とっておきの話


2006年度後期掲載分 目次





王宮への招待


商学学術院教授 大谷 孝一

昼食後、プールサイドでくつろぐ理事たち
▲昼食後、プールサイドでくつろぐ理事たち (ラバトのヒルトン・ホテルにて)

 2006年は日本とモロッコが国交を樹立してちょうど50周年目に当たる。マグレブの西端に位置するこのモロッコは3千万人以上の国民のうち、アラブ人が6割、ベルベル人が3割を占める。1956年にフランスから独立した。公用語はアラビア語だが、フランス語も広く使われている。ベルベルとアラブの文化がミックスした実に個性豊な国である。

 1998年5月に、この国のマラケシュで「国際保険法学会」の第10回世界大会が開催された。サハラ砂漠の北に位置するマラケシュは、緑の木々の間に淡いピンクの家々が建ち並ぶ美しい街で、日中は気温が40度以上になるとはいえ、5月の朝は実にすがすがしい。ひんやりとした空気の中で聞く小鳥たちのさえずりも気持ちがいい。街を歩けば、どこからともなく男が現れ、親しげに話しかけてくる。お金や煙草をせびる者もおり、親しみの情を込めて話しかけるのか、何か魂胆があるのか、モロッコ初心者の私には判別がつかない。女性はいつもにこにこと愛想がいい。旧市街の中心ジャマ・エル・フナ広場で、風景写真を撮っていたら、「俺たちを撮っただろう」とすごい剣幕で怒鳴られ、挙句の果てにかなりのお金をせびられて、ふくれっ面で写真を撮った。相手は至極ご満悦の様子であった。

 この第10回世界大会の総会で、私は東洋人としてただ一人の理事に選出されたが、この大会期間中、一般会員をマラケシュに残し、研究会や部会の作業を中断して、20数名の理事だけがマラケシュから5百キロほど離れた首都ラバトの王宮に招待された。百数十人乗りのボーイング737型機をチャーターしてラバトに向かい、ヒルトン・ホテルで昼食を取った後、王宮へ。軍隊に守られた白亜の王宮の長い廊下を歩いて大広間へ。そこには、既に国王のハッサン2世が待っておられた。フランス・ボルドー大学法学部卒業の国王は、流暢なフランス語で我々を歓待してくださり、モロッコの保険事情や世界の保険法について語られた。熱いミント・ティーと盛りだくさんのお菓子を頂き、一人ひとり国王と握手を交わして、1時間後に王宮を後に、マラケシュへの帰途についた。国王は1999年7月に逝去され、今はシディ・モハメド皇太子がモハメド6世として国王位についている。

(2007年1月18日掲載)

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First drafted 2007 January 18.



映画『フラガール』で蘇った記憶


社会科学総合学術院教授 成富 正信

坑道内の様子
▲坑道内の様子。奥では天井の鉄骨が割れていた(写真がないのでイラストで再現)

 私の好きなジェイク・シマブクロというウクレレ奏者が、映画『フラガール』の音楽担当と知り、「ハワイブームの便乗映画だろう」と思いつつ予告を見たら、まるで違っていた。それは、40年前、常磐炭鉱閉山に直面した労働者とその家族が、「炭鉱のまちにハワイを」という大事業に立ち上がる姿を描く映画だった。それを知った時、ある記憶が蘇ってきた。

 私が大学院に進学したのは1973年で、フィールドワークに憧れ農村社会学が専門の故外木典夫先生を師と仰いだ。ある日先生から、「今からいわき市まで調査の打ち合わせに行こう」と突然言われ、一緒に車で出かけた。着いた所が「常磐ハワイアンセンター」だった。「炭鉱の人たちとは『炭砿と地域社会』という研究をして以来の付き合いで、センターの目玉のハワイアンショーの踊り手はその娘さんたちだ」という話は車中で聞かされた。「炭鉱娘とフラダンス」とは「不思議な取り合わせだな」と思いつつショーを見たことを覚えている。

 その後、研究チームが組まれ、炭鉱離職者に関する調査が行われた。当時石炭採掘はわずかに残った「西部鉱」で続けられていた。どういう経緯か忘れたが、先生と私、それに先生の授業を聴講していた佐藤正志君(現政治経済学術院教授)の3人で、「西部鉱」に潜らせてもらうことになった。45分間だけもつ酸素マスクとライト付ヘルメットを渡され、事故が起きたときの自己責任の念書を書き、地下600mまで堅坑を鉄篭のようなリフトで降りた。坑道内はトロッコで移動したが、広かった坑道がどんどん狭くなり、壁を支える鉄の骨組みの天井部分が逆八の字に割れていて驚くと、「地圧で押されるからです」と事も無げに説明された。坑道先端の切羽(採掘現場)では、暗がりを照らすライトの中で、炭鉱夫の人たちが弁当を食べていた。所々温泉が噴出する坑内は「昔は褌一丁で働いたほど暑い」と聞いていたが、冷房が効いていたのか意外に涼しかった。帰りに「そのうち価値がでるよ」と言われ、石炭の塊を土産にもらった。「地底世界」での不思議体験だった。

(2006年12月7日掲載)

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First drafted 2006 December 7.



