先輩に乾杯!

“ハイソ”出身のジャズピアニスト&作曲家
  守屋 純子さん


 今回は、本学の伝統あるジャス・サークルを経て、ついにはジャズ界の最高峰ともいえるアメリカの「セロニアス・モンク国際ジャズコンペティション」の作曲部門で、初の東洋人そして初の女性として優勝するという快挙を遂げたジャズピアニスト&作曲家、守屋純子さんにお話を聞いた。


もりや・じゅんこ
 東京都生まれ。第一文学部心理学科卒。在学中は、ビッグバンド「早稲田ハイ・ソサエティー・オーケストラ」に所属、ジャズピアノを弾き始める。卒業後、短いOL生活を経て、約3年間プロのジャズピアニストとして活動した後、ニューヨークにあるマンハッタン音楽院の大学院に留学。昨年末には、米国のセロニアス・モンク国際ジャズコンペティション作曲部門で優勝した曲もカバーした4枚目のCD「PLAYGROUND」(アミューズ)を発表した。
【URL】http://www.mars.dti.ne.jp/~junkomry/

知人の一言から大学のジャズサークルに

 ピアノを始めたのは5歳のころ。ずっとクラシックで育った。大学進学時に音大を受けようと思ったものの、ピアノの先生の「いい音大に入れる保証はない」の一言で断念。自宅に近いという理由もあって受験した早稲田大学第一文学部に合格した。大学時代にこそ「何かをやった」という満足感が欲しかった。ジャズ研、ワセオケ…。ピアノを活かす場所を探す中で行き着いたのが、早稲田ハイ・ソサエティ・オーケストラ(通称ハイソ)だった。

「知人にジャズ好きがいて、『早稲田ならジャズだ』と言われ、ついその気になってしまったんです」。入部当時は、ハイソがどれだけレベルの高いビッグバンドであるかを全く知らなかった。同期に、「ハイソに入りたくて早大に来た」という人までいて、びっくりしてしまう。

先輩から学んだジャズの世界

2年生までは、自分の練習をするだけでなく、先輩の練習を聞き、その後、楽器の後片付けをするのが仕事だった。クラシック出身の守屋さんには、最初、どうやったらジャズが弾けるのかがわからなかったが、伝統あるクラブだけあって先輩たちの指導をみっちり受けることができた。学年が上がるにつれて発表する機会も増え、基礎がきちんと出来ていた守屋さんはやがて頭角を現すことになる。「でもそれは学生の世界のこと。プロになることは考えてもいませんでした」。そこで4年になるとまじめに就職活動をし、大手電器メーカーに就職。「ピアノは仕事の合間に弾けたらいい」と思っていた。しかし男女雇用機会均等法が施行された年でもあり、仕事があまりにも忙しく、週末は体を休めるだけで精一杯だった。「ピアノが弾けない生活が、こんなに苦しいものだなんて初めて知りました」。

プロの世界へ、そしてNYの大学院へ

 2年ほどで会社を辞め、プロのジャズピアニストとして歩き始める。当時はバブル時代全盛期。どこのホテルも女性ピアニストを探していた。またハイソの先輩たちからの紹介もあったので、仕事にあぶれることはなかった。だが3年ほどそういうバブリーな生活を続けているうちに、このまま流されてはならないと思うようになったという。そこでジャズの基礎を学び直すために、思い切ってニューヨークのマンハッタン音楽院ジャズ科の大学院に留学することを決意。渡米した当初は、自分の実力がどの程度だかわからなかったが、教師に「けっこう弾けるじゃない」と言われ、ハイソのレベルの高さを再び実感し、心から感謝したという。

世界的な音楽賞を受賞し、これからもビッグバンドを

 2年間のブランクはあったものの、帰国してからも、ハイソの先輩や仲間のつてで、プロのジャズピアニストとしての仕事にすぐに戻ることができた。次第に編曲や作曲の仕事もするようになっていた。そしてジャズの世界で最も有名なコンクールの作曲部門での優勝を果たす。「やはりその人のオリジナリティーが大切。物まねではすぐに見抜かれてしまいます」。ジャズの主流はアドリブを重視した少人数での演奏だが、アンサンブルの要素が多いビッグバンドにも力を入れている。現在は都内のジャズクラブを中心に活動中。さらに小・中学校でのビッグバンドの指導のほか、音大の講師もしている。「大学時代に培った人の縁ほど大切なものはありません」。早稲田の後輩たちにも、在学中にそういった一生のつながりを育んでほしい、という。

(2007年7月5日掲載)

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First drafted 2007 July 5.