とっておきの話 |
聖書と経済学社会科学総合学術院教授 鷲津 明由
昨年のイースターに洗礼を受け、霊名テレジアをいただきました。幼稚園以来カトリックとは無縁でしたが、入信を考え始めたきっかけは、上の娘が小児喘息で入院したときでした。そのあとしばらく娘の健康管理には必要以上に敏感になっていたのですが、あるとき、考えてみれば子供はさまざまな病気を経て丈夫な体を作っていくのだと、それが自然の摂理なのだと気がつきました。でも頭で分かっていても、苦しんでいる子を見るとなかなかそうも割り切れない、そんなとき、これは神の御業だと考えれば事態を受け入れやすくなる、多分宗教の役割はそういうものではないかと思ったのです。そして入信のための要理をシスターの下で学んでいるとき、シスターが「あなたが教会の門をたたいたのは、あなたがキリストを訪ねたからではなくキリストがあなたを呼んだからだ」とおっしゃったのは印象的でした。ちょうどそのころ、子どもたちの養育を手助けしてもらっていた実母の3年前に患った病気が再発し、あっという間に神様のもとに帰っていったのです。これは、キリストがぎりぎりのタイミングで私を呼ばれたのではないかと、本気で信じたくなるような状況でした。 宗教というのはおもしろいものだと思います。聖書に「ぶどう園の労働者」というたとえ話(マタイ20)があります。これは一日中働いた労働者も、運悪く職の機会を得られなかった労働者も平等に賃金をもらえるというたとえ話で、神は後者の運の悪さを救って下さるという教えのようです。でも経済学によれば、働いた人もそうでない人も同じ賃金では、労働のインセンティブなどがなくなり、社会の効率が悪くなる。社会を豊かに幸せにするには、労働に見合った賃金を支払わなければなりません。でも同じく社会を幸せにするために書かれているはずの聖書には逆のことが書いてあるのです。確かに効率の斟酌だけで人が本当に幸せにはなれないでしょう。何事にも言えることですが、この場合にも学問的な鋭利な思考と宗教的な救いの思考がバランスをとっていくことが必要なのではないかと思います。 (2008年1月17日掲載) Copyright (C) 2008 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.First drafted 2008 January 17. |
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