教師の業


人間科学学術院教授 河西 宏祐

第1回オール河西ゼミ集会
第1回オール河西ゼミ集会 (2006年1月21日。一度に入りきらないので二度に分けて、はいチーズ)
第1回オール河西ゼミ集会

  ワセダに赴任して約10年になる。この間のゼミ卒業生は150人近くになった。今年の1月には第1回「オール河西ゼミ集会」をもった。東京は珍しいほどの大雪でホワイトパーティになったが、各地からたくさんの卒業生が駆け付けてくれた。

 働く者にとって厳しいこの時代、それぞれに荒波の中で懸命にオールを漕いでいる。行く末に幸多かれと想いを馳せつつ150枚近くの卒業生ファイルを繰ってみる。それぞれに想いが詰まっている。

 就活の際には、この仕事はどう? などと、こちらから学生に勧めたりはしないことにしている。だが、時折その禁を破ることがある。

 ある学生の場合。人生を真剣に考えようとしていた。ただし爽やかに。3年ゼミ論文では「人生いかに生きるべきか」といった研究テーマで書いた。私のゼミは産業職業社会学ゼミなのだが、まあよかろうと認めた。何人かの修道尼にインタビュー調査を行って書いた。本人もその道を考えているかに見えた。

 4年の就活の時期になって、進路について多少迷っているような憂い顔を見せた。「アナウンサー試験を受けてみたら」と勧めてみた。最近のタレント的女子アナとは違ったタイプのアナウンサーになるだろうとの確信が、私にはあった。

 何の準備もしていませんが…と本人は戸惑っていた。もちろんアナウンサー学校などには無縁だった。いいから受けてごらん、そう背中を押した。就活は人柄だ、私のそんな確信が当たった。

 今、あるテレビ局でニュースキャスターとして活躍している。画面で一度だけ見たことがある。初々しく凛々しく、一生懸命だった。思わず目頭が熱くなった。

 それにしても修道院に入ったかもしれない学生を、生き馬の目を抜くテレビの世界に送り込んでしまった。これで良かったのだろうか、との思いが今も消えない。とはいえ、あの時勧めなかったら、それはそれとして悔いが残ったことだろう。

 ゼミ卒業生ファイルの中から1枚を上に抜き出してみた。年々、持ち重りのするファイルが増えていく。教師というものの業である。

(2006年11月16日掲載)

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First drafted 2006 November 16.



健ちゃんの思い出


国際教養学術院客員教授 沈 元燮

2年前、冬の奥多摩湖にて
▲2年前、冬の奥多摩湖にて

  1980年代の後半、私は東京のある大学の交換留学生だった。大学寮で生活していたが、隣の部屋に高倉健さんによく似た、長身で、たくましく、慶尚道(韓国の東南部)のなまりがひどい韓国人学生が1人いた。夕食時になると、スプーンとお椀1つだけを持って私の部屋にぬっと襲ってきたり、私の部屋に自由に出入りしたりする、見事な習慣があった。年上の私をヤクザ映画の兄貴のように慕いながらも、自分の別荘の管理人扱いもする彼の笑顔の前で、私のか細いプライバシーなどは粉々に破壊されてしまうのであった。

 そんな健ちゃんにも悩みがあった。某国籍の可愛い女子学生(Aさん)に片思いをしていたのだ。しかし彼は、彼女の好みではなかったようであった。健ちゃんの切ない片思いの話はやがて寮中に広まっていった。夏休みに入り、健ちゃんが韓国に一時帰国を控えていたある日に事件は起こった。

 健ちゃんはこの日の夜、窓を開け放してギターを弾き、『大阪で生まれた女』など日本の古い演歌を1時間以上も熱唱したのだ。それは寮の上の階に住んでいる彼女に寄せる最後のメッセージだった。あまりに絶望的ですさまじい最後の通達のような深夜の歌を、寮のみんなが息を殺して聞いていたのは言うまでもない。

 この深夜のプロポーズは散々な結果で幕を閉じた。健ちゃんが韓国に行っていた1カ月余りの間に、健ちゃんの後輩でとても優しい性格の韓国人学生B君とAさんが付き合い始めたのだ。私をはじめ、健ちゃんを知っている人は皆、この話を聞いて激怒した。

 しかし、秋に東京へと戻ってきた健ちゃんは、この知らせを聞いても動じることはなかった。さすが高倉健と呼ばれてしかるべき人だった。およそ1年後にB君とAさんは別れ、これが原因で彼女は帰国したのだと聞いた。

 健ちゃんとB君は、その2、3年後にソウルで会ったことがある。2人はとても親しい間柄のように見えた。多分、健ちゃんもB君もAさんも、今では2人の子どもを抱える父親、母親にでもなっているだろう。みんなアジアのどこかでこの綺麗な秋空を仰ぎ見ているのであろう。

 ではなぜこれがとっておきの話なのか、と? 実はそのAさん、私もこっそりと片思いをしていたからだ。健ちゃんとB君には絶対言えなかった話、20年目の告白だ。

(2006年11月2日掲載)

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First drafted 2006 November 2.



