先輩に乾杯!

「春の甲子園」センバツ出場を
 18年ぶりに果たした早実野球部監督 和泉 実さん


 「野球一筋」という人生は、何もプロ野球選手に限ったことではない。今回登場する先輩は、選手・監督として野球に関わり続け、44歳の今春、早稲田実業学校の硬式野球部監督として甲子園の土を踏み、「延長15回の引き分け、再試合での最終回逆転勝利」のドラマを生んだ。「好きな野球にこだわる」ことをシンプルに貫いてきた和泉さんの生き方を紹介しよう。

和泉 実さん
いずみ・みのる
1961年東京都生まれ。小学生時からリトルリーグで野球を始め、早稲田実業学校入学。2年生時には捕手として春・夏甲子園出場。79年教育学部入学。本学野球部所属。卒業後、食品会社の嘱託社員として働きながら山口県南陽工業高等学校の監督を9年間続ける。92年、早実硬式野球部の監督に。96年夏の甲子園出場に続き、今春の選抜出場は2回目となる。同校総務課職員。「家族とのふれあいを大事にする」家庭人。

野球漬けの少年期に芽生えた指導者への夢

 小学生で野球を始めた典型的な野球世代。6年生で出場したアジア大会での敗戦の際に、「卒業などで辞めなくてもよい」監督がうらやましかったという。シニアリーグを経て、名門早実硬式野球部の戸をたたく。当時の早実は、8年間で計9回も甲子園に出場した黄金期。自身も2年生時に甲子園を経験したが、3年では出場を逃した。「敗れた時に、涙は出なかったですね。勝敗はあくまでも結果。泣くのは、それまでの過程でやり残したことがあるからでしょう」。この頃には指導者の道を目指すようになった。

  本学入学後、「テレビで見た有名選手がゴロゴロいる」野球部では、レギュラー獲得はかなわなかったが、指導者としての資質を養うべくピッチャー以外のあらゆるポジションを経験。教職課程の授業にも通った。「自分より能力が高い人の中で自分をどう位置付けるか、レギュラーの仲間をどう助けるかを、多くの人と接することで考えていたね」

進路選択の指針は、野球に携われること

 大学3年の冬、部の行事で山口県の南陽工高に野球を教えに行った。偶然にも当時の監督が多忙のため監督の続投が困難という状況で、「卒業後、監督に」との誘いを受け、快く引き受けた。当時、私立高校の教員の誘いなどもあったがすべて断った。「教員になっても野球の監督ができるか分からない。生活の安定よりも野球にこだわりたかった」。同校野球部の後援会長が経営する会社に嘱託社員として就職。朝練を終えた後に出社し、15時になると退社。再び練習場に向かう生活を9年間続けた。

  1992年秋、急逝された和田監督の後任として白羽の矢が立ち、早実の監督に。以来、同校職員として働きながら、監督を続けている。早実の国分寺移転後、学外練習場を転々と借り受ける厳しい時期も経験しながらも、2004年にようやく王貞治記念グラウンドが完成。今春、監督として2度目の甲子園出場を果たした。

やりたいことをシンプルに考えてこだわる

 上手くても下手でも甲子園に行きたいという選手の気持ちは一緒。だから「今年の選手はダメだな」と考えたことはない。大学3年、創立百周年の秋、六大学野球で優勝した記憶がよみがえる。「その年の早稲田にはずば抜けた選手はいなかった。でも、一人ひとりが勝つにはどうすればよいか考えて行動することで、チーム力を育てたんだ」。モットーは「選手が考える野球」。じっくりと生徒を見守り、要所要所をしっかり教える。「生徒は一人ひとり違う。だから、自分の経験論だけで教えてはダメ。生徒に教えると必ず何かが戻ってくる。それをこちらも教わって、そこから再び生徒に教える。監督として必要なことは全部生徒から教わったよ」

  後輩たちへのメッセージをお願いすると「僕は単純だっただけ」と笑う。「複雑に考え過ぎると一歩を踏み出せなくなることもある。僕はどんな形でもやりたいこと(野球)に携わろうと思ってきたんです。やめちゃうとゼロでしょ。それに社会に出ないと分からないことって多いですよ。まずは社会に出る。そして自分がゼロの状態の時にとにかく頑張る。情熱を持って頑張っている若い時分に出会った人々は、大切な自分の財産になるんです」

(2006年6月1日掲載)

Copyright (C) 2006 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.
First drafted 2006 June 1.