第811号 Jul.10, 1997


 人間科学部で は、創設の翌年から新設学部に学ぶ学生と教職員らが親睦を図るために、「学部デー」を設けている。一昨年からは地域とのつながりをもつ、より開かれた学部をめざし、週末に市民も参加できる企画をたてている。今年は、6月4日から8日までを、人間科学部創設10周年を記念して、特に「人間科学部ウィーク」とした▼その中で、早稲田大学創立以来初めてのことと思われるが、近隣市民に呼びかけた市民運動会がおこなわれた。学内、そして、地元の幼稚園児、小・中学生、高校生、一般市民に参加を募ったところ、当日は好天にも恵まれ800人が狭山丘陵に位置する所沢キャンパスの陸上競技場(日本陸連第三種公認)に集まった。学部と市民とが、緑豊かな素晴らしい環境のもとで、一日友好を交わした▼今回の催しには、教職員、学生、地元の有志が時間をかけて話し合いを重ね、そして、準備した。教職員と学生が一致団結した成果であった。人間関係を深めたことにもなり、手作りの学部が10周年を迎えて着実に根を下ろそうとしている。今回のこのイベントは、正に立地条件を生かした人間科学部のあり方を示したことになる▼さて、学祖・大隈重信は運動を推奨している。大隈伯百話の中に、「我輩は運動が大好きである、好きばかりでは無い、人間には必要欠く可からざるものであると信ずる」と記している。いま、ちょっと動いただけで疲れるという人間が多い。体力が不足しているからであろう。スポーツは人間にとって必要なのである。

(す)


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第810号 Jul.3, 1997


 三年程前から、大教室の講義でも、ワイヤレス・マイクを借りて、できるだけ教室のなかを歩きまわることにした。五百人近く入る大教室の、教壇の前はいつも空いていて、後方と両端から、席が埋まってゆく。食いついたりしないから、前へ出てこいよ、と呼びかけても、慎重で賢明なる学生諸君は動かない。それでは、と小生の方から、教壇を降りて、出かけてゆくことにした▼やってみると、なかなか面白い。同様のスタイルで授業をされている先生方も、多いのではないだろうか。歩きながら、喋りながら、傍に座っている学生に、質問したり意見を聞いてみたりする。結果は、間髪を入れぬ「わかりません」が返ってくる。それでも、小生が近寄ってゆくと、後の席でぼんやり聞いていた者が、にわかに緊張した表情になることもある。顔見知りの、ゼミの学生などがいると、格好の餌食となる▼遅れて入ってきた学生が、教壇の上に教師の姿がないので、一瞬きょとんとする。声はすれども、姿は見えず。よく見ると、教師は、最後部の壁によりかかって喋っていたりする▼反面、苦労もある。分厚い講義ノートなど持ち歩けないから、その日の分をコピーして綴じたものを用意する。それも、歩きながら喋るとなると、メモ程度のもので、ちらりと見る余裕しかない▼無論、日によって巧く喋れなくて終わることもある。結局、「中身よりもスタイルで勝負しているのかな」と、少々ほろ苦い気持ちになることもある。ともあれ、九〇分間の適度な有酸素運動である。

(毛糸)


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第809号 Jun.26, 1997


 前期期末試験が終わると夏休みである。就職活動をしている四年生諸君は夏休みどころではないが、一、二、三年生、あるいは既に就職の決まっている四年生は夏休の計画をたてていることだろう。学生時代だからできることはたくさんある。学生時の海外旅行もその一つである▼最近私は岩波文庫五冊からなる久米邦武の「米欧回覧実記」を読んだ。明治四年から二年近くかけてアメリカとヨーロッパ各国を訪問した岩倉使節団の報告書である。明治政府はこの年廃藩置県をなしとげ、いよいよ近代国家として出発すべく、岩倉具視を特命全権大使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文そして旧幕臣をふくむ四十六人の使節団が外交と近代国家の制度、文物の研究調査に出かけたのである▼久米邦武はこの使節団の一員として参加し、米欧回覧実記に見聞したものはもちろんのこと、各国の自然、歴史、民族性、政治、経済、社会、文化、科学技術など多方面にわたって記述し、批判、洞察を加えている。アメリカの自主、自由の精神に、イギリスの工業と貿易に、パリの文明に眼を見張りながらも、ヨーロッパの小国のあり方にもふれている。欧米の社会の百二十六年前と現在との比較、明治維新直後の三十一歳の青年久米邦武の欧米の観察などに考えさせられるところが多い▼この本はこれから海外旅行をしようとする諸君に限らず、夏休みに本を読もうと考えている諸君に一読を勧めたい。久米邦武は明治三十二年から大正二年まで本大学の文学部史学科で教壇に立たれ、教授として活躍された。

