とっておきの話


2007年度前期掲載分 目次





どっちが趣味


国際情報通信研究科教授 佐藤 拓朗

 国際標準化で海外を飛び回っていたころ、ヨーロッパからニューヨークを経て世界一周をすることになった。週末をポルトガルで過ごしてからニューヨークを行こうと考えた。標準化のメンバーからは、ポルトガルへは一度は行ってみると良いと聞かされていた。ポルトガルは大航海時代の栄華を極めた遺産がそのまま残っている。


 リスボンのホテルにチェックインして、早速サンジェルジェ城址へ出かける。くねくねと回った道を歩いて登る。頂上付近に、小さな骨董店がある。帰りに店によった。年は40歳前後の店主で愛想がよい。一つだけ気になるコーヒーカップがある。店主は気づいたらしく、「どうですか、ワインを飲みませんか」と、ポルトガル産のポートワインを奥の部屋から持ってきて、一口サイズのグラスに注いで勧める。汗もかいていたので、ワインの甘さが、口の中に広がり、なんともおいしい。どんどん勧める店主と一緒に、少々酔いがまわる。骨董談義に花をさかせながらも先のカップが気になる。

 写真では見えないが、白磁の表面に透明感の強い紫色の上薬がかかっていて全体のバランスが良い。酔いもまわっていたせいか、ますます、色あざやかさが強く印象付けられた。「いいね」と言うと、店主は、そうでしょうと言わんばかりに、机の上に持ってきた。

 店主は、何気なく「8万円(16万エスクード)ですよ」と言う。いつも値段交渉で悩むのは、自分に基準がないときに、幾らで交渉するかである。とりあえず、引っ掛けであろうと思い「そうね、5千円なら買うよ」と言った。笑った店主は、「お客さん冗談でしょう」という。「せいぜい勉強して6万円までならまけますよ」。これからが、値段交渉の開始である。すでに、この段階ではコーヒーカップが良いとか悪いとかはどうでも良い。値段交渉に最大の興味が移る。店主の差し出すポートワインの誘惑に負けそうになりながら「1万円が限界」と言った。店主は3万円が限界という。ポートワインで、十分に元を取った気持ちで「じゃあいいよ」といって外へ出る。「おしいことをしたな、一晩考えて、明日来よう。しかし、誰かが買ってゆくのも困る」と思いながら、城の坂を下って行く。大分、降りたころ、店主が、走ってきて「あんたはタフネゴシエイターだね」と言って、1万で良いといってきた。早々、店に戻って手に入れた。海外へ行くと骨董店に立ち寄っては色々と買い集める。一度、『開運なんでも鑑定団』にでも出てみようかとも考えている。

(2007年7月12日掲載)

Copyright (C) 2007 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.
First drafted 2007 July 12.



早慶戦の思い出


日本語教育研究科教授  吉岡 英幸

6月4日、早慶戦の夜の優勝祝賀会にて。
▲6月4日、早慶戦の夜の優勝祝賀会にて。

 今季の東京六大学野球は、久々に盛り上がり、しかも早慶戦で勝って優勝という最高の形で終わった。私が早稲田の学生だった今から40年余り前は、早慶戦といえば、必ず前夜から徹夜して並ぶ学生たちがいたし、球場が満員になるのは珍しいことではなかった。神宮でみんなと応援歌や校歌を歌うことで、初めて早稲田の学生になったことを実感したという者は多かった。

 早慶戦の後は、勝敗に関係なく、早稲田の学生は新宿へ、慶應の学生は銀座に繰り出し、騒ぐというのが慣例となっていた。ほろ酔い機嫌の学生たちは、校歌や『紺碧の空』を歌い、歌舞伎町を練り歩いたり、新宿コマ劇場前の小さな池に飛び込んだりした。今思えばはた迷惑なことであるが、当時は通行人も「おめでとう」などと声をかけ、それでまた盛り上がるという光景が、あちらこちらで見られたものである。

 たしか、大学2年の秋の早慶戦のときだった。試合が終わり新宿に出ていたとき、先輩が「今日は敵陣に乗り込むぞ」と宣言。驚いて友人と顔を見合わせた。その先輩は、角帽、学生服に高下駄という、当時でも目立ついでたちであった。銀座に着いて、歩道を歩き始めた3人は、相当緊張し、無口になっていた。慶應の学生に出会ったとき、どのような展開になるかわからなかったからである。銀座4丁目に近づいたとき、向こうから慶應の学生の一団が来た。こちらに気づいた彼らは、さすがにびっくりしたように、一瞬立ちどまった。そして、「ワー」といいながら走りよってきた。怖かった。取り囲まれて、体をつかまれた。気づいたら、その場で胴上げをされていた。そして、「銀座によく来た」と肩をたたかれ、握手攻めにあった。

 今でも銀座へ行くと、生まれて初めての胴上げの感触とともに、慶應の学生たちの温かさを思い出す。ささやかな、しかし私にとっては大切な早慶戦の思い出である。

(2007年6月28日掲載)

Copyright (C) 2007 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.
First drafted 2007 June 28.



