ワセ歴

第6回 大正デモクラシー期の早稲田
 予期せぬ第二次大隈内閣
  ―創立期の卒業生が各界で大活躍・名実共に「大学」に―


 政界を引退して7年を経過していた大隈が1914(大正3)年4月、急きょ二度目の内閣を組織することになった。まさに青天の霹靂である。この年はじめに海軍の汚職事件が勃発し、山本権兵衛内閣が予算案不成立のため総辞職し、後継内閣に貴族院議長徳川家達や枢密院副議長清浦奎吾が推薦されたが実現に至らず、遂に救世主として大隈が元老連に懇請され、大隈贔屓の大正天皇から組閣を命ぜられたのである。大正のはじまりに創立30周年を迎えたばかりで、現役の総長大隈が二度目の首相となった早稲田大学は、沸きに沸く慶祝ムードに包まれた。

 何しろこの時期は、創立期の卒業生たちが40代から50代になってきたころである。彼らは言論界・文壇・政界・経済界や社会運動をはじめとする各界の第一線で幅広く大活躍しており、早稲田の勢力が社会に根を張ってきていた。すなわち、大正デモクラシー期において、早稲田は教授陣の充実・卒業生に対する高い評価などから、社会から最も注目される私学として発展拡充していたのである。

 こうした中で、早稲田の創立以来の悲願であった法的な「大学」としての認知が実現した。これは、1920(大正9)年2月5日に「大学令」(1918年12月6日発布)による「早稲田大学」として、帝国大学・公立大学と法的に同じ存在として認可されたからである。創立以来早稲田の発展に最も貢献した高田は、「大学」認可を迎えて「一般社会は早くから是れ〔慶應大学と早稲田大学〕を真の大学と認めていたのであつて、且総合大学とも認めたのであつた。此の二個の私立大学が、公平な眼で眺めて総合大学と見るべきものであるといふ其事実が、新大学令発布の機運を促した最も強い原因であると、私は認めるのである」と述懐している。高田は、大学黎明期の慶應や早稲田などの私学自身が官尊民卑の荊の中で法的な認知獲得の為に率先して「大学」としての内容充実に懸命に邁進してきた努力と苦闘の歴史的事実の積み重ねの成果である、と強調しているのである。

 こうした中で、早稲田は、法人役員人事をめぐる「早稲田騒動」(1917年)や大学内の学生たちの思想対立の「早稲田大学軍事研究団事件」(1923年)や第一次共産党事件の一環としての学内家宅捜査の「研究室蹂躙事件」(同年)などが次々に勃発すると、その存在ゆえに大々的に報道されてしまうことにもなるのである。


<執筆者>
佐藤 能丸(さとう・よしまる)政治経済学部講師
歴史学(日本近代史・大学文化史)専攻

(2007年7月5日掲載)

Copyright (C) 2007 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.
First drafted 2007 July 5.