No.923 2001/1/18 『三井寺』との出会い

教育学部教授・小林 敦子


 『三井寺』という雑誌がある。滋賀県の三井寺(園城寺)が年四回発行する広報誌である。三十頁くらいのこじんまりした雑誌ながら、仏教や精進料理、茶道、さらには本の書評などなど、心の琴線に触れるような盛りだくさんな内容が満載されている。私自身の専門は社会教育及び中国教育なので、仏教などは全くの門外漢といえるが、高校時代以来二十五年以上にわたる私の愛読誌でもある。

 思い起こせばそのきっかけは、高校の修学旅行で三井寺を訪れたことにあった。三井寺は、親しみやすさに溢れ、心を内側から暖めてくれるような寺である。参観の折りに、たまたま板倉貞一さんと面識を得ることになった。三井寺では『園城寺』(後に『三井寺』と改称)の発行を始めており、板倉さんはその責任者であった。若い人にも投稿してもらいたいということから、参観した感想を掲載して戴くことになった。

 その後も、律儀に『園城寺』を贈呈して下さったので、せめて感想くらいはと、毎号ごとに、簡単な感想をつけてお礼状を出した。その間、滋賀の寺社に遊びに行った折りに板倉家に宿泊させて戴いたりと、大変お世話になった。

 私が大学院生時代に板倉さんは、残念ながら脳溢血のために逝去された。しかしその後も三井寺は、現在に至るまで継続的に同誌の贈呈をして下さっている。私も、日常の世界とは異なった世界に旅することが楽しくて、毎号、感想を添えてお礼の手紙を出している。

 私は現在、中国のイスラーム教徒に関心を持っていて、モスクを訪れることも多い。三井寺を通じてお寺の魅力に惹かれたために、こうしたテーマを選んだのかもしれないと、この文章を書きながら思い至った。出会いというのは人生にとって宝物なのである。

 次は政治経済学部の本野英一先生にお願いします。


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No.922 2001/1/11 早稲田の地に流鏑馬(やぶさめ)を伝えて

社会科学部助教授・早田 宰


 早稲田中学の一年から弓を引いています。心を静めて狙いを定め、矢が的を一直線に射抜く時のすがすがしさは何にも変えられません。高校から馬上の弓である「騎射」の稽古をしています。流鏑馬は疾走する馬の上から矢継ぎ早に三つの的を順次射落す平安末期から伝わる武芸です。馬場下交差点の穴八幡神社下にある騎馬武者像を記憶している人も多いと思いますが、毎年十月の体育の日に「高田馬場流鏑馬」が、文学部の隣の戸山公園で行われます。

 当地早稲田(古くはここを高田馬場と呼ぶ)は江戸幕府の弓馬修練の地でした。大隈重信もそのような切磋琢磨する雰囲気に惹かれて当地に大学を構えたのではないでしょうか。全国各地に流鏑馬という名称の催事は残りますが、形式が崩れて馬が駆けるだけで矢を射ないものなども多いようです。

 早稲田の流鏑馬は徳川吉宗の再興した形式を完全な状態で伝える大変貴重なもので、新宿区民俗無形文化財に指定されています。そのほか鎌倉、日光、富士、笠間などの流鏑馬にほぼ毎年参加して二十年になります。数年前に北海道の馬産地浦河町から頼まれて流鏑馬を催行したことがあります。

 現役の競争馬はサラブレッドで二百メートルの馬場を十数秒で駆け抜けてしまいます。そのスピード、風圧の上で的を射抜くのは相当習熟が必要です。弓の「静」と馬の「動」を一刹那に窮められるよう腐心しております。

 一人前になるには五年から十年くらいかかります。水稲荷神社内の小笠原流斉藤支教場には、毎週土曜の夜に門人が集い技術を伝えています。早稲田中高、大学の学生が多く、地元高田馬場流鏑馬保存会の皆さんといっしょに保存に取り組んでいます。新学生会館が完成すれば、馬場全体を見渡せる最高の観覧席になることでしょう。早稲田マンであれば一度は見てほしいと思います。

 次回は教育学部の小林敦子先生にバトンタッチします。

※写真:戸山公園で流鏑馬(筆者)


