とっておきの話


2006年度前期掲載分 目次





学生気分


社会科学総合学術院教授 中野 忠

ローマ帝国時代のケルスス図書館(エフェソス)の前で
▲ ローマ帝国時代のケルスス図書館(エフェソス)の前で

 このコラムにふさわしい最近の面白いネタはと考えてみたが、自宅と研究室を行き来する毎日の私には、とんと思い浮かばない。いつも忙しげな私をみて、先日、同僚の一人は「学生気分が抜けてないね」と苦笑していた。確かに、研究室で一日の大半をアクセク過ごす研究室オタク化の傾向は、近年とくにひどくなってきている。3年前、社会史、経済史の研究のためイギリスに滞在していたときも、大学、図書館と自宅の行き来でほとんど終わってしまった。唯一の息抜きといえば、ヨーロッパ文明の境界まで足を伸ばす旅行ぐらい。写真はそのひとつ、トルコのエフェソスを訪れたときのものである(これも図書館かよ!)。しかし結局、旅から帰ればまたオタクに戻ってしまう。

  私がオタク化している理由の一つは明らかに、次々に現れる新しい研究を追っかけているからである。確かに、研究職について四半世紀以上も経つのだから、今さら新しいものを追うよりも、別にやるべきことがありそうな気もする。だがその一方で、最近とくに、昔教わった先生のことを思い出す。一人は本学の政経学部の教授でイギリス経済史研究の泰斗であられた小松芳喬先生である。私が慶應の大学院で講義を受けたころは、先生はすでに還暦を過ぎていらしたはずだが、講義内容はそれまでのご自身の業績の解説ではなく、当時の最先端分野、人口史、計量経済史などに関するものだった。先生は研究領域の新しい展開にいつまでも生き生きとした関心を寄せておられたのである。もう一人は、人口史の速水融先生。先生からはつい最近、『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店)という本が送られてきた。現代的なテーマを、それまでの先生の研究スタイルとは違ったやり方で論じた500ページ近い大著である。先生は確か80歳に近いお年のはず。そのお年でこんな大仕事をなさったら、われわれ後輩はどうしたらいいの。土台比較するのが無理ということは十分分かった上で言うのだが、こういう大先生を思い出すたびに、「学生気分」を卒業するのはもう少し後にしてオタクを続けよう、と思わざるを得ない今日このごろなのです。

(2006年7月20日掲載)

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First drafted 2006 July 20.



早稲田校友のネットワーク


理工学術院教授 小松 尚久

素晴らしい校友のネットワークが存在することを知っていますか

 2001年9月11日、当時私は理工学部の学生担当教務副主任を務めていた。帰宅後、翌日の講演で利用するスライドの準備を進めていたところ、午後11時ごろだったであろうか、米国世界貿易センタービルに航空機が衝突したショッキングな場面が放映された。

  翌朝、本学部の学生が事故に巻き込まれたらしいという連絡があり、学部長室に急いだ。情報が錯綜する中、事もあろうに理工学部の学生6人が墜落したUA93便の搭乗予約リストに記載されているとの連絡も含まれていた。ぼうぜんと話を聞いていたが、その後、搭乗者は1人であったという新たな情報で我に返った。搭乗した1人の学生は残念ながら帰らぬ人となった。断腸の思いであった。

  残りの5人はどこに…。混乱状態となった米国の状況を想像しつつ、なすすべもなく時間が過ぎた。

  13日の夕刻、5人は1人の友人とあいにく合流できずに予定を変更して難を逃れ、ボストンにいるということが判明した。しかしながら、連絡が取れない彼らをどのように捜して、帰国させれば良いのか、案は浮かばない。議論を重ねた結果、事務部長のご意見により、ボストン在住の校友にお願いすることにした。ボストン稲門会にはほどなくして連絡が取れ、状況を説明し、学生の保護を依頼した。そして、校友の方々に学生を確保していただき、さらにはご自宅に滞在させていただいたのである。それまで、稲門会の絆がここまで強いものであるとは思いも寄らなかった。その後、学生は西海岸の校友にもお世話になり、無事帰国の途に着いた。母校が輩出した多くの校友の真摯な行動に心から感謝し、また自分もそうあらねばと強く感じた。

  さて、翌日の12日に行われた私の講演であるが、生体認証技術に関する内容であり、また同会場でアジア各国が共催するABW(Asian Biometrics Workshop)の初回会合が開催された。生体認証はその後、ユビキタスセキュリティを担うとともに、9・11テロも引き金となって国防のキーテクノロジーとしても有用性が注目され、ISOにおいて国際標準化に向けた議論が開始された。標準化の議論に参加するたびに、忌まわしいテロ行為に憤りを覚え、また学生を守ってくれた校友の方々への敬意を新たにする。

