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研究最前線
 占領下の東京を通して「今」を見る
 〜首都東京に突如として出現した異文化空間〜


佐藤洋一芸術学校空間映像科客員助教授
佐藤洋一(さとう・よういち)芸術学校空間映像科客員助教授
 1966年東京生まれ。90年早稲田大学理工学部建築学科卒業。95年理工学研究科博士課程修了(工学博士)。同大学理工学部助手、理工学総合研究センター客員講師を経て、現在芸術学校空間映像科客員助教授。専門は都市形成史、都市映像史。編著に『職人の居るところ』(トランスアート)、共著に『黒澤明をめぐる12人の狂詩曲』(早稲田大学出版部)など。現在、台東区が所蔵している数10万枚の写真の整理分類も手がけている。
『占領下の東京』
▲『占領下の東京』河出書房新社刊(1,600円、税別)

  戦後の日本の都市は、戦争によるダメージから復興していくが、その復興期は「占領期」という特殊な時代でもあった。それは敗戦国日本が、戦勝国である連合国の占領軍とその家族を無条件に受け入れざるを得なかった時代でもあり、その結果、日本の中に突如として「異国」が出現した時代でもあった。

 実はこの時代に注目することで、現在の東京の性格がおぼろげながら見えてくるという。このたび『図説 占領下の東京』を上梓した本学芸術学校空間映像科客員助教授の佐藤洋一先生に、占領期の東京について伺った。

破壊と接収で姿を変えて 行った戦後の東京

  いうまでもなく、戦争から敗戦を経て、東京はその姿を大きく変えていった。まずは、米国空軍B29の空襲による市街地の破壊。そして戦後に行われた連合国軍による「接収」のためである。

 接収とは、無条件に土地や建物を占領軍が差し押さえること。進駐軍が発行するわずか一枚の要求書に従って、土地や建物を占領軍に供出しなければならなかった。そのため接収によって日本人が立ち入ることのできない地域が、東京だけでなく全国各地に生まれることとなった。

 「東京の接収地の多くは、広い敷地が確保されていたかつての軍用地でした。また建物の接収は、丸の内などの中心部の戦災を免れたビルにとどまらず、後に軍人が呼び寄せた家族を住まわせる一般の民家なども含まれていました」

衛生調査で多数撮影されたバラック家屋
▲衛生調査で多数撮影されたバラック家屋(昭和22年10月28日)
有楽町前の露店群
▲有楽町前の露店群(昭和22年7月23日)
銀座4丁目交差点の三越前に「タイムズ・スクエア」の看板を掲げる兵士
▲銀座4丁目交差点の三越前に「タイムズ・スクエア」の看板を掲げる兵士。この看板は、当時のニューヨーク市長ラガーディア氏によって同市出身の兵士に託されたもの
GHQ司令部があった第一生命ビル
▲GHQ司令部があった第一生命ビル。クリスマスの飾り付けが目を引く (昭和20年12月23日)
ワシントン・ハイツ住宅地区
▲ワシントン・ハイツ住宅地区。隣接する緑は明治神宮(昭和27年6月5日)

 それでは、実際に占領軍はどれだけの数の軍人や軍属(軍人ではないが、軍に所属する技師や文官のこと)を日本に駐留させていたのだろうか。昭和21年2月時点では、東京だけでも4万5千人余り、日本全体では41万7千人を超えていたという。

 これだけの人数の軍人・軍属が働く場所とその住まい、病院、教会、購買部やレクリエーション施設などを確保するために、都心部で焼け残った主要なビル、そして主な空き地はほとんど接収された。

 有名なのは、GHQ/SCAP(総司令部/連合国軍最高司令官)の本部が置かれていた第一生命ビルだろう。また、同じ丸ノ内にある有楽ビルは士官用の、東京海上ビルは婦人軍属のための宿舎となった。東京會舘、明治生命ビル、内外ビル、日本郵船ビルなどの主要な建物だけでなく、聖路加病院なども接収を受けた。

