキムチを、日本とそっくりの炊き方をしたホカホカご飯に乗せてバクバク。うん、これだ。「日本食」ではなく、正確にいえば「ご飯」が我々日本人をこよなく安心させるらしい。しかもこの辛さは、なんとご飯にマッチすることよ。むしろご飯の「正しい食べ方」は、この辛さとの鬩ぎ合いとのなかで汗まみれになって(本当に汗だくになるほど辛かった)見いだすものなのではなかろうか。それ以来、安さもあいまって(たらふく食べて七ドルほど)、すっかりコリアンレストランの虜になってしまった。

 こうしてコリアン料理の辛さが、日本食発作をピタリと抑えてくれた。帰国してからも様々なコリアン料理店を渉猟している。さいわい、早稲田の周りにはかなり多くの店があり、それぞれの得意料理はとてもおいしい。しかし、何にもまして好物なのは、辛〜いキムチ鍋で食べる銀シャリ。私の「一品のめり込み型食道楽」の原点である。

 さて、お次は理工学部の重戦車、中川義英先生にバトン・タッチ。


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