とっておきの話


2007年度後期掲載分 目次





聖書と経済学


社会科学総合学術院教授 鷲津 明由



▲5歳と8歳の娘たちが描いてくれた私の絵

 昨年のイースターに洗礼を受け、霊名テレジアをいただきました。幼稚園以来カトリックとは無縁でしたが、入信を考え始めたきっかけは、上の娘が小児喘息で入院したときでした。そのあとしばらく娘の健康管理には必要以上に敏感になっていたのですが、あるとき、考えてみれば子供はさまざまな病気を経て丈夫な体を作っていくのだと、それが自然の摂理なのだと気がつきました。でも頭で分かっていても、苦しんでいる子を見るとなかなかそうも割り切れない、そんなとき、これは神の御業だと考えれば事態を受け入れやすくなる、多分宗教の役割はそういうものではないかと思ったのです。そして入信のための要理をシスターの下で学んでいるとき、シスターが「あなたが教会の門をたたいたのは、あなたがキリストを訪ねたからではなくキリストがあなたを呼んだからだ」とおっしゃったのは印象的でした。ちょうどそのころ、子どもたちの養育を手助けしてもらっていた実母の3年前に患った病気が再発し、あっという間に神様のもとに帰っていったのです。これは、キリストがぎりぎりのタイミングで私を呼ばれたのではないかと、本気で信じたくなるような状況でした。

 宗教というのはおもしろいものだと思います。聖書に「ぶどう園の労働者」というたとえ話(マタイ20)があります。これは一日中働いた労働者も、運悪く職の機会を得られなかった労働者も平等に賃金をもらえるというたとえ話で、神は後者の運の悪さを救って下さるという教えのようです。でも経済学によれば、働いた人もそうでない人も同じ賃金では、労働のインセンティブなどがなくなり、社会の効率が悪くなる。社会を豊かに幸せにするには、労働に見合った賃金を支払わなければなりません。でも同じく社会を幸せにするために書かれているはずの聖書には逆のことが書いてあるのです。確かに効率の斟酌だけで人が本当に幸せにはなれないでしょう。何事にも言えることですが、この場合にも学問的な鋭利な思考と宗教的な救いの思考がバランスをとっていくことが必要なのではないかと思います。

(2008年1月17日掲載)

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First drafted 2008 January 17.



アイルランド詩人 ミホール・オシール


法学学術院教授 清水 重夫

ダブリンのオシール氏宅にて
▲ダブリンのオシール氏宅にて。左がオシール氏、右が筆者

 テーマカレッジ「アイルランドの文化」のクラスでアイルランドの現代詩人ミホール・オシールを扱っている。全員が翻訳をしてメールで送り、授業ではプリントアウトしたものが配られる。皆辞書を引きっぱなしである。担当者の1人が自分の翻訳を読んで説明。もう1人の担当者が反論を加える。さらに全員の意見の交換になる。慣れてくるとなかなか楽しいものになる。終わったところで私の訳を紹介する。

 ミホール・オシール氏は1947年ダブリン生まれの詩人で今年60歳になる。早くからアイルランド語の言語学者、民俗学者として実績・名声を獲得したが、詩作への思いが絶ちがたく、学者を辞めて詩人となった人である。私は彼を現代アイルランドの都会派詩人、思索詩人と呼んでいる。1984年の在外研究の時、ダブリンで初めてお目にかかった。ダブリンという街はアイルランドの首都だが、街を歩けば必ず知人に会うほどの規模で、ある年の夏休みに市の中心ナッソーストリートを歩いていると、偶然夫妻に出くわす。彼の詩選集を翻訳したいと伝えて、了解を得た。かなり時間が経った後、この翻訳を出版することができた。『マダム・ジャズ、ようこそ!』(1999年)。

 これが縁でその後『僕たちの二重の時』(2000年)、最近では『アウシュヴィッツの彼方から』(2007年)を出版する。『アウシュヴィッツの彼方から』は第二次世界大戦のユダヤ人大虐殺の流れを追った詩集で、戦後60年を経過した今、風化しそうになっている人々の体験を新たに追っていこうという意図である。翻訳には資料にあたり、同僚に尋ね、結構な時間と労力がかかったが、その成果が出ているかどうか楽しみだ。