テニスとゴルフ


芸術学校教授 伊沢 久

ショートコースのグリーン上にて
▲ ショートコースのグリーン上にて

 テニスを始めたのは30代に入ってからである。スクールに入り、初級から3年ほど通った。最初のころはまだ木製のラケットであった。少し試合もできるようになると、誘われる機会も多くなり、テニス仲間も増えた。最近では、ラケットと打撃理論の進化からか、若い人たちのフォームは目を見張るものがあるが、もちろん真似はできないし、真似したら体を壊しそうである。また、大学の教職員テニスクラブに参加させていただき、他学部の先生方や職員の方々と、楽しい練習や合宿をさせていただいている。特に、昨年の秋合宿には、白井総長、坂井利郎氏がみえられ、思い出深いひとときだった。いろいろな大学の試合にも出させていただき、精神修養? になり感謝している。また、大きな試合である早慶戦には、歴史の深さと伝統の重みを痛感し、是非今年も勝利したい。

   また、テニス仲間からゴルフに誘われて約3年になる。最初はなにも分からなかったのでスクールに通った。止まっている小さなボールを、止まっているアドレスから打つのは、非常に難しい。ボールの飛んでいく先は、当然物理現象に則っているので、説明がつくが、打ち直しのきかない1個のボールでの勝負であり、悔しいほど、自分自身だけとの戦いである。ゴルフの軸の回転運動や重心の移動は、テニスにもいい影響を与え、相乗効果があるらしい。上手になるには、筋肉トレーニングが必要だが、もちろん時間も根性もない。しかし、これから老いる体を考えるとストレッチは十分にしたほうが良いと思っている。

   ホールインワンは、確率的には非常に少ないことだが、行った人を何人か知っている。先日友人がしたのを目撃した。印象深い光景であった。いつかできたらと思っている。また、エイジ・シュートの方がもっと稀である。自分の年齢と同じスコアで回るのは、長生きで健康であり、かつゴルフ技術の両方を要求されている。成し遂げた人は非常に幸せだと考えているし、夢である。

   中年で始めたテニス、初老で始めたゴルフ。10代のころ1年間だけでもスポーツした人のフォームは、当然美しく理にかなって、悔しいけど、かないません。是非若い時に、自分に合ったスポーツをして、後悔のないようにして下さい。

(2007年6月14日掲載)

Copyright (C) 2007 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.
First drafted 2007 June 14.



23年ぶりの再会


アジア太平洋研究科教授 園田 茂人

方宏進氏
▲方宏進氏
(写真の出典:騰訊網

 仕事柄、中国に出張することが多い。調査の打ち合わせや会議への出席など、出張の目的はさまざまだが、行く先々で思わぬ人に出会うこともある。今年3月の北京出張の際も、そうだった。

 岩波書店の『世界』に連載中の対談を終え、ホテルに戻ってみると、どこかで見たことがある顔が。中央電視台(中国の国営テレビ局)の人気番組「東方時空」のキャスターを長年務めていた方宏進だった。

 社会問題に鋭く切り込む「東方時空」のキャスターを辞めたことがニュースになるほど、方の人気は絶大だったが、実は方とは旧知の仲。今から23年前の1984年に最初に中国に訪問した際に知り合い、大学院生として一緒に語り合った間柄だ。こちらは、いつも方の姿をテレビで見ていたからすぐわかったが、方は、すぐに私と気づかなかったようだ。何でも、白髪がずいぶんと増え、体型も崩れてしまったらしい(お前だって!)。

 もっとも、互いの記憶を呼び起こすまでに時間はかからなかった。それぞれ、この23年の間にどんな変化があったのかを話しあったが、そこで、方の隠れた一面を見た。何でも、1989年の六四天安門事件の後、当時勤務していた深大学から厳しい批判を浴び、アカデミズムを飛び出してテレビの世界に入ったという。民主化運動への参加が社会派番組の人気キャスターを生み出す原因になったというのだから、面白い。