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No.921 2000/12/14 まち歩き

理工学部教授・佐藤 滋


 日本のまちを歩いていると独特の気配や風の違いを感じる。それが体の中に流れ込んできて私に新鮮な感覚やエネルギーを与えてくれる気がする。私はまちの調査や都市計画を専門としているが、客観的な調査や計画は別にして、都市そのものを感じ取ることに私は何とも言えない喜びを感じる。調査で日本の地方都市に行った折、ひと足のばしていろいろなまちを歩き、そのまちの持つなにか都市構成の秘密のようなものを感じ取ったり、新しい動きを肌で感じたりすること、それが私の活動のエネルギーとなっている。しかしここのところ、日本の都市のほとんどをまわりつくしてしまい、日本にもっと都市があってくれたらという思いがしていた。

 ところが、最近また二度目、三度目のまちを訪れてみると、この十年ほどでまちが大きく変わったことを感じる。空気が変わってきているのだ。空気が変わったとはいったいどういうことなのか。新しい人がまちに入って来て新しい活動が始まり、新しい血が流れる。場所の持つ力が変化をして新しいエネルギーにつながっている。

 最近、市民の間でもまち歩きが盛んである。私たち専門家はまちづくりに関わる時、最初にまち歩きをやってみようと提案する。このまち歩きというのは簡単なことで、歩いてそのまちに詳しい人の話を聞いたりするのであるが、それを通してまちの持つ力とでもいうようなものを感じ取るのである。地域の人たちと一緒にまちを歩いていると、魂が場所を通して響きあうような言葉で表せない何かを感じる。大都市の人工化した環境の中にあり、車を使って生活する日常の中で、人間の感覚が埋もれてしまっている。しかし、それらを脱ぎ捨て、場所と対峙し、場所を感じ取る楽しみがまち歩きのなかにあるようだ。場所の力を感じることができた時、私は至福の時間をもつ。

 次は社会科学部の早田宰先生です。

※写真:まち歩きの後、住民たちとまちの情報をまとめた(浦和にて、一番右が筆者)


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No.919 2000/11/30 オーケストラという名の麻薬

社会科学部教授・土方 正夫


 ちなみに趣味は楽器に触れること。バイオリンとビオラは長期間つきあってきたので、日曜日になると眼を擦りながら起き出し、地元のアマチュアオーケストラの練習場に出掛けるのが、ここ数年の習慣になっている。

 団員は、高校生からリタイア組まで老若男女とり混ぜ七十人を超える大所帯である。腕も音楽の好みもバラバラではあるけれども、誰もがオーケストラという麻薬に取りつかれた面々ばかりである。「今、試験中で焦っています」、「昨日は徹夜仕事でフラフラ」と言いながらも日曜日の朝になると、どこからともなく楽器を抱えて集まってくる。この面々を束ねるのは、新進気鋭の若手指揮者。この不揃いで口うるさい音楽麻薬患者の面倒を、怒りもせずに辛抱強くみてきた二人の指揮者が、つい先日、国際指揮者コンクールで優勝、準優勝し、メーリングリストで沸き立ったばかりである。団員同士は、普段お互いに話をする機会も余りないのだが、最近ではML上での会話が活発になってきた。また、ホームページを見て、参加してくる新団員の数もここのところ増えている。

 アマオケの楽しみは、演奏会に向け、半年という長い時間をかけて、牛歩の歩みで眼には見えない音の形を創りあげてゆくことだろうか。プロになると、難曲であってもほんの二、三回の練習で本番に臨むそうだが、アマはそうはいかない。まさにこの日のためにと冷や汗をかき、指揮者と組んずほぐれつしながら積み上げた、半年間の悲喜こもごもを音に託し、本番に臨むことになる。聴衆は家族、友人、知人が大多数であるから、当日の出来は後日談にも及んでくる。そのせいなのだろうか、本番の出来が最高になることもしばしばである。演奏会当日、舞台の上を覆う空気がリズムを持ち始め、活き活きして大きな流れになる瞬間が幾度となくある。これがアマオケの醍醐味でもあり、麻薬の温床でもある。これまでの団員の最高齢者記録は八十歳である。身体がいうことを利く限り、続けていきたいと思っている。