(K)


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第807号 Jun.12, 1997


 教室の「前は聞く人、中は寝る人、後ろ私語して騒ぐ人」。指名しても「わかりません」「沈黙…」の面々が、大学で風景化して久しい▼近年授業中のあり方として発言回数に評価の基準を変えてみた。「カッコつけて」等と、ともすれば言いたがる高校時代の習性から徐々に脱皮しはじめた▼こちらもオチオチしてはいられず、慢性化した授業へのあり方を自問する。そこには徐々にではあるが教育現場に変化が生じ、多角的な質疑応答へと発展しはじめた▼現在高校でも生徒主体の授業をと心がけているが、どうも日本人は基本的に議論することは苦手のようである▼質問の仕方がわからないというのも結構多い。試みに「次の資料を用いて各自試験問題を作れ」と課題を出したところほとんど画一的な入試問題さながらのスタイルが続出した▼受動的に画面が用意され、考えずとも正解を含む選択肢が丁寧に準備されていた、いわば独創的な発想が抑圧された従来の教育姿勢の所産であろう▼新カリキュラムが出来たところで肝心の学生が自主的に反応しないかぎり「佛作って魂入れず」、コース制を敷いてわざわざ選択肢を用意するのではこれまでとなんら変わるものではない。箒を片手に忙しく働く人々の脇を吸い殻を投げ捨てながら過ぎていく学生の姿を見る度に「自ら問い、自ら学」んでほしいと思う▼教育現場に今ほど熱い改革の眼が注がれている時代はかつてない。個性尊重・真の教育理念等々、マスコミは大きく取り上げる。今こそ学生自身の理念にも耳を傾けたい。

(信)


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第806号 Jun.5, 1997


 各学部のホームページが出そろった。後発組にはそれなりの工夫がある。教員名・科目名の陳列のみならず、種々プロジェクトの成果公表、独自データベースの利用提供の試みもある▼だが二年前に購入した愛機マック、当時は高性能だったマシンも、今やポンコツ? 大金を投じたのに買い換えかと溜息が出る。現れる画像の遅さにイライラ。自宅からダイアル・アップで、わが早稲田のmnシステムに接続可能になったが、愛機の遅さに、NTTへの奉仕かと皮肉も出る▼さて理事会いう「財政再建」「学費改定」の説明にも、情報関連施設の整備が強調されている。「情報化」「国際化」は「国家目標」。ゆえに「民間企業」は血の出る組織改造を迫られている。情報が自動車に続く主導産業となり、二十一世紀の日本を支えると真顔で言う人もいる。▼古めかしい富国論だが、インターネット用のインフラ整備は、早稲田でも待ったなしだ。その投資効果は? 学校ゆえ単純な貨幣計算は無意味だが、発信情報の内容で評価されよう。顕示欲旺盛により自己満足で終わるもの、企業がパイロット的に制作協力した、当初は派手だが急速に劣化していくもの、カウンターをつけたはよかったが、いっこうに利用者の増えないものなど、いろいろあろう▼そして「それにどれだけお金がかかったか」「手続きは正当だったか」という、例の「民主主義」の風も吹こう▼インターネット、それは空っぽの洞穴などではない。そこには、作った人、作ってもらった人など、さまざまな顔がよく見える。

(元)


