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1238号 (1月20日発行)掲載
今学期ある授業で学生に配付した資料が分厚いということで、謝りたい気持ちがある。学生たちは何も言わなかったが、苦労させ過ぎたかもしれない。
ある日、ドーナツショップに寄ってドーナツとコーヒーを買った。温かいコーヒーを手にしたとき、大学院時代の記憶が頭に浮かんだ。思い出したのは、「ただでもらった真夜中の朝ご飯」だった。
私はアメリカのシカゴ大学の大学院で九年間勉強した。シカゴ大学は厳粛な学術的雰囲気に包まれ、ほとんどの科目を学部生と院生が一緒に受講する。毎週二、三百ページの資料や本を読んでレポートを書くのは当たり前だ。勉強は厳しいが、それでも学生が楽しめる良き伝統があった。それは、学期最後の試験週間に深夜に行われる学生に人気のあるイベントだ。試験準備のために図書館は二十四時間開館され、学生用ラウンジも徹夜で利用できた。夜中の十二時になると、メインのカフェテリアで学校が朝ご飯を無料で提供してくれるのだ。その時間は勉強を中断し、頑張っている若い学者たちのコミュニティに花が咲く。コーヒーとドーナツは苦くて甘く、刺激的で充実した学生生活に似ている。
それを思い出したら、早大生にたくさんの資料を読ませたことを心配する必要はなくなった。大学時代は、社会経験を積むことや人生の相手を探すこと、楽しい時間を過ごすことも大事だが、知的な発展を促すことが最も重要な目的である。勉強で疲れること、それは基本的には幸せなことであると私は思う。(GLF)
1237号 (1月13日発行)掲載
小さいころから食べてきた我家のすき焼きが、どうも世間一般のものとは違うことに気付いた
これに似た体験をしたことはないだろうか。事は何もすき焼きに限ったものではない。それまで何の疑いもなく信じてきたことが、ある日突然音を立てて崩れ落ちてしまう。そんな経験である
人は努力や経験によって信念をもつようになるが、ある日それに対する反例をつきつけられて愕然とすることはむしろ幸せである。不幸なのは、生涯自分の勘違いに気付かず、独善的に生きてしまうことだろう
学生時代に勉強して得たことで、何が役に立っているかと訊かれたら、私は迷わず次のように答える。その時点までで自分なりに矛盾のない説明を用意する習慣だと。例えば、難解な本を読み進めるときに大切なのは、自分自身を騙すことなく矛盾のない解釈を組み立てていくことだと思う。勿論それは、つぎの頁をめくった途端に勘違いと分かるものなのかもしれないが、上手く修正をして、一冊読み終わるときには、その時点で自分なりにベストな解釈を得るよう努力するのである
就職面接で答えに詰まるのは、実は自分自身でも論理に弱みがあることを薄々気づいている場合が多いのではあるまいか。そういう点に目をつぶらず、常にベストな説明を自身に課していく。学生時代に勉学を通じてこのような習慣をつけておくことは、大変重要だと思う。そして、経験を積むに従いそのベストな仮説が説得力をもつようになり、多くの人を動かす力になっていくと信じる。 (O・Y)
1236号 (12月16日発行)掲載
電子的に書籍を閲覧するシステムが普及し始めている。タブレット型コンピュータや電子ペーパーなどの表示装置を用いて、スキャンされた書籍あるいは電子ファイルの内容を読むことができる。
米国ではグーグルによって多くの英文書籍のスキャンが完了している。英語圏では英国や豪州も書籍の電子化に合意している。公共財である図書館が電子化されると考えれば、その影響は絶大である。図書館へ通うことが困難な田舎住まいの人々でも、簡単に知にアクセスできる。また大学生はキャンパス内の図書館に通う必要がなくなるかもしれない。大学図書館のあり方も変わる可能性がある。
ところで日本では誰でも電子書籍にアクセスできるわけではない。特定の表示装置を購入した場合にのみ、対応する電子書籍を購読できる。いくつかの企業グループが独自のシステムを構築しつつある。しかも付随する著作権の処理は統一されていない。このような状況では、公共財のような図書館機能は期待できない。
過去の書籍すべてを無料で閲覧するという理想のシステムを目指すにはどうしたら良いであろうか? 表示装置に依存しないシステムの実現には、プラットフォームの共通化が欠かせない。また権利処理やコピー保護機能の統一も重要である。
日本の現状はこれからほど遠い。英語圏の国々が理想を目指すのに対して、日本では企業論理と著作権者の意識が優先されている。この不自由さが将来日本人の知識レベルの停滞を引き起こすことを危惧する。(H)
1235号 (12月9日発行)掲載
就職氷河期と言われて久しい。学生から「なかなか内定がもらえません」という話をよく聞く。私が指導したゼミ生で留年までしてやっと卒業はしたものの、成績簿にほとんど優がない男子学生がいた。就職戦線でも苦戦必至かと思われたが、意外や意外、意中の会社にあっさり内定をもらってしまった。彼曰く「面接でも全然緊張せず世間話とかしていたら人事担当の人に気に入られたみたいです」とのことだった。この学生は、卒業研究で気に入った作業があると他の授業をさぼってでも私の研究室に入り浸っていた。ゼミの親睦会も人一倍気を遣って場を大いに盛り上げてくれた。私の授業以外は散々な評点ばかりもらっていたようだが、案外こういう学生が就活では強いのかと思う。
