とっておきの話

マインドフルな時

人間科学学術院 教授
熊野 宏昭

 先日、共同研究のために仙台に行ってきた。その夜、昔の教え子と一緒に寿司を食べに行ったのだが、これが実においしかった。店のご主人が、「今が旬のイクラ。今年はあまり取れないけど」と出してくれたものを口にいれると、プチプチを感じる間もなく、口中に“イクラそのもの”の味が広がる。「これは、酒田の真鯛。今は大体、日本海側か北海道から来るね」と言われ、『やはり震災の影響か』と思いながら口に運ぶと、冬に向かう日本海の凛とした水の冷たさがフッと浮かんでくる。やはり、おいしいものを食べる瞬間は、何ものにも変えがたい。

 震災から8カ月目の平日だったが、仙台駅はたくさんの人で大変な活気だった。大きな被害があった若林区は、駅の東口から海に向かって細長く伸びた地域とのこと。「こんなところまで津波が来るなんてと思ったけれど、実は以前にも何度も来ているんですよね」とは教え子君。「この店は昔は塩釜にあったけど、50年前のチリの大地震で津波が来たんですよ」とは店のご主人。それなのに忘れてしまう人間の伝承の不確かさに驚きつつも、それでもたくましく復興に取り組み、今日一日の充実を感じることのできる回復力や生命力の強さに、むしろ感銘を受ける。

 学生のころ、どうすれば「無心」になれるのかと思索を重ねたことがあった。その時の結論は、考えないようにと思うのではなく、「今、この瞬間」に集中するということであった。その理由は、われわれの思考の題材は、過去か未来にしかないからだ。そのように今に集中して空っぽになった心は、世界をどのように捉えるのか。それは世界そのものが、心いっぱいに流れ込んでくる瞬間であり、そこには、われわれ自身が作り上げた「物語としての自分」はいない。

 経済危機に大震災と、右も左も見通せない時代だからこそ、この世界の中で、一瞬一瞬、おいしさ、美しさ、悦び、そして時には悲しみも感じながら、生き抜いていきたい。


生活の中で出合う「今、この瞬間」にシャッターを切っています。画像は以下のWEBページで公開しています。
「熊野宏昭のホームページ」
http://hikumano.umin.ac.jp/


暮れなずむ狭山湖
▲暮れなずむ狭山湖

秋から冬へ
▲秋から冬へ

 
1264号 2011年12月1日掲載