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第805号 May.29, 1997


 埴谷雄高が二月に逝った。高校から大学にかけて傾倒し、わからないながらも『死霊』や『不合理ゆえに我信ず』を読み、未来社の『○○と××』のシリーズを水先案内に戦後文学と思想の世界に誘われた者として特別な感慨を禁じえない。病床の埴谷の頭蓋のなかで『死霊』の登場人物たちは饒舌な対話をなお展開していたのだろうか。青年期に「感化」された思想家の死を見るのは、自分の拠り所の一部が失われていくようで寂しい▼吉本隆明を知ったのも埴谷からだった。これにも随分入れあげた。吉本は去年死にかけたが運よく助かっている。その吉本が先日、日テレの『電波少年』に登場した。松本明子が吉本宅を訪問、西伊豆水難事故についてインタビューし、水への恐怖を断つためにと、用意した水槽に顔をつけてニカッと笑うよう吉本に要求した。もちろん吉本は頓着なくそれに応じ、ニカッとはいかなかったがニッと水中で笑った。さすが吉本、まだまだがんばってほしい▼ところで今の大学生は誰を師として思想的な対話をしているのだろう。随分と保守的な言辞を学生から聞くようになり、しかもみんな自信があるのか自説を枉げることはあまりない。どこから自信を得てくるのかはよくわからない。自分の実感に信を置いているのだろうか▼加藤典洋の「敗戦後論」(群像九五年一月号)から最近のアレント論(中央公論九七年二月号)までの議論は、浅田彰らから手ひどくたたかれているが(批評空間U13)、アジアに対する戦争責任や戦後の思想空間の歪みに絡めて実感から普遍へと通じる道を真摯に模索している。

(源)


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第804号 May.22, 1997


 今、私の勉強している早稲田大学の建物の前には、カスターニエン(マロニエ)の巨木が長い並木道を作り、赤と白の花盛りである。しかし学生諸君が教室の窓から外をいくら見回しても、そんな並木は見つからないであろう。そう、ここは日本ではなくてドイツの町、ライン河のほとりのボンなのである▼早稲田大学には、アジアとの長いつきあいの伝統と実績があり、また、大きな変革を遂げつつある中国に関心を持っている諸君も少なくない。しかし世界には、ほかにも壮大でユニークな変革の試みがある。ヨーロッパ統合の動きもその一つである。今までのヨーロッパの歴史は(もちろん他の地域と同じく)各国間の戦争の歴史であった。その「伝統」を捨て、あえて統合に向かおうとする試みは、もしかするとこれからの人類の新しい生き方かもしれない▼この原稿を書いている「早稲田大学ヨーロッパセンター」は、そのヨーロッパ地域の動きを直接キャッチするために、本学が伸ばしている触角の最先端である。この「センター」は研究機関であるから、学生諸君との直接の接触はない。しかし、ボン大学との長いつきあいを生かして、早稲田大学は諸君のためにいくつかのプログラムを実施している。その窓口となるのも、この「センター」である▼これからの時代は、地域にとらわれない広い心が要求されるであろう。それにどのように対応するのか。これは、諸君もそして教職員も共に取り組むべき課題である。

(M・I)


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第803号 May.15, 1997


 先日、ある老学者と雑談をしていて、「学校の本来の姿とはどういうものか」という話になった。そのとき、彼は次のような話をしてくれた▼戦後すぐに自分がある大学に助手として赴任すると、教授は自宅が遠くにあって毎日の通勤が不可能だったため、研究室に住んでいたという。そして、連日のように研究室で教授のつくった夕食をごちそうになりながら、夜遅くまで教授と学問的な話をすることができたのは非常によかった。その場に同席した学生や大学院生たちはこうした教授と助手の学問の話や時として白熱する議論に興味深げに耳を傾けていたという。つまり、そこは教授の生活の場であるとともに助手や大学院生・学生があつまる学問の場でもあった。それが学校というものの理想形ではないかというのである▼むかしは早稲田大学にも研究室に住んでいる先生がいたという話を聞いたことがあるが、今、仮に可能であっても、自分で研究室に住むような生活をおくろうという気にはとてもなれない。それは毎日授業や会議に追われてあまりにも忙しいからである。老学者のいう学校の理想形は、少なくともある種のゆとりの上に成り立つのであろう▼「大学改革」ということが言われるようになって久しいが、どうもカリキュラムの改革やシラバスの作成、学生による授業評価など形式の問題に終始しているように思えてならない。問題は中身なのである。最も大切なことは、学校の本来の姿とはどういうものであるのか、はっきりとしたイメージを創出することではないだろうか。