本の出版でお仕事をさせてもらった某大手出版社の編集者から、志望理由や面談の内容が現実的かどうか、つまりいわゆる即戦力として入社早々から働いてくれそうかどうかを慎重に見極めて採用の可否を判断するという話を聞いたことがある。その方は、「早稲田からは毎年あまりに大勢の志望者があるので、個々の違いを見つけていくのが難しい。いくら学生が優秀でも毎年同じ大学から新入社員を採用するわけにもいかないですしね」とおっしゃっていた。どうすれば就活が成功するのか、こんな話からも何かヒントを見つけてもらえれば有り難い。月並みな表現になってしまうが、志望する企業で役に立ちそうな自分のセールスポイントをきちんとアピールすることだろう。 (RH)
1234号 (12月2日発行)掲載
科学研究費の申請書の記載は非常に大変で時間がかかる。計画の目的・内容・方法を説得力あふれる筆致で書かないと研究費の獲得は覚束ない。研究力があることを示すために過去の論文実績などを書く必要があるから申請前に必死で論文を書く。筆者も夏休みをつぶして英語論文作成に取り組みその成果の一端を九月の国際学会で報告。帰国して授業の傍ら上記の作業に没頭した。すると所属学会や百科事典出版社から論文の査読、執筆の依頼が押し寄せる。どちらも自分の専門だから逃げられない。十月に博士論文提出の院生からは矢のように原稿のチェック依頼がくる。スポーツ団体からは試合の案内状。指導者をしていればこれも出席しなくてはならない。PCの画面に張り付いた眼はもはや点で涙もでない。ついに身体のバランスを崩して一時鼻血が止まらない奇病に陥った。
手抜きをすればよいのはわかっているが、性分かそれもできない。瞑目していると会長をしているサークル幹事から携帯に一通のメールが届いた。「お疲れ様です。先生のサインと印鑑を頂戴したく…」。冒頭の慣用句、違うでしょう、といいたいが、正鵠を射た言葉に眼をつむる。研究に関わる時間が多すぎて、不覚にも教育をおろそかにしてしまう場合もある。Eメールなど電子化は研究・教育の質的向上に貢献すると同時に人を疲弊させる。大学の課題の一つはゆったりとした時間・空間をいかにして大学に取り戻すかにあろう。それは大学と意欲ある学生の両方が教員による教育内容の改善を評価するという大学の慣行を築いていくことにある。(F・S)
1233号 (11月25日発行)掲載
日本の朝・夕の駅のラッシュアワーの混雑は世界でも有数のものである。混雑をいかに避け、楽に行くか。横入りなどズルはいけない、正しい方法で人より楽に行くことを考えてみる。混雑は人がある場所に集中するためにおこる。目的地の集中、経路の集中、時間の集中である。
目的地の集中は、バーゲン売場・人気コンサート会場など行きたい場所が同じである場合におこる。これを避けるには、混雑する所には出掛けないということがあるが、これは本末転倒であろう。
経路の集中は、みんなが目的地まで同じ道を進むことでおこる。これを避けるには、人が通らない道を行くのがよい。「最短経路」ではなく「最短時間の経路」を選んでみよう。少しぐらい遠回りしても、すいている迂回経路を選ぶのである。
時間の集中は、出社・イベント開始時刻など、目的地に行く時刻が同じになることでおこる。これを避けるためには、ちょっと前や後に時間をずらして行動するとよい。電車の遅れが発生した場合、最初に来る電車は大混雑であるが、必ずその一本後には、すぐにすいた電車が来る。みんなが最初の電車に乗りたがること、団子状の詰まったダイヤになっているためである。試合終了後のヒーローインタビューなどは、勝ったチームと負けたチームの人を別々に帰らせる工夫である。
混雑を避けるポイントは「みんなと同じ事をしないように、別の方法を工夫すること」である。この考えは日々の生活の別のところでもうまく活用できるのではないか?(T・S)
1232号 (11月18日発行)掲載
「学生は時間がたくさんあっていいね。今のうちにやりたいことをやりなさい。」こんなアドバイスは死語になってしまったかのように、今どきの学生さんは忙しい。
学生だけではない。「早慶戦=自動休講」の牧歌的慣習も今は昔。ネットや携帯端末の拡大もあって社会全体のテンポが速くなり、遊びの余裕を許さなくなっているのだろう。「ゆとり世代」はすっかり差別用語となった。だが「忙」は「心を亡ぼす」と書く。一人で静まるのを恐れるかのように予定表を埋めていく学生さんたちを見ていると、何だかもったいない気がするのだ。 今後の人生を決定づける二十歳前後の時期。情報処理やスキルアップや時間潰しのためではなく、自分をこえた視点を思い、自分や他者と真に出会うための、時間をかけた読書があってもよい。漫然とした余裕や視野の広さを身につけるためにではなく、真に人生を注いでいく目的との出会いと自覚のために。靴磨き職一筋四十年の井上源太郎さんは、この仕事のためならと、ありとあらゆることをやったそうである。
理科大学の学生さんに頼んで各メーカーの靴クリームを分析してもらったり、世界中の有名ブランド靴を集めてクリームとの相性を試したり、クリームを独自に調合したり。小泉元首相やマイケル・ジャクソン、オードリー・ヘップバーンも磨いてもらい、その技に感激したという。「一つに止まる」という意味での「正」しさを追求してほしいと思う。人生という時間は限られており、時間は空間よりも大切なのだから。(K)
