ワセ歴

第3回 創立20周年
 早稲田が「大学」になる―独特な「校外生制度」―


 1902(明治35)年9月に東京専門学校は私立学校令による「早稲田大学」と改称し、10月に「早稲田大学開校・東京専門学校創立廿(にじゅう)年」の記念式典が大々的に行われた。この時の規模は大学部(政治経済学科・法学科・文学科)、専門部、高等予科、研究科で、翌年秋に高等師範部(教育学部の前身)が設置され、さらに1904年4月には専門学校令による大学となり、秋には大学部に商科が、05年秋には中国からの留学生を受け入れる清国留学生部が増設されて、総合大学への発展を目指した。

 だが、当時の法的な大学は官立の帝国大学しか設置が許されず、早稲田大学は法的には未だ専門学校令に基づく自称の大学であった。法的に大学となるのは1920(大正9)年2月に大学令(1918年制定)に基づく大学の認可を得るまで待たなければならなかったのである。

 しかし、早稲田は着実に発展していた。その1つの事例として、あまり知られていない早稲田の特筆すべき歴史を紹介しておこう。それは、高田早苗が考案して1886(明治19)年から開始していた「校外生制度」(大学が発行する各学科の教科書雑誌の「講義録」による在宅での学習)という早稲田独特の通信教育制度である。この校外生の延べ数は東京専門学校時代に6万4437名、早稲田大学改称から法的に「大学」となるまでに65万634名、高田の死去した1938(昭和13)年までの累計が驚くことなかれ実に100万人を超えるという盛況ぶりであった。この「校外生制度」は戦後まもなくまで存続した。

 若き日の歴史家津田左右吉・経済学者猪俣津南雄・政治家佐々木更三や田中角栄らは、みな校外生として勉学に励んだ者である(私が大学院生の時、裏磐梯の五色沼で日本社会党の党首になったばかりの佐々木氏夫妻と偶然に遭遇して1時間ほど散索した時、氏は「ワタクスは日大の専門部で勉強したが、別にワセダの講義録で猛勉強したことが今でも忘れられない」と懐かしそうに証言してくれた)。早稲田はしばしば庶民的と称される大学である。だが、その中には、本学がこうした制度により、経済的にあるいは身体的に中・高等教育機関に正規の生徒・学生として入学できなかった全国多数の少青年たちの向学心に貢献した結果、彼らが「自分はワセダの講義録で勉強した」と誇らしげに語っているように、中産階層以下の実に多くの人々の間に「ワセダの心的財産」を持っていたからでもある。


<執筆者>
佐藤 能丸(さとう・よしまる)政治経済学部講師
歴史学(日本近代史・大学文化史)専攻

(2007年5月24日掲載)

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First drafted 2007 May 24.