OG・OBインタビュー 

絵本・童話作家 角野 栄子さん

 いきいきとした表情で著書や、執筆活動についてお話される角野栄子さん。『魔女の宅急便』の産みの親でもある角野さんだが、お話を伺うにつれ、実は…角野さんご自身がほうきを乗り回せる魔女なのでは…?!と思うことしきりのインタビューだった。

【プロフィール】
■かどの・えいこ
1935年東京都生まれ。大妻女子高等学校卒業。本学教育学部英語英文学科卒業。株式会社紀伊国屋書店出版部に勤務。1960年、移民としてブラジルに渡る。帰国後、ブラジルでの体験をもとに描いた『ルイジンニョ少年、ブラジルをたずねて』(ポプラ社)を出版。35歳で作家としてデビュー。その後、数年の執筆期間を経て1984年『私のママはしずかさん』(偕成社)、『ズボン船長さんの話』(福音館書店)で、第6回路傍の石文学賞を受賞。続く'85年、『魔女の宅急便』(福音館書店)がIBBYオーナリスト賞、第23回野間児童文芸賞、第34回小学館文学賞を受賞。このシリーズは2009年末、第6巻が出版されシリーズ終了を迎えている。また、シリーズの第一巻は1989年、スタジオジブリにより映画化され大ヒットした。魔女シリーズの他『アッチ コッチ ソッチのちいさなおばけ』(ポプラ社)もシリーズ化、全巻23巻に及び、今もなお読みつがれている。2000年には紫綬褒章を受章。現在は執筆活動の他、ライフワークのひとつである“魔女についての研究調査”のため、ルーマニアなどを訪れる忙しい日々を送っている。

はじめての男女共学のキャンパス!
「お弁当をどこで食べたらいいの?」

 中学2年から高校卒業まで、ずっと女子高に通っていたので「大学は絶対、共学のところに進学する!」と心に決めていました。新しい世界に飛び込んでみたい気持ちでいっぱいで、それならやっぱり共学の大学に行くしかないかなぁと。外国と関わりのある勉強がしたかったので、志望大学に選んだのは東京外国語大学と早稲田大学。願書を取りに行った時、男子学生と同じぐらい、いきいきした様子の女子学生の姿を見て「早稲田一本で行く!」と決めました。 
 無事早大生になったのはいいのですが、建物がたくさんあってキャンパス内では迷子になったりと、戸惑うことばかりでした。何より一番の難関はお昼の休憩時間。食堂の存在すらもわからず、お弁当をどこで食べたらいいのか途方に暮れていたの。で、意を決して近くにいた女子学生に聞いてみました。「お弁当はどこで召しあがっていらっしゃるの?」。そうしたら混声合唱団に入っていて、練習もかねてお昼ごはんは合唱団の練習室で食べている、って。「あなたもよかったらいらっしゃらない?」。もちろん即、入部(笑)。『都の西北』を歌いながら、お弁当を食べるようになりました。

2号館屋根裏の魔女たち?
守衛さんに怒られたおてんば女学生

 サークルの仲間や授業クラスの友だちもできると、早大生としての貫禄も少しは出てくるようになりました(笑)。合唱の練習の合間には、練習場所の2号館(註1)屋根裏部屋のベランダから屋根上に出て、屋根を散歩する余裕も出てきました。ある日、いつものようにサークルの女子仲間で屋根を散歩していたら、突然守衛さんが「こらー!危ないからすぐ下りなさい!」と怒鳴ったの。そうしたら地上にいた人たちが、一斉に私たちを見上げてしまって!全員スカートだったから、もう慌てました。大騒ぎしてスカートの裾を押さえながら、屋根裏部屋に駆けこみました(笑)。今では大笑いの話だけど、そんなこともありましたね。
 私が大学に入学した時は、日本という国が何もかも大きく変わろうとしている時代でした。だから日本人としてどうこれから国を支えていくのか、まず自分たちが考えなくてはいけない、とよく話していた。もちろん、話すことはそればかりじゃありません。本や映画のことも、わくわくしながら話していました。映画や本を通して生きていることのぬくもりを実感していた学生時代でした。