1231号 (11月11日発行)掲載
エセ科学に騙されるな! これが本文の主旨である。
「マイナスイオン」や「水からの伝言」などが最近のエセ科学の例である。大手の電機会社がマイナスイオンの効能をうたった製品を販売し、感謝の気持ちの大切さを伝えたいが故に小学校の先生が「水は人の感謝の気持ちを理解する」と生徒たちに紹介する事態が起こった。だが、両者ともエセ科学、嘘は嘘である。「フィクションだがこのように考えれば楽しくなる」というのと「これは科学的に正しい真実である」というのはスタンスが全く異なり、だからこそ後者の立場をとるエセ科学は虚偽なのである。
理工系の学会ではマイナスイオンや水からの伝言が虚偽であることを説明し、一例として日本化学会ではホームページを通じて警告を発した。だが、そのような経緯を知らず、今でも信じている人々が多いらしい。エセ科学に騙されないためには、きちんとすじみちを立てて考えることに尽きる。明解に考えれば論理の破綻が見え、それによってエセ科学の嘘を見破ることができる。要は自分の目で見て、自分の頭で考えること、これが重要なのだ。
本学の教旨(ホームページ参照)には「早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て」とあるが、きちんと自分で考えて判断することが学問の活用の最初の一歩である。(KK)
1230号 (11月4日発行)掲載
半世紀を生きた感慨なのか、五十歳になってから小・中・高の同期会が開かれるようになり、今や別々の世界で生きる旧友たちと会う機会が増えた。先日も、高校の同期会で再会して身体を診てもらうようになった整形外科医のMと、やはり彼の世話になっている同期のUと三人で語り合った。Uは外資系企業の日本社長だ。この宵一番の話題は“activeとpassive”だった。
春先に首と肩がヒステリーを起こして動かなくなり、Mに注射を打ってもらったあと、ストレッチとトレーニングを指導された。それを根気よく続け、十日もすると首も肩まわりもパーツ交換でもしたかのように軽快に動くようになった。M曰く、マッサージでも何でも気持よくなるものはしてもいいが、passiveだけでは治らない。
Uは、社内で若い社員たち相手にプレゼンをしたあとに、自分の話を聞いただけでは何もならない、そのテーマに関してactiveに考え、行動してはじめて意味がある、と言い添えるという。
私は常々教室で、漫然と出席しても時間を無駄にするだけ、と言っているがどうも説得力に欠ける。社会の一線で活躍する二人の話なら学生たちの心に響くだろうと思った。
単なるactive礼賛ではない。虚心にひとの話を聞くことも大切だ。三人で頷きあったのは、passiveな態度の蔓延だった。passiveであると同時にactiveでもある、あるいは両者の交替を心がけるという構えだけが私たちを前へ進ませてくれるのだろう。(AS)
1229号 (10月28日発行)掲載
趣味として、テニス、ゴルフ、ハイキングをしている。絶好のスポーツの秋がやってきた。気持よく汗をかくのは、心身ともにリフレッシュとなり、生活の活力になる。中高年から始めたスポーツなので、なかなか上手にはならないが日々楽しんでいる。
最近、背骨が湾曲し、猫背になりそうで心配している。というのも、猫背のテニスプレーヤーやゴルファーはいないからだ。体の中心での回転運動が必要だからである。日常生活での背筋ピーンは結構大変で、良い姿勢でいようとする意識の問題も大きいが、すこしでも油断すると、前かがみになってしまう。乗馬や社交ダンスをしている人々の良い姿勢がうらやましい。彼らは無意識に良い姿勢を保っているのかもしれない。
お陰様で、膝腰等の故障はなく健康体だが、歳とともに体は硬くなり、体力は落ちてきた。現状をキープし、より上達する為には、基礎体力をつけ、自分自身を鍛えなければならない。股関節や肩周りのストレッチ、体幹トレーニング等の練習も必要となる。また、試合は精神力によるところが大きく、メンタルトレーニングも大切である。
学生時代、たとえ期間は短くともスポーツをした人のフォームは、滑らかで美しく理にかなっている。若い時は心身共に柔軟で、吸収する力が大きく、中高年から始めた人には追い付けない。生涯楽しめるスポーツは、若い頃から始めたほうが良く、自己流でなくレッスンを受けたほうが良いと思う。勉学にいそしむかたわら、是非、スポーツを始めてみませんか!(H・I)
1228号 (10月21日発行)掲載
私は少し欲張りなのかもしれない。私は伝統的な土器づくりの民族誌を研究しているのだが、西アジア(エジプト)と東アジア(台湾)で現地調査をし、さらに今年からは南アジア(バングラデシュ)のフィールドにも立ってみた。周囲には落ち着かない奴だと眉をひそめる方もいらっしゃるようだが、もともと鈍感な性格で、あまり気にならない。むしろ、複数のフィールドに立つことで、広いアジアをするかのような爽快感をおぼえている。
現在の目論見は、土器づくり民族誌の観点からアジアの地域性に迫ること。東西アジアの土器づくりは完全に異質なものであり、南アジアの事例はまさに中間的な様相を呈する。では東西アジアの境界線はどこに、どのように設定されるべきだろうか。