(2006年7月6日掲載)

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見知らぬ土地で人々に出会う


理工学術院教授・建築家 古谷 誠章


 建築家という仕事は、敷地に建築を建てるものだから、自分の足で何度となくその土地を訪れることになる。ほとんどの場合それまでの自分にとっては未知の場所で、比較的短い時間でその場所の特性や気候風土、周辺の人々の暮らし方などを見極めなくてはならない。それが外国であったらなおさらである。僕の研究室では大学院生や卒業論文の学生たちと、よくアジアの高密度都市や伝統的な集落での人々の生活空間を調査しているが、そんなときに必要とされるのが、素早く観察できる注意力と、見たものを深く洞察する能力だ。しかし未知の場所の本質を見抜く、つまり知らないものを知るためには、情報を収集する力に加えて、豊かな感受性と想像力を持ち合わせていなければならない。

  あるときタイのバンコクで、列に並んでバスを待っている人々に出会った。あれ変だな、僕の知っているタイの人たちは束縛が嫌いで、絶対に整列乗車なんかするはずがない人たちなんだがなァ、と思ってよく見ると、何のことはない、この人たちはただ、バス停脇の一本の細い木の影に沿って並んでいたのである。暑い日差しをよけていたら自然とこうなってしまっただけなのだ。効果はてきめん、これから夏にかけて、皆さんも信号を待つ間に電信柱の影にでも入ってみるとすぐ判る。しかし、ここに物事のある本質が隠されている。バス停が暑いからと言ってここにガラス張りのシェルターでも作って、おまけにエアコンでもかけたらどうなるだろう。その周りはますます暑くなってしまうし、第一経費もかかってしかたがない。たった一本の木の影に自分の方が入れば、まったくエネルギーを無駄にしないで済むのだ。自己の身体と周囲の環境との間に不調和があったとき、それを解決するには、環境の方を自分に合わせて作り替える方法と、自分の方が環境に合わせて順応する方法と、常にその両方がある。もちろんその中間のアイデアも無数にあるだろう。

  おもしろいことに、生活空間を快適なものにするアイデアは、いつもその土地の人の方が優れているとも限らない。あまりにもどっぷりとその環境に浸っていないよそ者の岡目八目と言うこともある。だからこそ、よそからはるばる建築家が出かけていく意義もあるのだ。

(2006年6月22日掲載)

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First drafted 2006 June 22.



アーミッシュの村


国際教養学術院教授 安吉 逸季

>売店の陳列棚の人形
売店の陳列棚の人形:目鼻などがない顔が印象的

 オハイオ州の大学で教えていたときに、同僚からアーミッシュの友人がいるが、関心があるかと聞かれた。アーミッシュについては、宗教上自動車も電気も使わない生活をしているという程度の知識しかなかったが、路上をバギーという馬車を走らせるアーミッシュの光景にもなじんでいたので、興味がそそられた。

  アーミッシュの村でオークションが開かれるということで、同僚夫妻と一緒に出かけた。集会場は、いわば村祭りのにぎわいで、談笑する人々の中で一緒に昼食を取った。女性は、髪を束ねた上に白いオーガンディのキャップをかぶり、白や水色またピンクで無地のワンピースを着ており、男性は、あごひげを生やし、つばの広い黒い帽子をかぶり、サスペンダー付の黒いズボンをはいていた。

  キルトや木工製品のオークションが始まると集会は最高潮に達した。アーミッシュの生活はすべて信仰と結びついていて、そこへ持ち寄る製品の売り上げは、教会に寄付される。外の人を「イングリッシュ」と呼び、外界との交流の少ないアーミッシュであるから、その内部に入ることは容易ではない。同僚の教授は南米出身で、20年をかけてアーミッシュとの信頼関係を築いたのだと聞いた。

  集会後、店に立ち寄ったが、陳列棚上の人形の顔には目鼻が描かれていなかった。宗教上の理由からである。招待されたアーミッシュの家に行くと、聞いていたとおり電気はなかったが、冷蔵庫はあった。ガスで稼動するもので、家具作りを職とする主人から、同様の鋸も見せてもらった。暑い夏には、寝室を地下に移すと聞いた。電気がないのは、太陽とともに起き、陽が沈めば休むという自然のリズムに従うという意味だけではなく、テレビやラジオという文明の利器が信仰や共同社会の人間関係に少なからずの影響を与えると考えられたからである。日本では子供部屋にもテレビがあり、希薄な親子間のコミュニケーションが問題になっており、コミュニティーの崩壊も起きている。アーミッシュの生活を実際に見て、美化することはないが、現代の私たちの生き方について深く考えさせられた。


オークション会場に集う老若男女
▲ オークション会場に集う老若男女

(2006年6月8日掲載)

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これが駅の売店??