(章)


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第802号 May.8, 1997


 旧ソ連の一部であった、中央アジアの三国を訪れた。よい印象を持ち、今後も交流を続けたいと思いつつ帰国した▼出発前にはいつも調査に出かける東欧とどう違うのか関心があった。インフラの未整備といまだ温存されている官僚的な体質については、他の人から事前に聞いていた。マイナスのイメージを持ち訪れたわけである。今回の個人的な体験からしても、確かに宿泊施設やそこで提供されるサービスは西側の水準にまではいっていないし、事前に取得した各種書類なしでは仕事がなかなか進みそうになかった▼ただし予想以上に印象的であったのは、向こうで会った若者の知的好奇心の大きさとその語学力の高さであった。我々の東アジアからの研究グループは、タシュケントの大学で学部生を対象に、ほぼ1週間にわたり「東アジアの経験」を交替で講義をした。質問を受付けるといっせいに手が上がるといった熱心さであった。また最後の日に、学生や大学教員のグループとラウンドテーブル・ディスカッションをした。学生の英語による質問内容や、質問の仕方には洗練されたものがあり、そこでも我々は楽しんで議論ができた▼ネクタイをしてジャケットを着ている男子学生達、さらに清楚な服を着て髪を束ねている女子学生達でキャンパスは賑わっていた。会うと握手をして、にこにこしながら元気かと確認しあう彼ら達。とても新鮮な気持ちになった。こんどはもっと時間を取り、いっしょに議論をしながら、いっしょに研究論文を書いてみたいと思った。

(まさ)


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第801号 Apr.24, 1997


 若者はいつの 時代も言葉に敏感だ。女子高生の間にチョベリ語なるものが流行り始めてから久しい。チョベリバ、チョベリグとして使う。超・very bad/goodの略だそうだ。古来、若者は新語を作って、その時の支配的概念や体制に反抗してきた。女子高生たちはいま何を意図し、何に反旗を翻そうとしているのだろうか▼科学の世界で「超」のつくものは多い。例えば、▼超短波、超高圧▼超音波、超低音▼超ウラン元素▼超音速、超銀河、超新星、超弦理論、超伝導、超流動▼超微細構造など、枚挙に暇がない▼日本語では単に「超」として一つに括られるが、英語などでは微妙に言い分けている。右の例で言えば、集団の順にvery,ultra-,trans-,super-,hyper-である。veryは非常に程度が高いこと、ultra-やtrans-は空間的、あるいは領域、何らかの限界を超えていること、super-やhyper-は普通とされる以上のものを意味しているようだ▼こう言っても、あまり区別はないようにも思えるが、有るとすれば、はっきりした限界が有るか無いか程度であろうか▼科学で現れる「超」には、どの言葉をとっても従来の概念を超える明確な量あるいは新しい質が現れている。従って「超」が現れるときには、その分野でbreak through、大きな場合は革命が起こっている。科学に新しいパラダイムが台頭し、次第に通常科学の対象となって行く▼このような学問の流れは文系・理系を問わず、同様に存在しよう。若者の特権を活かし、何かに反旗を翻す「超」的学問成果を挙げて欲しい▼ところでultra-manとsuper-manはどう違うのでしょうか?

(場)