あれこれ考えるうちに思い至ったのが、湿潤アジアと乾燥アジアという区分である。思いついたときは「大発見か?」と大いに興奮した。が、世の中そんなに甘くはない。松田壽男先生がずいぶん前に同様の区分を提唱されていた(『アジアの歴史』岩波現代文庫)。要するに自分の勉強不足であったのだ。
とはいえ、自分なりのアプローチで先賢の学説にたどり着いたことは実に気分がいい。湿潤アジアと乾燥アジアの両方に足を踏み入れたからこそ、このような研究の醍醐味を味わうことができたのだ。新しいフィールドを開拓する意義はここにこそあるのだろう。
さて、四つ目のフィールドに挑戦するべきでないか、するべきでないか。自分の能力と妻の寛容さによくよく相談してみよう。(MS)
1227号 (10月14日発行)掲載
帰宅途中、時間に余裕があると丸の内にある丸善書店に寄る。もともと丸善は福沢諭吉の門下であった早矢仕有的が明治二年に創業した会社である。創業時から洋書や薬品、輸入雑貨などを扱い、多角的な経営をした。会社紹介には「伝統を大切にしながらも新しいものにチャレンジする会社」とある(同社ホームページより)
この丸善が二〇〇九年秋から「松丸本舗」というコーナーを設置している。これは松岡正剛氏が主宰する編集工学研究所と協力して書店の中に実験的に創出した本の空間で、「書との出会い」「人との出会い」を意識し、従来の書店の並びとは違う、まるで個人の書斎のような棚にさまざまな書籍が松岡氏のコンセプトで分類されている。求めたい本を手短に購入したい場合には勝手は悪いが、時の経つのを忘れるくらい知的好奇心が沸いてくる空間である。
最近、iPadを購入した。従来のパソコンよりも直感的操作できる新しいタイプの携帯端末である。特に注目しているのは電子書籍リーダーとしての機能で、インターネットから電子化された書籍を購入し画面を指でなぞるようにして読むことができる。
紙による出版か電子出版かどちらが今後の主流になるかはまだ不透明だが、グーグルなどは積極的に本の電子化を急速に進めており、出版物の電子化は今後さらに大きな潮流となるのは必至であろう。読みたい本を居ながらにして得る、これも便利には違いないが、書店をぶらぶらしながら思いもかけない本に出会う道草も大切にしたい。(たけ)
1226号 (10月7日発行)掲載
現在、本学では留学生の受け入れ八千人計画が進んでいる。英語による授業だけで卒業できる仕組みも整えられつつあり、これまで以上に英語が重視される環境になる。国際共通語としての英語の重要性は理解しつつ、しかし、早稲田で世界各国からの留学生とともに学ぶことの意味は、英語での国際化を目指すことにはないだろう。
日本人だけでは、問題も疑問もなかったと思われたことが、留学生たちによって変わってくる。いろいろなものごとが相対化されてくる。それは、日本人にとっても日本を再発見することであり、日本を客観視することにつながるのである。
ただし、留学生は、日本人学生は、などと括ってしまうことにも意味がない。一人一人が異なる個人として認め合うこと、国や文化の違いは理解しながらも一人の個として交流していくこと、その楽しさと難しさを感じ取ることが大切なのだと言えよう。
多くの留学生たちは日本語を学び、そして日本語でコミュニケーションする力を高めている。早稲田で学び、教える人々が日本語でコミュニケーションするとき、その日本語は日本人だけのものではなく国際共通語としての日本語なのである。国際共通語としての日本語で、考え方、感じ方、捉え方が異なるいろいろな人々と交流すること、そこから世界の中での自分を見つめなおすこと、早稲田における国際化とはそういうことなのではないだろうか。(K)
1225号 (7月22日発行)掲載
就任早々に菅首相が、わが国の閉塞感を打破しなければ・・・と言い出した。具体的な政策をどうするかは別にして、閉塞感からの脱却は、確かにわが国の重要な政治課題である
産業にしても生活にしても、将来のビジョンが見えないと言われて久しい。明るい未来を描けない状況が続いているのである。すでに人口の減少が始まり、高齢化社会の到来を実感する昨今である。拡張が当たり前だったこれまでとは違い、縮退する社会を前提にして諸々の計画を描かざるを得ないのだから寂しい。地域活性化の議論も最近はなかなか気勢があがらない。活性化どころか限界集落への対応を迫られる自治体がこれから増えていく
また、現下の経済状況の悪化で、就活に励む学生諸君の面持ちも曇りがちだ。何とも夢が持てない国になってしまったものである。引き換え、上海万博の開会式の日、会場からの中継で映し出された人々の笑顔には、国の発展の勢いと市民の夢が迸っていて、元気だったかつての日本が思い出された
最近わが国では、よい夢までを食らう新種のバクが異常繁殖しているのではなかろうか。そういえば過度の携帯依存症も異常繁殖中である。あの小さな液晶画面の奥に人生の大きな夢が潜んでいる筈はなかろう。携帯に限らずITビジネスが提供する逃避的世界が、実は新種のバクの住処なのかもしれない
経済の活性化、福祉の充実、科学技術の発展・・・いずれも必要だが、もっともっと欲しいのは、大きな夢をもった若人たちの起爆力である。 (T.Y.)
