犯罪をめぐる最近の報道をみていると、「健全な処罰感情」とか「遺族の心情」といったものを厳罰化の根拠としているものが多い。しかし、「感情」を直接処罰の理由とすることができるのだろうか。「気に入らなかったから殺した」という理由が犯罪を正当化しないのと同様、「罰しなければ気がすまない」という感情は刑罰を正当化するものではない
恋愛や就職などの個人的事項についてさえ、感情的な判断は後悔のもとであり、冷静な判断が望まれる。それなのに、公共的事項である刑法の適用において、感情的判断が推奨され、むしろ、冷静な判断をしようとすると「血が通っていない」と非難される。刑罰を感情によって決定しようとする人々は、外交、税制、金融政策、教育制度などの他の国家制度も感情によって決定しようとするのであろうか。それとも、数多くの国家制度の中で、刑罰制度のみが「感情」に支配されるべきものと考えるのであろうか
感情は、まさに「自分自身」と一体化しているだけに、それを自分で客観視することはできない。行き過ぎがあっても、不合理な帰結を招いたとしても、「感情」は、すべてを正当化してしまう。もちろん、感情を抱くこと自体が悪いわけではない。われわれに求められることは、自分自身で感情の原因を「言語化」することであろう。言語化によって、はじめて自分自身を客観視し、自覚と自省に基づく判断が可能となるとともに、真の意味での「他者に対する理解」に達する道が開けるのではないだろうか。(YM)
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