 その詩人が10月末に日本を訪れて、詩の朗読会を開くことになった。山梨、神奈川、そして京都とまわって最後に11月9日に早稲田大学での会があった。詩の朗読としては破格のやり方で、まず彼の日本語での説明があったあと、私が自分の翻訳を読み、そのあと彼が英語の詩を読むという「二人羽織」のやり方である。ちょっと邪道のようでもあるが、2人の読みがジャズのセッションのように響いたという感想も聞けた。

 クラスで扱った詩の1つを私の翻訳で紹介しよう。

 ひまわり

 太陽に向かってピンと身体をまっすぐにして
 挑戦するのは危険だ。
 負けると完敗になるからだ。
 引力が強すぎてもおしまいだ。
 背筋を曲げれば、倒れてしまうからだ。

 この賭けはやってみるだけのことはあると言ってくれ。
 ほんのちょっと自信をつけてくれればいいんだ。
 それで花を咲かせることになる。
 チャンスがあればかならず花を咲かせるさ。

 そうしたら空まで届くほどにほめてやってくれ。
 光で僕をほめたたえてくれ、君よ。
 そう、ほめて、ほめて、ほめちぎってくれ。
 そうすれば僕は永遠に生きることになる。

(2007年11月29日掲載)

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First drafted 2007 November 29.



ニューヨークとチュニジア


商学学術院ファイナンス研究科教授 四塚 利樹

サハラ砂漠東端のクサールギレンにて
▲サハラ砂漠東端のクサールギレンにて
チュニス郊外の個人宅にて
▲チュニス郊外の個人宅にて

 あの2001年9月11日の朝、私はニューヨークに居た。前日にロンドンで会議があり、そのまま直行して、深夜にセントラルパーク近くのホテルに着いて1泊したばかりだった。世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだと電話で知らされ、急いでTVニュースを見たところ、すでに2機目が激突した後で、衝撃的な映像が繰り返し流されていた。

 当日は午後にウォール街で会合が予定されていたが、もはやそれどころではなかった。翌日以降の予定もすべてキャンセルである。いつ日本に帰国できるかもわからない。とりあえず友人たちの無事は確認したが、ほかにやることもなく、ほとんど一日中TV報道にくぎ付けとなった。犠牲者についての具体的な報道が増えてくると、涙なしには見ていられない。

 やり場のない怒りと悲しみの中でも、米国のメディアは良識を守り、アラブ系米国人などへの偏見を抑えるために懸命な努力をしていた。識者のコメントも短絡的反応を戒めるものが多かった。閑散とした街の中で、教会にだけは多くの人々が集まっていたが、そこでも静かな悲しみと祈りが満ちていた。

 この事件をきっかけに、私もイスラムに対する理解を深めたいと思うようになった。何冊か本を読んだことはあるが、「皮膚感覚」がない。それが3年後にチュニジアを訪れた理由の一つである。

 チュニジアは穏健なイスラム国で、地方は保守的だが、首都チュニスでは女性も西洋的な服装で闊歩している。詳しく紹介する紙幅はないが、都市国家カルタゴがローマ帝国に破壊されて以来、アラブ民族、オスマン・トルコ、フランスなどに支配されてきた「文明の交差点」である。

 イスラムの建築や装飾芸術の繊細で優雅な美しさは圧倒的であり、その影響は欧州でもスペインやハンガリーなどに色濃く残っている。伝統的に学術文化が盛んで、アラビア数字や代数学・天文学などの面で西洋文明への貢献も大きい。輝かしい歴史と停滞する現状の間にある、あまりに大きなギャップ。このギャップに対する焦燥感が、テロリストを生み出す土壌になっているのだろうか。

(2007年11月15日掲載)

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First drafted 2007 November 15.



マヤ考古学の可能性


文学学術院准教授 寺崎 秀一郎

筆者帰国の際の送別会に集まったコパン考古学プロジェクト(PROARCO)の面々
▲筆者帰国の際の送別会に集まったコパン考古学プロジェクト(PROARCO)の面々
コパン遺跡9L-22,23グループ(手前は調査・修復の終わった建造物、奥の建物では現在も調査・修復を継続中)
▲コパン遺跡9L-22,23グループ(手前は調査・修復の終わった建造物、奥の建物では現在も調査・修復を継続中)