 現在、中国のメディアが変化の兆しを見せている。政府の公式見解だけを示す従来のスタイルから、記者が自らの取材に基づいて事実を報告・論評するというスタイルへと変わりつつあるのだが、共産党の一党支配の構図は変わらず、むしろ胡錦濤政権では、メディアへの締め付けが厳しくなっているという指摘もある。一方で、方のようなジャーナリストがメディアの中で着実に地歩を固めつつある。

 一見変化していないように見える現象も、長いスパンで見ると変わっていることがよくある。では、中国のメディアは今後、どうなるだろうか。23年ぶりの方宏進との再会は、そんな思いを掻き立てるものだった。

(2007年5月31日掲載)

Copyright (C) 2007 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.
First drafted 2007 May 31.



私とジャズと早稲田大学


スポーツ科学学術院教授 内田 直


 2003年4月に現職に着任した。当初は趣味をする余裕もなかったが、ここ4年で随分と慣れた。今回はそんなところで、趣味のお話をしたい。

 私は元来ジャズ好きで、滋賀医大時代は京都のライブハウスにピアノで出演したこともある。卒業後医者になり、多忙の中で演奏からは離れていた。米国から帰国して研究所に就職した36歳ころ、女房が結婚式の余興でサックスをやった人が素敵だったという話をした。これだと思った。研究所には実験用の防音室がある。まずは安価なソプラノサックスを買った。37歳の時である。昼休みは素早くランチを取り、毎日小一時間の練習を続けた。1年後、友人の結婚式で『Walz for Debby』を演奏。今考えると恥ずかしい話だが、ピアニストが良かったこともあり、それなりにうけた。それが励みになり精進を続けた。技術が上がると、良い楽器が欲しくなる。40歳の記念に少し高級なテナーを買った。ソプラノよりも表現の幅が広いテナーに魅了され練習。40代半ばごろには、中学時代の友人がピアノを弾いているジャズクラブに出演した。

 しかし、一人で練習するのは持続が大変だ。普段の生活は研究が本務で、そちらをおろそかにすると家族が路頭に迷う。年を取ってからは月日の経つのは早い。気を抜いて、練習しないと、あっと言う間に2、3年は経ってしまい、また一から出直しだ。

 46歳で本学に就職が決まった時、早稲田はジャズということが頭に浮かんだ。数々の優秀なジャズ演奏家を輩出している。モダンジャズ研究会のページを見ても、 北陽一郎(tp)、鈴木良雄(b)、藤本敦夫(comp)、増尾好秋(g)、丸山繁雄(vo)と5名のOBがリストされている。ほかに私の知っている限りでも佐藤達哉(ts)や太田剣(as)などの比較的若手のミュージシャンも「ダンモ」出身のはずだ。タモリの名前も挙げておこう。早稲田の誇るビッグバンド、ハイソサエティオーケストラからも香取良彦(vib)、守屋純子(comp, p)などすごい名前がそろっている。そんな風に私にとって早稲田大学とジャズは一つのイメージを作っていたし、紛れもなく早稲田はジャズの名門校だ。

 勤めて3年が経ち、ブランクを乗り越えて昨年春ごろからぼちぼちと楽器演奏のリハビリをした。昨年後半からは、ジャムセッションにも月に一度くらい参加しだした。そんな中で、早稲田のジャズをこれからは楽しんでみたい。

(2007年5月17日掲載)

Copyright (C) 2007 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.
First drafted 2007 May 17.



疎開の記憶


文学学術院教授 野村 雅昭

1943年11月、明治神宮に国民服で七五三参り
▲ 1943年11月、明治神宮に国民服で七五三参り。中央が筆者(数えで5歳)。

 1944年12月。東京では、空襲の被害が大きくなっていた。わたしのうちは、住宅密集地の家屋を破壊する、強制疎開の指定を受けた。母の遠縁の知人を頼り、三重県Y市近郊のO村へ向かった。暗黒の上野駅の地下道に並んで乗り込んだ列車は、信越・北陸本線回りで、直江津・米原を経て、3日がかりで名古屋に到着した。東海地方に大地震があったためである。名古屋で乗り継ぎ、Y市からバスに乗り、4キロの道を歩いて、O村に着いた。疎開は、終戦の翌1946年2月、小学校へ入るために帰京するまで続いた。