「あなたは、翻訳はやらない方がいいね」
 外国と関わりのある勉強がしたい!と進んだ英語英文学科。翻訳家としても活躍されていた龍口直太郎先生のゼミに入って、英文学の勉強を続けていました。そんな折、先生がこうおっしゃたんです。「あなたは翻訳をやらないで、自分で書きなさい。その方がいい」。後になってみると仕事の方向性を導いてくださっていたのですが、当時は「翻訳家には向いていない」と言われたと思い、がっかりしました。英語の勉強を続けるうちに「日本人と外国人をつなぐ仕事がしたい」と思うようになっていましたからね。大学卒業後は、出版社に勤務。やっぱり外国への思いが捨てきれず、夫と共にブラジルに移民として、渡航することを決めました。

贈りものを開けるときみたいに、わくわくしているわ
 25歳でブラジルに移住。働き先も、住むところも何も決まっていない状況での渡航でしたが、全く不安はなかった。『魔女の宅急便』の主人公のキキが魔女の修行に出かける夜に言った台詞と同じ気持ちでした。「贈りものを開けるときみたいに、わくわくしているわ」。いろいろ苦労はありましたが、夫はデザイン事務所で、わたしは早稲田で培った英語力を活かして短波放送のラジオ局で働いて。2年後、ブラジルで貯めた貯金をもとにヨーロッパ各地を旅して、帰国したのです。

物語を書くことが好き。
だから、繰り返し続けられる

 帰国後、龍口先生が主催されていた翻訳勉強会に再び出席するようになり、先生から子ども向けの本を作るのを手伝ってほしい、とお話がありました。世界の子どもたちをノンフィクションで紹介する本を作る企画で、私はもちろんブラジルの子どもの担当。そうして生まれたのが『ルイジンニョ少年、ブラジルをたずねて』なのです。
 原稿を書いても書いても、何度も書き直しの連続。でも楽しかった。机に向かってうんうん唸りながら「ああ、私は書くことが好きなんだな…」と実感できた仕事でした。そして、その時やっと龍口先生がおっしゃった言葉の意味がわかったの。なるほど、翻訳がダメということではなくて書く方が向いている、先生はそうおっしゃっていたのか…。書くことが好きなんだ、とわかってからはどんな時でも書くことが苦じゃなくなった。主婦としての仕事をしながら、物語を書きためていきました。

童話作家として本格的に
スタートしたのは42歳

 35歳でルイジンニョ少年の物語でデビューしてから、その後『ネッシーのおむこさん』、『ビルにきえたきつね』の2冊で作家として活動を始めるまでに7年の時間がかかりました。自分が見たもの、感じたものすべてを自分の中に“ことば”として取り込むのに、7年という時間が必要だったのだと思っています。7年もの間に“ことば”が浮かばず、書くことから離れることもありました。でも、やっぱりやめられない。「もう1回だけやってみよう」。あともう1回だけ、そう思ってやっていたから続けてこられたのかもしれません。

ひとりひとりの魔法
そして、魔法はひとつ

 私の描く魔女は、ハリー・ポッターのように呪文を操っていろんな魔法をつかえるようなすごい魔女じゃありません。自分にできるたったひとつの魔法を大切にして生きている魔女です。魔法はすなわち、その人の仕事。その人そのものを表すものだと思います。自分の魔法を見つけるのに大学4年間で見つかる人もいれば、卒業後10年かかる人もいるかもしれない。だけど魔法を見つけるコツは、あります。同じことを繰り返してもあきないことが、自分の好きなこと。その好きなことこそが自分の魔法です。
 私も自分の“魔法=書くことが好き”が分かったのは35歳の時。あまり人と自分を比べたりせずに、自分がいきいきできることを見つけることが大切だと思っています。これからも「贈りものを開けるとき」のような気持ちで、毎日を過ごしていきたいですね。








左:魔女の宅急便 /1985/福音館書店 右:魔女の宅急便 その6 /2009/福音館書店
▲左:魔女の宅急便 /1985/福音館書店
右:魔女の宅急便 その6 /2009/福音館書店



魔法はひとつ

註1:會津八一記念博物館・高田早苗記念研究図書館等がある建物。現在は屋根上への出入りはもちろん許されていない。

 
1223号 2010年7月8日掲載