1224号 (7月15日発行)掲載
先頃、私を含め4人の共著で出版した著書を担当してくれた編集者お二人が、その本を使用して勉強されている現場を拝見したい、というので、私のゼミの見学をしてもらうことにした。ちなみに編集者お二人とも早稲田のOB・OGである
その本は、対話形式で説明したり多数の書式を付けたりと、学生向けにわかりやすく書いたつもりではあるが、実はレベルの高い内容もちゃんと含まれている。ゼミでは、基本的な知識の確認だけではなく、そうしたコストをかけたレベルの高い部分も拾い上げて理解させるような指摘もしている。ゼミの学生のみならず、見学していた編集者も、この本は実はそんな深いところまで書かれていたんですね、と改めて気付いてくれたようである
その後、くだんの編集者から「久しぶりに早稲田大学のゼミを全身で味わい、思わず感傷に浸ってしまいました」という感想と共に、「先生のゼミは早稲田の『上澄み』ですね」というお褒めももらった。ウワバミの間違いでなければ、ひとえに学生の力である。担当教員は、ホワイトボードに「寝るな!特に先生」とかゼミの最中に学生に書かれているようなダメっぷりだから
2年生から4年生までが、たくさん調べて、プレゼンして、議論して、たまに教師につっこまれて、と昔ながらのゼミである。ただし、勉強している量は、確かに、平均よりはるかに多いだろう。打算でもいい、自分が手に入れたいキャリアに見合うコストを、今のうちにかけておいてもらいたい。 (T)
1223号 (7月8日発行)掲載
留学経験のある学生が二年続けてゼミで活躍している。ことさら積極的に皆を引っぱるというわけではないが、向上心が高く人望がある。二十年間近くバリアーに包まれてきた若者が、セイフティネットのない世界で長期間生活すると、経験値が高まるのだろう
ここ数年、海外へ留学する日本人の学生が減少している。早稲田でも同じ傾向が見られるらしい。就職活動の開始時期が早まっていることが大きな原因だが、それと並んで、日本の若者が「内向き」になっていることも指摘されている。インターネットを使えば日本国内でも海外の情報を得ることができるし、海外の学生とコミュニケーションもできる。その上日本は安全で、大学ではほとんどの事が「想定内」だ。一方、就活に成功し実社会に出ると、「外向き」になることをせまられ、「想定外」の事ばかり。自分を守ってくれるバリアーは大学卒業までしか張られていない。このバリアーは、「想定内」のことにしか接したがらない「内向き」の若者を量産する
ゼミや会社で周囲とうまくやっていけない若者が増えている。昔から多少なりともそうだったのだろうが、このところそれが二極化しているようだ。一方にはいわゆる「ひきこもり」の若者が、他方には自分を過度に押し出す「オレオレサギ」ならぬ「オレオレシュギ」の若者がいる
21世紀は資源にせよ仕事にせよ人々とフェアに分け合うことが求められる時代になるだろう。協調心と自己主張のバランスがますます必要になってくるはずだ。 (T)
1222号 (7月1日発行)掲載
先ごろ、学会出席のために都内の某私大を訪れる機会があった。キャンパスは駅からさほど遠くないのだが、正門が駅とは離れた側にあって、遠回りになる。そこで、駅の近くからキャンパスの裏門へ通じる専用の通路が作られている。両側に草木が植えられた、心地よい散歩道という感じである
ところが、驚いたことに、そこに出ている看板を見ると、周辺住民との協定によって、使えるのは午前中だけ、駅からキャンパスへの登学のみ利用可で、反対方向に通ることは厳禁だという。なるほど、道の途中にも裏門のところにも警備員が立ち、「逆走」する者がいないよう見張っている
早稲田では、諏訪通りから早稲田通りへの「抜け道」の通行マナーについて苦情が絶えず、問題となっているが、どの大学でも事情は厳しいのだなあと、あらためて実感させられた。いまや大学も立派な「迷惑施設」である
路上の歩行にせよ、学生ラウンジの使用や喫煙にせよ、マナーを破るのは、おそらくごく一部の学生であろう。そうした一部の不心得者のために、全体に網をかけて規制が強まるのは、望ましいことではないと思うが、四六時中監視して現行犯をつかまえるのも難しいとすれば、やむを得ない面もある
皆のマナーが自然に向上して、規制や監視のいらないキャンパスが実現する日が来ないものかと夢想するのだが、かなわぬ夢だろうか。 (A.Y)
1221号 (6月24日発行)掲載
大学、とくに早稲田のような伝統校の良いところは、課外の講演などで、世界的な人物と出会えることだろう
ワセダの学生にぜひ語りかけてほしいと頼めばほとんどの方が快諾してくれるのはうれしい。私自身のそんな体験の一端を、この場を借りて学生諸君にお伝えしようと思ったのにはわけがある。五月下旬、ひとりの日本人美術家が世を去ったからだ
荒川修作、享年七三歳だった。一九六〇年東京で過激な芸術運動ネオダダに参加、翌年ニューヨークに移住し七〇年代の作品『意味のメカニズム』で国際的評価を確立、九〇年代以降は「養老天命反転地」や「三鷹天命反転住宅」など最先端の建築的作品で世界中の関心を集めていた