 ホンジュラス、という国をご存じでしょうか。中米に位置し、日本の3分の1くらいの大きさで、人口は740万人ほど。世界史の教科書ではコロンブスによるアメリカ大陸「発見」は1492年と習いますが、実際にコロンブス一行がアメリカ大陸本土に上陸したのは1502年のことで、その上陸地点がホンジュラスでした。ヨーロッパ人到来以前のアメリカ大陸では、インカ、アステカ、マヤに代表される旧世界とは異なる社会を発展させていました。

 ホンジュラス西部地域は、紀元前2000年ごろ〜西暦1500年ごろまで栄えたマヤ文明圏の一角をなします。私は1992年から3年間、このホンジュラス西部地域で国立公園開設のための遺跡調査・保存修復プロジェクトに青年海外協力隊の隊員として参加しました。これが契機となり、それまで続けてきた縄文文化研究からマヤ考古学へ方向転換することになりました。

 マヤ考古学の世界に足を踏み入れてみると、確かにコウモリが飛び交う洞窟の中にザイルで降りていったり、川を四輪駆動車で走破したり、熱帯病にかかったり、冒険活劇的なこともありますが、もっとも深く考えさせられたのは、古代遺跡と現在、あるいは未来との関わり、つまり、考古学研究の存在理由についてです。ホンジュラスのような決して豊かではない開発途上国において、一見経済活動とは無縁な考古学研究が評価されるためには、単に学術的成果を追い求めるだけではなく、それをどのようにして現地にフィードバックし、未来へ継承していくのか、ということを考慮しなければなりません。そのため、調査と同時に保存・修復を実施し、文化資源として活用の可能性を開き、人材育成を併せておこなう、ということを続けています。

 今年の7月からは、学内外の多くの人びとの協力により、文学学術院とホンジュラス国立人類学歴史学研究所との間で世界遺産であるコパン遺跡での考古学プロジェクト契約も動き始めました。十数年前、私の助手として働いてくれていた若者が、今では発掘調査の現場責任者として活躍している姿を見ると、少しは恩返しができたような気がします。

(2007年11月1日掲載)

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First drafted 2007 November 1.



ヒューマン・タッチって?


教育・総合科学学術院教授 加藤 尚志

なんでもメモしていた在米時代の日記帳
▲なんでもメモしていた在米時代の日記帳

 もう20年以上前、米国カリフォルニアに設立されて間もないアムジェンというバイオベンチャーで仕事をしていた時の話。科学実験室では、研究者すなわち「サイエンティスト」たちの指示を受け、手足となって実験を行う「テクニシャン」たちが多数活躍している。修士号をもつ「テクニシャン」はざらにいるが、雇用区分がはっきりしていて、自立した研究は持てない。だから割り切りと悲哀がある。

 ところが一緒に仕事をしたE博士は、「私たちはテクニシャンという言葉は使わない。彼ら彼女らのことは、仕事のパートナーとしてリサーチ・アソシエイトと呼びます」。と胸を張って私に語ってくれた。「テクニシャン」という言葉には、人(職)を蔑んだ響きがあることを知り、以来私は欧米人研究者との会話で、この言葉を口にすることができない。この会社は、高度成長期の日本企業のように、全従業員の家族を招待する「ファーメンテーションパーティー」という催しをしばしば開催し、離職率は極めて低かった。その後はベンチャー史を飾る大成長を遂げ、今は(ただの!?)巨大バイオテク製薬企業である。

 もうひとつ。やはりカリフォルニアに1988年に設立されたラホヤ免疫アレルギー研究所を訪問した時の話。皆がウキウキとクリスマスの飾りつけをしていた。聞いてみると、全所員の家族の子どもたちがサンタさんにお願いしているものを調べておいて、クリスマスパーティーでプレゼントするのだそうだ。ここの初代所長は、免疫グロブリンE発見の偉業で知られる石坂公成博士。もともとは事務職員の不和を解決しようと、石坂先生の奥様の照子先生(免疫学者)が私財を投入して始めた行事だ。今や免疫学で世界トップの研究所となり、研究者のユートピアとしても知られている。

 民間企業で経営に参加する立場になると、実にさまざまなトレーニングを受けなくてはいけない。私は本学に出戻る前にそういう研修で、かつて2人の若者が起業した大会社が理念として掲げる「ヒューマン・タッチ」という言葉を知った。義理と人情、モラルとも違う。ああ、なるほど、これだったのかな。本学のように、専門や立場、価値観が全く異なる人々の巨大集団では、相互に大切にすべき感覚のように思う。

(2007年9月27日掲載)

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First drafted 2007 Septmber 27.