私の所属するある研究会に、最近、聴覚障害を持つ学生が入ってきた。社会人学生として大学院で学んでいるという。音が聞こえても意味が認識できないそうで、筆談やパソコン通訳が必要だ
こういう場に積極的に参加し、周囲からの支援を仰いでいる彼だが、かつては耳が聞こえないことを恥ずかしく思い、支援の必要性を開示できない時代が長く続いたそうだ。今のようになるには、どうも何段階ものステージがあり、その都度「脱皮」を繰り返したらしい
これを聞いていて思った。私も最初、どうやって彼に接触していいのか、どの程度通訳すべきか、わからなかった。しかし、何回かいっしょにいるうちに、通訳しないときには完全に彼がその場に取り残されていることがだんだんわかってきた。笑いに包まれた場でも、ひとりできょとんとしている。何がおもしろかったのか、隣の人に聞きたいけれど、おしゃべりに夢中になっている人に聞くのもはばかられるのかもしれない。存在を認めること、それは、場にいっしょに参加できることなんだ、コミュニケーションができることなんだ、という当たり前のことに気づいたのは、彼が研究会に参加して何回目かのことだった」
障がい者に「脱皮」のプロセスが必要なのと同様に、支援者が支援ができるようになるまでにも、何段階か「脱皮」を繰り返さなければならないようだ。大学コミュニティという場が、支援者と被支援者の双方にとって、ともに体験を通して「脱皮」していける場であってほしいと思う。 (Y・T)
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