 次は理工学部の佐藤滋先生にバトンタッチ。


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No.918 2000/11/22

アジア太平洋研究センター教授・黒須 誠治


 先日電車の中で、隣に座った見ず知らずの50歳前後のおばさんに話しかけられた。「あんたそれ何やっているの? 英会話?」

 私はいつも通勤時にはウォークマンになって英会話のテープを聴いている。「そうです」と答えたら、「えらいねー。あたしなんか何回やっても続かないのよ」と言って、本当に感心してくれている。私はほぼ同年輩のおばさんにほめられてしまった。

 私の鞄の取っ手にはウォークマンのスイッチを付けてある。そのため、歩きながらでも、片手でテープのオン・オフはもちろん巻き戻しや早送り、リピートのコントロールができる。つまり、歩きながらでも、英会話の勉強が自由にできるようにしてある。これを「歩きながらでも英会話を勉強できるシステム」と呼ぶことにした。だれにでも簡単に作れる仕組みだが、これはひとつのシステムである。私はこのように、仕組みを作る方法、すなわち「システム設計法」というものを専門に研究している。

 システムは長続きできるようなものでなければならない。私はこのシステムをすでに三年間続けている。そのことをほめられたような気がして嬉しかったのだ。

 ただし、英会話はちっともうまくならない。鞄も見た目がよくない。でもまだまだ続ける。鞄の取っ手にからんだ話なので、「トッテおきの」話でした。

 次回は社会科学部の土方正夫先生。


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No.917 2000/11/16 胡弓(こきゅう)の音色

教育学部教授・堀 誠


 今は昔、九一年度の交換研究員として北京大学に長期滞在した折、中国の民族楽器として名高い「胡弓」をおよそ九カ月にわたって習い続けた。いわゆる胡弓は、一般に「二胡」という。「胡」はこの楽器の出自が西域の地にあることを意味し、「二」は弦の数をいう。レとラの五度に調弦した内・外二本の弦の間に馬の尻尾の毛を張った弓を挟み、弓の外側と内側でそれぞれの弦を擦って音を出す。弓は身体の垂直な線に対して直角に構え、左右にまっすぐ動かしてやる。最初は手首が硬直して要領を得ないから、とんでもない音が出る。ヴァイオリンの、あのキーコーキーコーと鳴る忌まわしい音を想像されたい。それを称して「殺鶏(シャーチー)」という。その意味は、二字の間に返り点を打ってやるまでもなく理解されよう。絶妙な表現だ。それほど人々は、初心者の我を忘れてうち興じる音に悩まされつづけてきたものか。

 この弦の振動を共鳴させる八角柱状の胴体には、三味線ゆかりのネコ皮ではなく、ニシキヘビの皮が張られている。生まれつき長いものが苦手な者にとっては、その立派なうろこが蠕動(ぜんどう)しはじめそうで気味悪いが、この蟒皮(ぼうひ)なくして哀愁を秘めた音色は生まれない。この蟒皮のほか、ネックの先端部には象牙の飾りもついている。実をいえば、これらのパーツは、絶滅に瀕した野生動植物に関するワシントン条約に抵触する禁制の物品でもあるわけだ。そこで、中国で許可証を発給してもらっておかないと、帰国時、条約批准国である日本の税関でまるごと没収、あるいは皮を剥がれて鳴らぬ楽器を泣く泣く持ち帰ることになる。憧れの楽器を手に入れながら、その苦汁をなめた教え子が何人いることか。

 琴線に触れる音は容易にでない。されど下手の横好き。気が向けば受講生たちに紹介し、時に場所柄もわきまえず十六号館十階の研究室で音を出す。近隣合壁の先生方には迷惑千万な話であろうが、幸いにいまだ立ち退きを勧告されたことはない。かくてミレニアムの今日にいたるまで、平穏無事に異文化の音を楽しみ続けている。感謝! 感謝!

 では、アジア太平洋研究センターの黒須誠治先生にバトンタッチ!