 都会育ちのわたしにとって、この村で過ごした1年の生活が自然と触れ合った唯一の経験となった。レンゲの花におおわれた田んぼ。あぜ道わきの清流でのメダカすくい。まだ青い柿を食べて疫痢になったこと。娘が身を投げたという薄暗い森の中の沼。自然とかかわるわたしの思い出は、すべてこの1年の間のことである。

 1999年10月末。わたしは53年ぶりにその村を訪れた。名古屋で学会があったついでに足を向ける気になった。村のほぼ中央にあるA寺の石段の下にタクシーを止めて、山門をくぐった。落ち葉を掃いている婦人に来意を告げた。それならば、母がそのころのことを知っていると思いますと言って、婦人は奥に入った。小高い所にある寺からは、ほぼ村を一望することができる。床屋、医院、小学校、村を巡る川、青くかすんだ山並み。すべて、わたしの記憶の中にある村の風景と同じだった。

 人の気配に振り返ると、上品な白髪の婦人がにこやかに立っていた。当時その寺には、女学校に通っていた美しい姉妹がいたことが記憶にあった。老婦人はその姉であった。わたしの家族のことも、わたしのことも覚えていてくれた。別れ際に、彼女は鐘楼に上がって、わたしが住んでいた家のあたりを指し示した。

 車で3分とかからない所に、わたしのうちはあった。建て替えられてはいたが、配置は昔のままだった。母屋、納屋、外後架。老婦人のことばどおり、白壁の土蔵だけが往時の姿をとどめていた。わたしは15分ほど廃屋の庭にたたずみ、村をあとにした。おそらく再び訪れることはないだろう。これが5歳の記憶についての60余年を経た記録である。

(2007年4月26日掲載)

Copyright (C) 2007 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.
First drafted 2007 April 26.



ドイツ語劇の夕べ


政治経済学術院准教授 生駒 美喜

最後のシーン。3人一緒に“Unerkannt!(それと知れずに)”
▲最後のシーン。3人一緒に “Unerkannt!(それと知れずに)”

 私は学生の時、合唱サークルや学生寮でのさまざまなイベントで、充実した学生生活を送った。私が現在の専門である言語学を志すようになったのも、同じ寮に住むサークルの先輩に大いに触発されたからだ。一つひとつの催しに向けて、友人や先生と協力しながら何かを作り上げていくことは素晴らしい経験になった。その時に一緒に活動した友人、先輩後輩、先生方は今でもかけがえのない財産だ。

 さて、イベントはサークル活動や学生寮だけではない。私が早稲田に来て5年になるが、学生と催しを行うチャンスが初めてめぐってきた。ドイツ語の同僚の岩井方男先生から「学生中心のイベントを企画してみては」と声をかけていただいたことが発端となり、昨年12月に第一弾「クリスマス市@早稲田」(本紙1115号に関連記事既出)、さらに今年3月には、ICC(国際コミュニティセンター)の協力により、「ドイツ語劇の夕べ "Rotkäppchen"(赤ずきんちゃん)」を開催した。

 同僚のツォーベル先生に脚本執筆と演技指導をご快諾いただき、準備はスタート。ドイツ語劇に関心を持ったさまざまな学部・学年の15人ほどの学生が2月の休みの間に集まり、集中的に練習を重ねた。ドイツからの留学生たちも加わり、演技指導や発音指導に熱心に協力してくれた。そしていよいよ本番。出演者一人ひとりが台詞を完全に自分のものにし、大勢の観客の前で見事に堂々とRotkäppchenを演じきった。私はこの完成したRotkäppchenを横で見ながら、あらためて学生たちの持っている力に感動すると同時に、楽しそうに生き生きと演じる学生たちをうらやましくも思った。さらに、こうした活動によって日ごろの勉強や授業への意欲が高まり、ドイツ語の能力が高まれば、教員としても願ってもないことでもある。

 この企画に際して準備段階からご協力いただいたツォーベル先生、岩井先生をはじめとする各学部の先生方、ICCの方々、参加してくれた学生たちと留学生、当日観劇していただいた皆さまにこの場を借りて感謝申し上げたい。なお、今後も学生中心のさまざまなドイツ語関連企画をサポートしたいので、興味ある学生諸君はぜひ連絡をください。
【E-mail】ikoma@waseda.jp

(2007年4月12日掲載  
  2007年4月20日修正)

Copyright (C) 2007 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.
First drafted 2007 April 12.