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第800号 Apr.17, 1997


 今から十四年前の四月、ディズニーランドが浦安にオープンした。入場者の延べ人数は一億九千五百万人を超え、年内にも二億人に到達する見込みだ▼これだけの大成功は、単にテーマパークの在り方を一変させただけではない。異業種の経営にまで大きな影響を及ぼしている。ある百貨店では、東京ディズニーランド(TDL)の接客を目標にしているという▼TDLの成功の鍵として、三つのポリシーが知られている。その一つが「常に未完成でなければならない」というポリシーだ。九二年の「スプラッシュ・マウンテン」や九三年の「ディズニー・ギャラリー」など、毎年のように新しいアトラクションが追加されている。そして昨年には、七番目のテーマランド「トゥーンタウン」がオープンした。ひとたび完成すると、物事は活気を失い夢はあせやすい。未完成であり続けることにより、活気を保ち新しい夢を人々に与えているのだ▼二つ目は「常に非日常的でなければならない」というポリシー。TDLに行ったことのある人ならば、内部にゴミが落ちておらず、夜になっても酔っぱらいがいないことを知っている。TDLに一歩足を踏み入れると、外部のビルや住宅は見えず、日常とは違った空間が演出さている▼最後は「常に毎日が初演でなければならない」というポリシー。五百人を超えるダンサーは、毎年オーディションを受け直す。同じ舞台の繰り返しであっても、従業員の緊張感と新鮮さを保つためだ。TDLの成功の裏には、並々ならぬ努力と工夫が隠されているのだ。

(直)


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第799号 Apr.10, 1997


 先日はじめてアメリカヘ行ってきた。会議やインタビューばかりの旅だったのであまり外歩きが出来ずちょっと残念だったが、それでも一日ニューヨークのマンハッタン地区を見てまわる機会があった▼フィフスアヴェニューの辺りを歩いていると、この空間に蓄積された富やエネルギーの途方もない大きさに圧倒されてしまった。少し前に行ったウィーンの町が十九世紀以来の資本主義的近代の歴史さえも一エピソードとしてのみこんでしまうような深々とした伝統の厚みを感じさせるのにたいし、マンハッタンはアメリカ資本主義の巨大な力のショーウィンドーそのものという感じがする。最近ティファニーの隣りに出来たナイキタウンはそうしたマンハッタンの意味を今いちばん象徴しているように思える。店に入るとコンピュータで足型を取ってその場でプライヴェートなエアマックスを作ってくれるのである。極度に洗練されたシステムに乗っかって稼動する資本の力の凄まじさは、東京などがとても及びもつかないものだという気がした▼同じ日に前から行ってみたいとおもっていたグッゲンハイム美術館とニューヨーク近代美術館(MOMA)をかけあしで見学した。印象派以降のモダンアートのコレクションとしては恐らく世界最高のものであろう。それらのほとんどが成功した企業家たちの個人コレクションであることをおもえば、この二つの美術館から感じる印象もまたアメリカ資本主義の巨大な厚みに帰せられる。色々アメリカという世界について考えさせられた旅だった。

(た)


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第798号 Apr.3, 1997


 花粉症の季節である。草木の類にとってみれば陽光も暖かく、まさに生気横溢として大いに生命活動にいそしむ時期なのだろうが、こちらにしてみればたまったものではない。くしゃみ鼻水はとどまるところを知らず、夜も眠れぬ始末だ▼たしかにこの花粉症には、どこかふつうの病気と違ったところがある。もちろん私は、食生活や環境が悪化した結果だとか、戦後復興で安易に杉の木を植えすぎたせいだとか、マスコミの過剰な宣伝のおかげで、今まで病識のなかった多様なアレルギー症状が、「花粉症」という「記号としての病」に表象されるようになったのだ、などと言いたいのではない▼問題なのは、花粉症にかかるということが、これまで私たちが幼少の頃から自己の身体に組み込んできた文化的身振りとしての「日本的季節感」を、そのくしゃみと鼻水ですっかり吹き飛ばしてしまうことである▼春は曙などと風流がって見たところで、言った本人が鼻水にくしゃみではしゃれにもならない。日本人の季節感は自然と一体などと誇ってみても、その自然のほうは猛烈な花粉攻撃で日本人を苦しめる。満開の桜吹雪のなかでめでたく卒業式、入学式などという極めて学校的なイメージも、異様なマスクで目を赤く腫らした悲惨な人々に浸食されてまるで異星人の集まりである▼花粉症がなぜか滑稽な病気であるのはどうやらそのためだ。私もまた、毎年花粉症に苦しみながら、日本的で学校的な「春」のイメージを吹き飛ばすこのくしゃみに、実は密かな快楽を感じてもいるのである。

(貝)


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