※写真:揚琴と合奏(91年12月北京にて)


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No.916 2000/11/9 猫と三味線

教育学部助教授・金井 景子


 三十代、いちばん夢中になってやっていたのは何だと聞かれたら、実は文学研究ではなくて、三味線を弾くことと答える。遅くに始めた習い事なので、思うようにはかどらず、隅田川の川面を見詰めて(お稽古場が八丁堀にあった)ため息をついたことが何度もあった。なんで師匠や姉弟子の音色が私には出せないんだろうと躍起になって稽古したことが、今ではとても懐かしい。

 曲の背景を知るために、歌舞伎や文楽、新派を観る必要性もあって、歌舞伎座や国立劇場、新橋演舞場にせっせと通った。非常勤暮しの身には、けっこうな出費で厳しい生活を強いられたけれど、心は江戸時代や明治期をさ迷っているので、現世(?)の貧乏の方がむしろ夢のようだった。

 あんまり夢中になりすぎて、仲間とライブ活動などをやらかし、笑われたり呆れられたりし始めた矢先に、専任職に就き、お稽古もままならない状態に陥って、ただいまは休止中。時折、三味線を引っ張り出して爪弾いては、『はやくおばあさんになって、一日中、三味線のお守をしていたい』と思う。とはいえ、おばあさんになったらなったで、おとなしく一人で楽しむなんてもったいないと、「おばあさん百人三味線ライブ」の裏方を買ってでたりしているような気がする。

 いま、とりこになっているのは、猫の飼育(といっても、育てて三味線にするわけじゃありません)。あんな素晴らしい生き物を人間の友達に授けてくれた神サマに、朝夕感謝するくらい。早稲田は嬉しいことに猫の集会所があちこちにある大学なので、ここで働けることにまたまた感謝である。あの鳴き声が無類に好きで、三味線の一の糸を弾いたときと、猫の「にゃ…」が聞こえると、何か別のものに自分が変身しそうな気分にさえなってくる。

 次は,教育学部の堀誠先生にバトンタッチ。


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No.915 2000/11/2 戦艦・要塞・戦車

文学部助教授・兼築 信行


 ふらりと入った模型店で戦艦「三笠」のキットを買ってしまった。組み立てて塗装を施す余暇は無い。時々箱を開けてはため息をつく。キットは竣工時と日本海海戦時のコンパーチブル。勿論仕上げるなら後者と決めている。

 今夏、図書館の公務でフィンランドに出張した。スケジュールの合間をぬってスオメンリンナ要塞へ。旅順要塞と同一構造だという穹窖(大江志乃夫『バルチック艦隊』参照)に感動する。

 旧知のヘルシンキ大学教授から、タリンの自宅へ飲みに来ないかとの誘いを受ける。彼はエストニア人なのだ。ニコライ二世が第二太平洋艦隊を査閲したのが、レーヴェリ(現在のタリン)の軍港だった。タリンの旧市内は、ロシア艦隊の乗組員が見た当時と変わらぬ姿を残している。

 帰国当日、ヘルシンキ市内に軍事博物館SOTAMUSEOがあるはずと、やっと見つけて駆け込む。駐車場に戦車が置かれている。冬戦争の際に鹵獲されたソ連軍戦車だ(写真)。

 子供の頃、もと陸軍の戦闘機乗りであった父方の伯父は、本物の飛行眼鏡や少尉の階級章をプレゼントしてくれた。彗星艦爆に乗っていたという母方の伯父に連れられて、東宝の戦争映画はほとんど観た。そんなわけで、陸軍分列行進曲を聴くと精神が高揚するし、暇さえあれば古今東西の戦記を読みあさっている。

 私の本業はごくごく地味な文献学者なのだが、高校国語の教科書編集にも関わっている。編集会議の席上、本文に「大尉」という言葉が出てきた(平和教材と称する文章が教科書には載っていなければならない)。これは海軍大尉だから「だいい」とルビをふったほうがよいと意見を述べると、他の編集委員は目を丸くした。時には趣味が役に立つこともある。

さて次回は、教育学部の金井景子先生にバトンタッチします。


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No.914 2000/10/26 遭難しそうになった話