その荒川さん(とお呼びしよう)と、ふとした機会にお会いして親交を結ぶ幸運を得たので、一九九五年以来早稲田に何度も足を運んでいただいた
最後のワセダ講演はちょうど二年前だったが、「きみたちは何も知らない」と叱り、「常識を変えなければ新しいものは何も生まれないよ」と諭す、七〇歳を越えているとはとても思えないその姿は、美術や芸術が専門ではないさまざまな学部の学生たちにも強烈なインパクトを与えた
荒川さんもたしかな手ごたえがあったらしく、「若い人が変わらなければこの国は変わらないからね」と自分に言い聞かせるようにつぶやいたものだ
あの時の学生たちは、突然の訃報に接して何を思っているだろうか。荒川さんの言葉通り彼らが数年後、数十年後の日本を変えることを期待したい。 (つか)
1220号 (6月17日発行)掲載
緑がむせかえるように濃い季節になった。授業の話、サークル活動の話など、夢中になって語り合う学生たちの姿は植物に負けず生き生きしていて、大学のキャンパス独特の雰囲気をかもし出している。私はそんなキャンパスの中を歩くのが大好きだ
しかし、歩くのが憂鬱になる場所がある。そこには「この付近での喫煙禁止」「禁煙」といった掲示がべたべたと貼られている。その前で、平気で煙草を吸っている人々。高校生の集団、海外からのお客様、学外の人たちなどが、そのすぐ脇を通るのだが、彼らは全く意に介さず煙を吐き出している。地面には大量の吸殻。教員や職員による巡回指導が実施されてはいるのだが
この春から、もう一つキャンパス内で憂鬱なことが増えた。「学生マナー向上キャンペーン」の校内放送だ。学生ラウンジ内での喫煙は禁止されている、自分のごみは片付けようなどなど、マナーを守るように呼びかけている。掲示、教員や職員による巡回指導でも事態が改善しないため、こんな内容を放送で毎日毎日延々と流さなければならないような状況になっているのだ
自分には関係がないこと? でも、待って欲しい。大したことではない、他の人もやっている、やりたいことをやって何が悪いのか、誰かがやってくれるだろう…。ここには、環境問題などグローバルな課題にも共通する構造が潜んでいるのではないか。まずは身近なところから、この問題の解決に取り組んでみないか。 (S)
1219号 (6月10日発行)掲載
早大の学内で留学生の元気さが目立つ最近であるが、北京でもちょっと驚いたことがあった
三月末から四月の初めにかけて日中関係の会議のために当地を訪れた。確かに訪中するたびに各地でダイナミックに変わる中国を実感するのだが、今回は特に北京大学の国際関係学院(学部・大学院に相当)を訪問した時に感じたことが印象的だった
二〇〇〇年ごろには古びた建物の中にあった同学院がやがて新しい建物に移り、今回は一つの学院だけで三棟のビルを所有するまでに発展している
しかし驚いたのは膨れ上がる箱モノばかりではない。一つの棟の一階のロビーに何十人もの学生が集まっていた。何をしているのかわからなかったが、あとで友人の副院長に聞いたところ英語による「国連模擬総会」の開催で集まっている学生たちとのことだった。世界の優秀な学生を集め、北京大学の学生たちが主体となってこうした試みをしている
日本でも早稲田をはじめとして、国連大学などでも同様の試みは耳にしたことがあるが、中国の学生たちの姿はとても印象的だった。これまで印象としては、中国の大学は表面的なパフォーマンスの割に中身は物足りない。北京大学も学生は優秀だが、学生指導は不十分でその知名度と比較して実態は乖離があるいうのが私の実感であった
だが、このような考えも改める必要がありそうだ。早稲田の学生諸君も小さくまとまるのではなく、大いに元気を出し世界を見すえて羽ばたいてほしい。 (SA)
1218号 (6月3日発行)掲載
一月末に米国滞在中に困った事態に陥った。サンクスギビングデイの祝日前夜にレストランやファーストフード、二十四時間スーパーも閉店してしまって食事ができない。翌日は一転してあちこちで売り出しをやっていて、お菓子を配ったり、福袋のような詰合せを売っている。日本の初売りセールのような雰囲気だ。しかしなぜ十一月末に?
あとから知ったがサンクスギビングデイは米国では帰省シーズンで、航空券は値上がりするし高速も渋滞するが、親元に子供達が帰ってくる。新年は帰省シーズンでなく、大学も二日から講義が始まったりする。隣のカナダではまた違って、二月二十六日がボクシングデイといって、家族の再会と大バーゲンの日である
アジアはどうかというと、旧正月を祝うところが多い。中国、韓国、台湾、ベトナム、シンガポール等々。自分の研究室の留学生がほとんど旧正月に帰省してしまったが、世界に散らばった親戚が戻ってきたりしてともかく重要らしい。旧正月は毎年移動するが、そのような国の大学は、旧正月が大学暦に組込まれている。国際学会をアジアで計画するときは、旧正月は避けなければならない
見渡してみると、太陽暦の新年が帰省シーズンなのは日本くらいのようだ。大隈重信が太陽暦の導入に関わったという歴史を尊重しつつも、アジア諸国との円滑な交流のために、日本も帰省シーズンを旧正月に戻してみるのも一案かと思った。 (M.I.)