社会科学総合学術院教授 野口 智雄

エキュート大宮にて
▲ エキュート大宮にて

 「エキナカ」や「エチカ」という言葉を知っているだろうか。前者は主に、JR駅の構内にオシャレな飲食・物販店やサービス・テナントを開いた都市型商業集積である。品川や大宮にあるエキュートが有名だ。後者は、東京メトロで展開される同種の地下版である。エチカ表参道は大人気である。

  鉄道各社は、少子化・団塊世代の定年による定期利用人口の減少、レジャーの多様化による旅客需要の減少等による収益の先細りに対処するため、輸送収入以外の収益獲得の問題に直面している。その一つの解答が「エキナカ」、「エチカ」なのである。

  ともかく駅構内および駅ビルなどの瀟洒なたたずまいをみると、隔世の感を覚える。かつて、駅の商業施設といえばホーム上の売店、立ち食いそば屋、書店などが定番だった。それが今では、オシャレなカフェやレストラン、高級スーパー、コンビニ、ドラッグストア、マッサージ店、理髪店、さらには託児所や英会話スクールにまでバリエーションが広がっている。

  この駅中心ビジネスで印象深いのは、ニューヨークのグランドセントラル・マーケットだ。セントラルパークの南、ミッドタウンの東側にある交通の要衝グランドセントラル駅には、約百店のショップやレストランが集まるショッピングセンターが構築されている。ここにはプロバスケットボールのスーパースターだったマイケルジョーダンが経営する「Michael Jordan's The Steak House」や、90年以上前から営業し、30種類以上の新鮮な生牡蠣を常時そろえる有名な「Oyster Bar」がある。

  こんな中にある食料品店の集積がグランドセントラル・マーケットだ。ここでは青果物、シーフード、チーズ、パンなどを扱う、本格的な品ぞろえを誇る専門店が14、5店軒を連ねる。無論、価格も相場より高い。だが例えば、スパイス専門店である「Adriana's Caravan」は香辛料だけで400種類以上をそろえ、"Every Ingre-dient for Every Recipe You've Ever Read"(お客様が今まで見てきたすべてのレシピのためのすべての材料があります)と自負する。つまりここは本格グルメのニーズを満たす「目的買いの店」なのだ。“駅”においてもこの店舗。さすがアメリカと脱帽した。

(2006年5月25日掲載)

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移ろう民とことば、そして布哇島


人間科学学術院教授 森本 豊富

授業風景
▲ ハワイ語イマージョン幼稚園'Aha Punana Leo o Hiloでの授業風景。

 「移民」ということばが「移ろう民」という意味であるとしたら、私自身も移民であるのかもしれない。小さなころから転居を繰り返し、東京から始まって宮城、兵庫、熊本、新潟、奈良、大阪などを転々とし、5つの小学校で学んだ。また、成人してから海外に10年ほど住んでいた。そんな自分の生い立ちからか、環境の変化に即応できる反面、変化のない生活にはすぐに飽きてしまう性格が形成された。そして、個人的な関心は人の移動と、そのことによって生じることばや文化の変化に向いていった。

  ここ3年ほど、ハワイの言語と文化の復興に興味があって、ハワイ島ヒロのイマージョンプログラムをほぼ半年おきに観察している。生まれて3週間足らずの幼児から大学院生まで、すべてハワイ語で教育を受けるプログラムである。子どもたちの家庭で使われている言語はほとんどの場合、英語であるが、親も含めてハワイ語環境を構築する試みが進められている。また、小学生から日本語が教えられ、廊下ですれ違う子どもたちに「森本先生、こんにちは」と笑顔で声をかけられると、とても幸せな気分になる。また、最近では、小学校の1年生から6年生までを対象に漢字を使ってハワイ語を教えるという実験的なカリキュラムも実施されていて、訪れるたびに新たな局面が見え、飽き性の私をまったく退屈させることがない。

  ハワイは言うまでもなく日本人に大変親しみのある島嶼群である。戦前から多くの日本人が移民として渡り、ハワイを布哇と表記した。前からいたハワイ人は「Hawai‘i」と綴る。原音に近いカタカナで表せば「ハワイッイ」であり、「i」と「i」の間に入る記号(‘)は「‘okina」と呼ばれ、喉にすこしつまる声門閉鎖音を示す。異郷に移り住んだ人々が交わり、ことばが変化し、そして復興が起こっている島が「the Big Island of Hawai‘i」であり布哇島である。そのダイナミズムと先進性に魅せられて、布哇島通いはしばらく続きそうだ。

(2006年5月11日掲載)

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First drafted 2006 May 11.