高等学院教諭・加藤 実


 福島県の奥にある飯豊山に家内と共に登ったのは、もう十数年も前のことになる。飯豊はブナの原生林に覆われ、山上にはコバイケイ草・マツムシ草・深山金梅・白山イチゲ・千島桔梗・シャジン・岩ツメ草などの高山植物が咲き乱れる美しい山である。だが、やや大げさに言えば、私はここで遭難しそうになったのである。それには幾つかの不幸な巡り合わせが重なったのだ。まず登山口の前に地図にはない新しい山道が出来ており、登山口の標識は誰かの衣類で覆われていたのだった。迷わずそのわき道に入り込んでしまった私たちは、そこで三時間ほどのロスを余儀なくされた。時刻はすでに正午過ぎ、そこから三国山頂小屋までは約六時間の行程であった。これで明るい内に小屋にたどり着くことは出来なくなってしまったわけである。この登山コースは、ブナの長い林の間の急坂を果てしなく登って行くもので、山道は流れ落ちる水に真ん中が抉られていて滑りやすく登りにくい。本来ならば、道の左右に四つ葉シオガマや信濃金梅・白山フウロ・深山シシウド・細葉トリカブトなどの色とりどりの群落が見られたことだろう。しかし、この時余裕をなくしていた私の目に映ったのは、大きな蝦蟇が見事な三点支持でゆっくりと垂直の泥壁を上ってゆく姿、あるいは頭上をうるさく飛び回るアブの姿ぐらいなものであったか。

 標高千四百八十五メートルの地蔵山の頂まで来たときには日はとっぷりと暮れていた。そこから向かいの二百メートル高い三国岳へは尾根続きになっている。一時間半程ガレ場が続いて剣が峰の岩陵を越えると山頂小屋にたどり着くはずである。しかし岩場は、登山道の赤い目印が見えにくい。ヘッドライトの明かりを頼りに蝦蟇の如く三点支持で横這いをしていると、突然左の足元が切れて真っ暗闇になっていた。この時遥か頭上から「こっちヨー」という我が連れあいの声が聞こえて来なかったら、多分私はあのまま谷底に消えていただろう。それ以来、私は家内に頭が上がらないのである。

 次は、文学部の兼築信行先生にバトンタッチ。

※写真:飯豊山下山の折


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No.913 2000/10/19  今一番楽しいこと

本庄高等学院教諭・渡辺 良隆


 平成ゴルフ倶楽部、五番ホール、二百九十四ヤード、パー四、右ドッグレッグ、ショートカットを狙った林越え。なんと一メートルにワンオン。この夏生まれて初めて「ミドルホールイーグル」を経験しました。

 これがあるから我々素人中年ゴルフは楽しいのです。林の向こうがどうなっているか分からない初めてのコース。無謀なのは百も承知。スコアーをつくろうとしたらこうはしないかなと思いながらやっぱり狙ってしまうのです。今はまだ飛ばすのが楽しみ。「あっちの方向です」を頼りについやってしまいました。行って見て実はびっくり。「ラッキーも実力のうち」などと言ってみたくなるのです。

 ゴルフに夢中になっている理由の一つに、圧倒的な歴史の「重み」があります。残念ながら最近亡くなられた、多くのゴルフの著作で有名な夏坂健氏はその「重み」を伝えてくれる作家でした。氏の驚くべき調査量とウイットに富んだエッセイは、十分な納得とゴルフをやる誇りさえも与えてくれるものでした。時にニヤリとさせてくれる傑作揃いの中で何よりも驚くべきことは、ゴルフとはこれほどまでに名言、格言、逸話の豊富なスポーツであるかと言うことでした。これは多くの素人ゴルファーが共有できる内容が詰まっています。大人の知的スポーツとしても楽しむことも出来るものではないでしょうか。ちょっとくだけて次の文を読んでみてください(太字の漢字にすべて玉偏? をつけてください)。

 昨日のは散々でした。は出るしもちろんも、はもちろんまであってになりませんでした。だけどはしっかりといただきました。彼はさすがに、我々とはがありました。

 これは私の愛用の湯呑茶碗に書かれた漢字?(多少私のオリジナルもありますが)で書いた文章です。誰が考えたか分かりませんがなんとなく頷けると思いませんか?

 次は、高等学院の加藤実先生にお願いしました。

(太字は順に、コンペ、スライス、フック、トップ、ダフリ、OB、ロストボール、スコア、ドラコン、ニアピン、オナー、ビジター、ハンディ)


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No.912 2000/10/12 歌好きDNAが存在?