1217号 (5月27日発行)掲載
原稿の番が回ってきたのだけれど、これといって趣味や特技もなく浅学の身であまり教養も無く、さてどうしたものかと思案しても突然名文が書けるものでもなし。私が新入生だったときを振り返りながら、思うところを書くことにする
さて、新学期も一カ月が過ぎ新入生もやっと大学生活に馴染んで来た頃だろう。朝寝坊して授業をサボったり、サークル活動が期待外れでやめたり、憧れの先生の講義も大したことはなく、急に暇な時間が増えてしまった学生も居るのではなかろうか。かく云う私もそうだった
そんな頃を思い出すときいつも心に浮かんでくるのが、『学生のうちに蕫暇﨟を実感しておきなさい』という重兼芳子(作家、一九七九芥川賞)の言葉だ。長い人生において社会が暇な時間を与えてくれる機会はそれほど多くない。外に出れば競争社会、内では家事・育児(これからは親の世話も)、長い人生で暇な時間を過ごせるのは学生時代くらいなもの、とそんな話だった。若い頃はその言葉の意味がよくわからなかった。四十を過ぎる頃にやっと分かる様になって、五十になった今は暇な時間は全く無くなってしまった
暇がなくなると困ることがある。それは考えが浅く狭くなってしまう事だ。現代社会を見ていると、そんな大人ばかりが目に付く。学生諸君、暇がある今のうちにじっくりと考え、そして深い教養を身につけて将来に備えてください。 (S.S)
1216号 (5月20日発行)掲載
大学交流の開発と促進のため、フランスとイギリスの大学を十日間ほどかけて駆け巡ってきた。学生・研究交流の懇談は予想以上の成果で、一部の機関とは一・二年の内に新たな交流ができそうな見通しである。今回訪れた先々で、開口一番、「G30関連でのご訪問ですか」と尋ねられた。G30とは文部科学省が行う国際化拠点整備事業(グローバル30)の略称で、留学生に英語で学位が取得できるコースを新たに設置する「国際化拠点」を全国に三十ほど作るという事業である。この整備事業が開始されて以来、イギリスの主要な大学・研究機関には、拠点とされた大学から学生交流の問い合わせが相次いでいるという。我々の訪問はG30とは無関係だったが、交流するならどこよりも早稲田大学と、という望外なお言葉を全ての訪問先で頂いた。これは建学以来、海外の高等教育機関との交流を地道に続け、無数の留学生や教員や研究者を受け入れ、近年においては世界約八十カ国、約六百の大学・研究機関と教育・研究協定を結ぶに至っていることが主な理由であろう。しかし、訪問先でお会いした方々は異口同音、早稲田大学が提供する教育・研究施設の充実を、早稲田大学と交流したい大きな理由として挙げられていた。特に演博を含む早稲田キャンパスの図書館の充実は、早稲田大学最高の財産として絶賛されていた。海外の学生・研究者も羨む中央図書館だけで二百五十万冊にのぼる蔵書数を誇る最高の財宝の近くに我々は日々生活しているのである。 (NO)
1215号 (5月13日発行)掲載
この稿が掲載される頃には些か旧聞に属することになっているだろうが、我々の日々の行動に関して考えさせられることなので敢えて取り上げる
それは二月のバンクーバー五輪スノーボード・ハーフパイプ日本代表選手の「服装の乱れ」と、その後の言動に対して、批判や抗議が多数寄せられたことである
彼はバンクーバーに向かう際、選手団の公式ブレザー姿であるにも拘わらず、ネクタイを緩め、シャツの裾を外に出し、ズボンをずり下げた「腰パン」姿で、ヘアースタイルも「ドレッド」と言われるものであった
さらに釈明の記者会見でも語尾を伸ばして発言した態度に批判が集中したのである
曰く「スポーツ選手としての品位に欠ける」「スポーツマンらしくない」等々
坂東眞理子さんの『女性の品格』以降「品格」や「品位」の話題が多いようだ
朝青龍の「横綱としての品格」が問われたことも記憶に新しい
朝青龍問題と今回の問題は、「文化」に対する態度から、同列に扱うことはできないだろうが、本来「品格」とは物の善し悪しの程度を意味するもので、価値判断は含まれないようである
では何が問題であったのだろうか
恐らくそれは、スポーツマン「らしさ」であろう
我々は生活する社会集団の間で広汎に受容されている固定的・画一的な観念やイメージ、すなわち「ステレオタイプ」を有している
「スポーツマンらしさ」「学生らしさ」「早稲田らしさ」「男らしさ」「女らしさ」と「らしさ」が氾濫している
彼の言動を「非常識な若者」とかたづけるのではなく、さまざまな「らしさ」を再考する契機とすることも悪くはないだろう。
(T・M)
1214号 (5月6日発行)掲載
桜が満開になると、キャンパスに学生が戻ってくる。四年生は、就職内定の報を持ってやってくるのだが、今年は少々遅れている。不況の影響か苦戦しているようである。下級生も心配になるようで、「どうしたら就職できるのでしょうか」とよく聞かれる。それは、キャリアセンターに相談することだが、「資格は就職に有利でしょうか」と聞かれると、資格対応科目を提供している手前答えないわけにもいかない
実際のところ、就職に有利になる資格というのはほとんどないといってよい。企業は資格を求めているわけではない。そういってしまうと、「資格対応を謳っているカリキュラムは何だ」といわれてしまうが、資格そのものが目的ではなく、目的を持った体系的な勉強とその結果得られる能力を裏付けるものとして資格があるということだろう