学生サークルの思い出


教育・総合科学学術院教授 佐久間 弘展

1977年、大学1年。キャンパス内にて
▲ 1977年、大学1年。キャンパス内にて

 「早稲田の面白さは、サークル活動にある」。学生時代に内外から聞こえていた声である。就活面接で出身学部を問われ、間違ってサークル名を言い、失笑を買う学生が多くいたほどだ。咄嗟時の応答は、講義に参加せずサークルで時間をつぶした日常が反映される。

  入学後私は出版業を営んでいた叔父の影響もあって、マスコミ関係のサークルを探した。そのころ私の将来の希望職種の一つもマスコミであった。英字新聞会ザ・ワセダ・ガーディアンを選んだのは、私の横文字好きとサークルのノンポリ性にあった。

  早稲田らしい通過儀礼は、新歓コンパでも、4月末の御岳山での春合宿でもなく、5月末の早慶戦前夜の神宮での泊り込みであった。球場外でゴザをしいて夜営する新入生のもとに先輩がやってきて、酒を飲んで徹夜させられれば、翌日の応援どころではなかった。 実際の活動は、年4回新聞を発行できれば良いほうだった。今は存在しない学生会館1号館のサークル室では、マージャンの面子を待って授業をサボり、漫画を読み耽っている連中も必ずいた。そんな輩に限って、酒を飲めば「真実に蓋はできない」などとジャーナリズムを熱く語った。

  大学3年の時、財政難を何とかしようと受験生相手の雑誌をつくり、合格発表の傍らで近くの予備校が宣伝用にする解答速報とともに販売することにした。その年、解答速報を見たサークルの二人が驚いた。自分たちが某塾のアルバイトで解いた問題とそっくりだというのだ。慌てた一人は、直ちに大学本部に連絡した。こうして、その年のある学部の入試漏洩事件が発覚した。

  毎年恒例の野尻湖夏合宿では、タイピングコンテストが楽しみだった。今もパソコン・キーボード操作が速いのは、その当時タイプライターを速く打つ練習をしたからにほかならない。勉強合間のボート遊びや戸隠山登山なども楽しかった。そのころ学んだ、AとBと二つの収斂させた意見を対立させて提示し、事の本質を問うという記事の書き方や、どんな権威も疑ってみてまずは自分でレビューしてみるというやり方は、今の私の研究姿勢にも役立っている。

  懐かしい思い出の数々である。早稲田大学の良さの一つは、今も多彩なサークル活動の面白さ、学生パワーにあると私は思っている。

(2006年10月19日掲載)

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First drafted 2006 October 19.



テレビアニメ第一世代


文学学術院教授 堀内 正規

大学時代に作ったアニメ同人誌
▲ 大学時代に作ったアニメ同人誌

 「テレビアニメ第一世代」というものがあるとしたら、自分がそうだと思う。日本初の毎週放送の30分番組『鉄腕アトム』が始まったのが1963年1月。前年の5月生まれの僕には、物心ついた時から「アニメ」があった。中学生になり『ヤマト』ブームに促されて、高校では立派な今でいう「アニメ・オタク」だった。『風の谷のナウシカ』が作られるよりはるか以前から宮崎駿は神様同然だったが、僕には『家なき子』や『宝島』の監督・出崎統こそ「人生の師」のような存在だった。だいじなことを、アニメで学んだ。

  早稲田大学では「アニメーション同好会」に入り、3年のときには会長も務めた。(今はそのサークルの部長だ。)先輩同輩の中には、アニメの監督をしている者たちやアニメ業界では知らぬ者とてない、生き字引のようなフリー編集者もいる。まだ晴海で行われていたころのコミケに、『アニコムZ』という同人誌で、出崎さんの『ガンバの冒険』の特集号と「出崎統特集号」を出した。憧れの出崎さんにインタビューもした。好評で、初版はあっという間に売れ、増刷した。今考えても、そのときの、何かを「研究」し、その反響を確実に受けとるという経験が、現在まがりなりにもアメリカ文学研究などに携わっている原点になったと思える。友人たち同様、僕の人生も「アニメ」で変わったのだ。

  「出崎統特集号」のあとがきで、22歳の僕は「アニメを見て感動しては充実するような生き方は、実は貧しいものなのではないか」と書いた。一種の自己批判。それから22年経った。その間、「オタク」は幼女連続殺人犯のM君(僕と同い年)とともに忌み嫌われ、今やアキバ系とともに社会に公認された。今のテレビアニメを僕はほとんど見ない。今年7月末の「オープンキャンパス」の模擬講義で、文学にしかできない領域とは何かについて話しながら、高畑勲の『赤毛のアン』の一シーンを大教室で見せた。マシュウの死に対する戸惑いを感じるアンの姿。「僕がちょうど君たちの年ごろ(18歳)に熱心に見て、感動していたんですよ」と受験生に語りかけながら、自分があれからどれほど離れた地点にいるのかを、考えていた。

(2006年10月5日掲載)

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First drafted 2006 October 5.