商学部教授・江澤 雅彦


 この「リレー・エッセイ」のバトンを渡される時、渡辺洋一先生(商学部)から「カラオケのことでもどうですか?」との御提案を頂いた。実は一度だけ渡辺先生を含めた数人の先生方とそうした機会があり、その時のことを憶えておられたのである。

 「趣味・特技」にあてはまるかどうかはっきりしないが、それに類するものが特に他にない筆者にとって、「カラオケ」はホッと息の抜ける時間を与えてくれる。ただし、巷によく言われる「マイクを持ったら離さない」というタイプではなく(と、少なくとも自分では思っているのだが)、人が、筆者の歌ったことのない曲を歌っていると、興味を持ってそれを聞き、自分の歯が立つかどうかを考えるだけで、楽しく過ごすことができる。要するに、歌好き、である。そう言えば、自宅でリラックスしている時、よく口をついで歌が出るし、この四月に生まれた娘のための子守唄も、もっぱら筆者の担当である。歌詞カードも見ずに歌うので、自分で「作詞」をすることも多いが、泣かずにじっと聞きながら、眠りに入るところをみると、娘にも「歌好きDNA」は伝わったのかもしれない。

 新曲の「インプット」はどうするか? 自宅にカラオケの機械があって、日々楽しんでいるのでは、との御指摘を受けたこともあったが、そうしたものは一切なく、CD一枚購入したこともない。テレビ・ラジオで「これは」という曲が流れると、録画・録音して、その後何度も聞き、メロディーだけでも覚えるのである。この過程が「ささやかな趣味的行為」であろう。最近、残念なのは、いわゆる「歌謡番組」が少なくなったこと、また四十代に足を踏み入れた筆者が、気持ちよく歌える歌になかなか出会えないことである。

 最後に、よく口ずさむ歌を三曲、題名のみ御紹介して、バトンを本庄高等学院の渡辺良隆先生にお渡ししたい。1.「大空と大地の中で」、2.「花」、3.「まわり道」。


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No.911 2000/10/5  私の趣味

商学部教授・渡辺 洋一


 私の最大の趣味はスポーツである。見るのは野球・ラグビー・駅伝等々何でも好きだが、やるのはもっぱらテニスである。下手の横好きだが、三十代半ばで始めて二十数年飽きもせずに週一、二回、二、三時間ずつコートに立つようにしている。

 テニスの効用は、まずとにかく体を動かすことによってストレス解消と気分転換ができることである。力いっぱいボールをひっぱたき、夢中でコートを走り回ればそれだけで楽しいし、思い切り汗を流すと、体内に淀んでいた滓(おり)がすっかり出て、体が蘇生するように感じられる。

 私のテニスの理想は、戦術とかテクニックといったものよりも、相手のラケットを弾くような強いボールを打ち続けて相手を圧倒するガムシャラ・テニスである。幸い、四十肩や五十腰もなく、肘や膝の故障もなく今まで元気にやってこられた。頑健な体に生んでくれた親に感謝している。もっとも、還暦が近くなった今日この頃、ボールの勢いは弱まり、体力は衰え、ガムシャラだけでは勝てなくなっている。でも宗旨変えはせず、目一杯体を動かしてゆこうと思っている。

 テニスのもう一つの効用は、テニスを通じていろいろな人と知り合えたことである。私は早稲田大学教職員テニスクラブに所属している。そこで、他学部の先生方や、職員の方々と知り合うことが出来た。同好の士同士の気の置けない付き合いもできるようになった。これもテニスのおかげと感謝している。

 テニスをやっていて困ることもある。日焼けである。屋外でやるわけだから、とにかく黒くなる。同僚と一緒になると自分が一きわ黒いのがわかる。いささか周りの視線が気になってしまう。

とはいえ、効用の方がはるかに大きいと思っている。純粋な楽しみのほかに、健康維持、肥満防止、そして研究・教育への活力増進に生かしたいと思っている。

 次は商学部・江澤雅彦先生です。


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No.910 2000/9/28 アイルランドのクラシック音楽