企業には、おもしろそうな学生を採用してみるというような余裕はなく、即戦力を求める。しかし、即戦力というのは資格ではない。どのような力をつけようとして大学で学んできたか、そして、それを社会でどう活かしていこうとするのかが問われる。目的を持って勉強してきた学生は、面接でも堂々と自分をアピールできる。脈絡もなく、単位をくれそうな先生の授業ばかり選んできた学生は、苦戦することになる。就職のために大学があるわけではないが、社会で使える力を得られなければ自分が困ることになる。要は、どのような目的をもって大学生活を送るのかである。就活のときになって焦っても遅いだろう。 (H.U)
1213号 (4月22日発行)掲載
高校時代から、特に読書好きでもないのに理屈好きだった。そのせいか哲学に漠然とした興味と憧れを抱いていた。大学入学直後の授業初回で、ウェーバー『職業としての学問』の読書レポートが課された。「学問の目的は真理の探究ではない」と言い放つウェーバーの冷徹さと、その相対主義に真摯な疑問を投げかける担当教授の情熱とに動かされた。今思えば「真面目に学問に取り組めば真理を把握することができ、よき人間・よき市民に近づくことができ、よりよき社会を描くことができるようになる」という漠然とした前提が揺らぐ経験であった
常識を根底から疑う哲学には、自己のアイデンティティと市民社会の良識との双方を揺るがしかねないリスクが潜んでいる。「哲学に深入りしすぎると自己を滅ぼす」と言われるゆえんである。懐疑による新たな視点の獲得は面白い経験であろうが、それはやがて、諦観にも似た自己中心的な「自由」に移行していく惧れがないとはいえない。そうした破滅を直感的に察知して回避するために、思想的には懐疑主義にとどまりながら、社会的には良識ある市民として生活する、という選択肢を選ぶ人も多い
しかし、そういった選択肢を超えていく可能性を、カントは以下のような言葉で表現した。「懐疑主義は理性の休息所であるが、いつまでもとどまっているべき場所ではない」。真理と自由との関係は必ずしも自己破壊的とは限らないようである。「真理はあなたがたを自由にします」(新約聖書ヨハネの福音書) (K)
1212号 (4月15日発行)掲載
三月にアカデミー賞が発表された。予想された『アバター』ではなく、『ハート・ロッカー』が多数の賞を受賞した。筆者は、前者は映画館で後者は航空機内で見ていたが、『ハート・ロッカー』が作品賞を受賞するとは思わなかった。そして、もっと意外だったのは、録音賞と音響編集賞まで受賞したことである。『ハート・ロッカー』は非常に静かな映画である。静かなシーンの中で、突然、ドン、パン、ドカンと来る。工学的に言えば、値がゼロの信号が続く中で、大小のパルスがスパースに挿入される。そのタイミングが絶妙である。審査員はよく見ているものだと敬服した。一方、『アバター』は、筆者の価値観では映画史に残る大作である。興行記録だけではなく、3Dの可能性を世界中の人々に考えさせた貢献は果てしなく大きい。3Dディスプレイが本格的に販売されることもあり、今年は3D元年と言われている。しかし、3Dの研究開発の歴史は長く、約十年周期でブームを繰り返している。実際、十数年前、筆者は業務でメガネなしの液晶3Dディスプレイを購入した。フル三次元CGによる初の映画『トイ・ストーリー』が作成され、「VRML」と呼ばれる三次元記述言語が開発されたのもこの時期である。当時と今で何が違うのか。一つは表示系の解像度の向上であり、これによって目が疲れにくくなった。もう一つはコンテンツの増加であり、撮像系も処理系も大きく進化した。果たして3Dが普及するのか、あるいはまた次のブームを待つことになるのか、今年は重要な一年である。(J.K.)
1211号 (4月8日発行)掲載
テニスに凝っている。しかし、大人になってから始めたためなかなか上達しない。学生だった八十年代半ばは、テニスというとミーハーなスポーツの代表で、サークルは百花繚乱(りょうらん)、お揃いのスタジャンを着てたむろしているイメージが強かったため敬遠していた。食わず嫌いはいけない。多くの人に愛好されているものはそれなりの理由があるのだろう
テニスが上達しない理由は他にもある。最も親しんだスポーツのバレーボールはボールを体の中心でとらえることが多く、テニスとはかなりかけ離れている。テニスは学生の頃全くやっていなかった訳ではなく、友達と自己流でやっていた時期もあった。これもいけなかった。後にスクールに通うようになり、コーチにフォームなどことごとく直された。何事も最初に基礎、型を身に付けることが重要だ
ストローク、ボレーはおぼつかないが、スマッシュだけは気持ちよく打てる。動きがスパイクに近く、バレーボールが描く放物線を何万回と見てきたからだろう。グリップや理論は少し勉強したのだが、スマッシュとなると自然に体が反応し、タイミングよくボールの落下点に入れてしまうから不思議だ。数をこなすということは重要だ。また、あることが思わぬところで役に立つということもある
なかなかうまくならずフラストレーションを感じることも多いが、テニスは概おおむね健康維持に役立っている。冷静に考えるとテニスの動きなど実に不自然なもので、日常生活で行うことはまずない。"無駄"がいいのだ。(Sh.Y.)
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