写真に生活の 息吹を吹き込む作業

 佐藤先生の本には約250枚の写真が掲載されている。写真はある一瞬の出来事を切り取ってくれる。しかしそれはあくまで表面的なものでしかない。その裏に秘められている人間の営みという当時の息吹きを写真に吹き込むためには、資料や人々の証言との重ね合わせをする一種の肉付けの作業が必要である。佐藤先生は、それを米軍が制作した「シティ・マップ・オブ・セントラル・トウキョウ」や写真に添付されている写真説明、また当時発行された命令書等に求めた。中でも昭和22年にGHQが制作したバスの路線図「トウキョウ・シティ・バス・ルート」は大いに役に立ったという。

 20以上あった路線のうち、同書では次の2つのルートが取り上げられている。日比谷帝国生命ビルから出発し、Aアベニュー(内堀通り)など丸の内を中心に東京を巡回する「ビジネス・ループ」と、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれた市ヶ谷の旧陸軍省から日本橋の旧白木屋百貨店に向かって皇居を北回りする「ルートN」。いずれのルート沿いにもアメリカに接収された建物が立ち並んでいた。「それは日本でありながらも、あたかも『小さなアメリカ』の様相を呈していたはずです」と佐藤先生は指摘する。

現在も残る当時の住宅

 軍人が家族を呼び寄せるようになると、家族向けの住宅や学校、日用品を扱う店舗、パン工場、教会なども必要になってくる。そこで作られたのが、「ディペンデント・ハウジング・エリア」。つまりは占領軍家族住宅地区である。

 東京には主だったものでも、市ヶ谷の旧陸軍省を改造したパレス・ハイツ、赤坂見附近くのジェファーソン・ハイツ、代々木のワシントン・ハイツなどがあった。こういった住宅地区は、日本政府の終戦処理費を使って造られた。資材不足だった当時の日本では到底考えられないような規模の建設工事だったという。

 つまり、フェンス内では広い庭を持ち、給湯設備や上下水道が完備されたアメリカ風住宅が建設され、その外にはバラック生活を余儀なくされた庶民の暮らしが存在するという二面性が東京に出現したことになる。「それは、占領期の最も特徴的な風景を形作っていたといえます」。

 こういった占領軍家族住宅地区は、やがて接収を解かれ日本に返還されるが、その広い敷地は、経済成長期に次々とランドマーク的な建物が建設される地となっていった。ジェファーソン・ハイツの跡地には今、現在の衆議院・参議院議長公邸が建てられた。パレス・ハイツ跡には今、最高裁判所と国立劇場、国立演芸場が立っている。代々木のワシントン・ハイツは現在、代々木公園、NHK、渋谷公会堂となっているが、東京オリンピック開催に伴い、昭和39年にようやく日本に返還された。その参宮橋寄りにあった鉄筋アパートは、オリンピック選手村用に改造され、現在は「オリンピック記念国立青少年総合センター」となっている。

寄せられる証言から さらに研究を

 佐藤先生の『占領下の東京』には、一枚の私的な写真が掲載されている。その写真とは、「スギモト」という文字が描かれた店の前で撮影された、ある家族の記念写真である。店の店主は佐藤先生の祖父。かざり職人として、戦後、占領軍関係者から指輪の注文を受けたり、時計の修理を依頼されたりしていたという。一枚の写真のフレームの背後にある時代と都市空間を知ることで、単なる懐かしい写真が都市論的な読み取りの手がかりを示すことがわかった、と佐藤先生はいう。

 事実、この書籍が出版されてから、当時を知る多くの読者から占領期についてのさまざまな情報が寄せられているとのこと。実際にインタビューをした人もいる。そういった生きた証言を集め、今ある占領軍の史料と重ね合わせることで、「占領期」という特殊な時代をさらに浮き彫りにして、「戦後」のもっている重層的な意味を考えてみたい、という。

 「この本の続編では占領期の東京の市井に現れてすぐに姿を消していったものに光をあて、写真と証言とで、再発見していきます」と佐藤先生はいう。そこにはバラック、闇市、水上生活者など、戦中、戦後の厳しい日常を生き抜いてきた庶民の姿が浮かび上がってくるに違いない。

(2006年11月9日掲載)

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First drafted 2006 November 9.