法学部教授・清水 重夫


 十六年前、アイルランドでの在外研究の時だった。ユニバーシティー・カレッジ・ダブリンの授業に出席していた時で、休憩時間にヴィットリアの「アヴェ・マリア」の始めの部分のメロディーが偶然口からでてしまった。ところが隣に座っていた学生がすっと合わせてハモってくれた。とてもいい気分だった。それがきっかけで、ダブル・カルテットのコーラスに加わることになった。ダブリンの南の郊外の家で、メンバーは主にゲーテ協会の合唱隊の人たちだった。こちらはしばらく歌っていないので声は出ないし、初見だしで、大変な思いをしてしまったが、午後八時頃から深夜過ぎまでの楽しい会であった。当時はその他にナショナル・コンサート・ホールでの音楽会にも足繋く通ったし、ダブリンにもオペラ・シーズンが春と秋にあって、オリンピア・シアターの最上階でオペラを楽しんだ。

 昨年、二度目の在外研究もダブリンにした。今回はコーラスも、きちんとしたオペラ・シーズンもなかったが、その代わり近くのクライスト・チャーチの大聖堂に通った。金曜日の昼、土曜日の夕方などにコンサートが多かった。勿論クリスマス近くのキャンドルのミサなど宗教的な行事も多いのだが、小編成のオーケストラでのブランデンブルク協奏曲、ニグロ・スピリチュアルも含めたコーラスなどを身近に聴くことができて、ダブリンの音楽シーンの一つだなと思った。それほど大きくはないのだがパイプオルガンがあって、ある晩はサキソフォンとオルガンという組み合わせだった。サキソフォンの音が教会の尖った天井までずっと上昇していって聖堂いっぱいに広がりこだましていた。かと思うとメシアンのオルガン曲の独奏もあった。これも、壮大でちょっとこけ威かしになるという印象とは違ってメシアンがとても身近に感じられた。

 アイルランドというとケルトの民族音楽、ダンス、そしてロックの流れなどいろいろ話題になる。これにもちょっと淫してはいるのだが、僕にとって音楽の原点になるクラシック、宗教音楽が生きているアイルランドを堪能した一年だった。

 次は商学部の渡辺洋一先生にバトンタッチ。


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No.909 2000/9/21 都心の野草摘み

政治経済学部教授・三神 弘子


 「都心の野草摘み」というと、穴場のような都会の自然の中で、人間が食べられる野草を摘む姿が想像されるかもしれない。しかし、私が摘む野草(雑草というべきか)は、去年の十一月、我が家にやってきた黒うさぎが食べる。

 都会の集合住宅に暮らす身ではあるし、昔、可愛がっていた犬が死んでから、「口がつくものは、片口でも嫌だ」という迷(?)言をはく田舎の母の影響もあって、種類は何であれ、動物を飼うことなど考えたこともなかった。それなのに、気がついたら、元の飼い主の持病である喘息がひどくなったという理由で、家なしになりそうだったうさぎが、我が家に居座っていた。

 うさぎは草食動物なので、ペットショップで手に入る干し草とペレット(固形のエサ)に加えて生野菜を食べる。ある日、道を歩いていて、路傍に生い茂る母子草が目にとまった。「これは美味しいかもしれない」と思い、よく洗って(飼育書で一応チェックした上で)うさぎに与えてみた。(散歩中の犬がマーキングをしている可能性も高いので、台所の流しではなくて風呂場でじゃぶじゃぶ洗って。)あまりに勢いよくがつがつ食べるので、以来、野草摘みが習慣になってしまった。

 うさぎ用の野草を都心で調達するのは、気が抜けるほど簡単で、空き地の片隅、街路樹の植え込み、アスファルトのちょっとした隙間などに実にたくましく、ふんだんに生えている。庭を持つ人は、草取りが大変とこぼすことが多いが、それは私たちが緑溢れる風土の中に住んでいるということの裏返しでもある。我が家のうさぎは、母子草の他に、おおばこ、タンポポの葉、ペンペン草などがお気に入りだ。

 というわけで、街を歩くとき、いつも「美味しそうな」草はないものかと探すようになってきた。キャンパス内でも植え込みの下あたりに結構生えている。「美味しそうな」野草を求めて、なにやら挙動不審の人物をみかけたら、それは私かもしれない。

 次は、法学部の清水重夫先生にバトンタッチ。


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