議長はつらいよ


国際情報通信研究科教授 松本 充司

副議長席にて作業部会報告中の筆者
▲ 副議長席にて作業部会報告中の筆者

 ITU(国際電気通信連合)の国際会議では、通常議長から指名をもらってから発言する。この時発言者は議長に対して指名に対する感謝の意を込めて「Thank you Mr. chairman」で始める。発言の終了時にも再度使用する。この決まり文句は、国連標準の国際会議における公用語に限られており、その後に続く発言が何語になるのかの合図でもある。

  私が初めて国際会議に出席したのは1979年のことであった。5年後に分科会の議長を担当するようになってから、国際会議の議長が想定外の苦労を伴うものであることを体験することになった。

  あるテーマで米国とドイツの間で論争が起こり、意見の一致がみられず延々と議論が続いた。金曜日の夕刻まで会議を延長した時、英国の代表から「議長、私は5時に妻をロビーに待たせている。今夜レストランの約束があり、妻を合意させる方が大変だ。直ちに会議をやめてくれ」と発言があった。すると激しく議論していた代表同士を含め、出席者全員が拍手でその提案に賛成したのである。当時私はworkaholic時代の日本人として仕事熱心を示し、時間をオーバーしてでもまとめようと考えたのだが、逆に“議事がへただ”と思われたようである。

  そんな私にあるベテランの米国人議長が“コツ”を伝授してくれた。「ミツジ、会議は生き物なので、議長は笑顔を絶やさず、冗談をまじえ、会議が凍らないように雰囲気を作ることが必要だよ。適度にブレイクをとり、リフレッシュし、会議を時間内に終えることが重要だね」。彼の効果的なアドバイスのおかげで私は議長をクビにされずに済んだ。

  また、会議は「知的戦争」でもある。議長は着地点を探し、議論を収拾することが手腕であるが、着地点が見当たらない時は、「発言疲れで一瞬議論が止まる時を見計らって暫定的な議長案を示し『Any objection? Thank you. It was agreed』と決めればよい。皆が後で合意点の矛盾に気が付いたら、来年の会議でまたやればよい」。これも米国人議長が教えてくれた応用編である。ただ、これは相当な高等戦術で、このアメリカ流のテクニックを小心な私はまだ使えないでいる。

(2006年4月20日掲載)

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First drafted 2006 April 20.



語学はハートで通じる! ―30年前のパリ体験から


法学学術院教授 塚原 史

パリのメトロの駅で
▲ パリのメトロの駅で(20代半ばの長髪です)

 東京生まれで、早稲田の政治学科を卒業するまでは、他の都市に住んだことはなかったが、大学院でダダイズムの詩人トリスタン・ツァラを研究テーマに選ぶようになってから、京都とパリで4年ほど暮らした。フランス政府給費生として花の都に降り立ったのが1976年の秋だったから、今年でちょうど30年になる。まだメトロに一等車があって、赤と緑の箱型の車両がガタガタ走っていた頃だ。

  じつは、パリに着く直前にちょっとした経験をした。新しい語学を学び始める皆さんの参考になるかもしれないので、紹介しておこう。飛行機で韓国からの留学生と一緒になったのだが、物理学専攻ということで会話は得意ではないようだった。そんな彼が、シャルル・ドゴール空港の入国審査で立ち往生していた。山のような持込荷物の説明ができないのだ。ゲートにはたちまち長蛇の列ができ、いらだった係官は私にこう言ったものだ―「君は彼の隣国人だから、通訳してやれ」。ところが、私は韓国語を知らなかったから、結局、係官と彼と私の共通語はフランス語しかなかったのだ。けれども、フランス人の質問には目を白黒させていたわが友は、私のフランス語をなんとか理解してくれて、口ひげをたくわえたオフィサーの"Bon. Passez!"のひと言で、私たちは無事入国を果たした。そう、語学はハートで通じるのだ!

  すこし固い話になるが、スイスの言語学者ソシュールは『一般言語学講義』(1916年)で、言語をラングとパロールに区別した。ごく大づかみに言えば、ラングは文法体系としての国語で、パロールはその個人的使用ということになる。30年前の例では、留学生とネイティヴの間ではフランス語のラングが作動しなかったが、私との間ではパロールのレベルで機能したと言えるだろう。このことは、言語が抽象的な記号体系にとどまらない人間的コミュニケーションの体験であることを示唆している。『異邦人』の作家カミュが「私の祖国はフランス語だ」と述べたとき、彼はそのことを直観していたのではなかっただろうか?

(2006年4月6日掲載)

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First drafted 2006 April 6.