とっておきの話
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2005年度後期掲載分 目次 |
ロレンスをご存じですか?国際教養学術院教授 中村 清
ロレンスという名前をご存じでしょう。いいえ、あのD.H.ロレンスではなく、T.E.ロレンスです。といってもお分かりにならない人には、「アラビアのロレンス」と言えば思い出していただけるでしょうか。この映画は139分という長編で幕間が入るほどですが、ロレンスを演じた金髪碧眼のピーター・オトゥールの演技力が光り、アカデミー賞に輝きました。父と共に見たという思い出も一緒になって、私が最も好きな映画のひとつです。 さて興味深いのはロレンス自身です。ロレンスはオックスフォード大学ジーザス・カレッジで中世史を専攻しています。アラビアまで実際に出かけて書き上げた「十字軍の築城」という卒論は最優秀賞に輝いています。卒業後は考古学者の恩師と共に古代都市カルケミッシュの発掘に参加しています。それから先のロレンスは映画の通りのようですが、私が関心を引かれたのは「アラビアのロレンス」以後のロレンスです。 ロレンスは第一次世界戦争後の平和会議に英国の軍事顧問として出席していますが、経済顧問はあの有名な経済学者ケインズでした。報復的な制裁に傾く会議を批判して、ケインズは「平和の経済的帰結」という名著を著しました。一方、ロレンスは映画の素材となった「七つの知恵柱」の執筆を始めています。同時に英国のアラビア政策を批判する記事をタイムズ紙などに投稿しています。 あまり知られていないと思いますが、「オデュッセイア」の英訳を手がけるなど文学に憧れたロレンスは、バーナード・ショーやトマス・ハーディなどにも可愛がられました。アラビアで有名人となった自分を嫌い、静かな引退を夢見ていたロレンスは、46歳で英国南部のクラウズ・ヒルにある農家を「終の住処」としたのです。白壁の小さな家は東側と北側には窓がなく、ロレンス好みの質素な造りです。暖炉のある書斎にはモーツァルトのレコードが置かれていました。映画は、この家から「二輪車のロールス・ロイス」と呼ばれた愛車ブラウ・スーペリアで出かけるところから始まります。 (2006年1月19日掲載) Copyright (C) 2006 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.First drafted 2006 January 19. |
デジカメの功罪社会科学総合学術院助教授 笹原 宏之
デジカメは、実に便利なものである。 奇妙な看板、不思議な建物から可愛らしいネコ、そうしたものを見付けても、銀塩カメラを使っていたころには、フィルムや現像の手間を考えると、「まあこれくらいは撮って残さなくてもいいか」と思ったものだった。 また、日本の文字の実態を追いかけるという専門のせいで、街中に出ていても、「これは」と思う“文字”が目の片隅に飛び込んでくることが少なくない。看板や貼り紙などの文字であれば、メモをして済ませることも多かった。しかし、これがまた手間の掛かることで、初めての土地では景色も見ずにメモばかりを続けることもしばしばだった。そしてその苦労の結果も、再現性がなかったのだ。 この状況を一変させてくれたのがデジカメだ。メモからの解放である。近所を散歩していても、出張で見知らぬ土地を歩いていても、不思議な文字には出逢えるものだ。パソコンフォントの普及で、街中の文字の個性もだいぶ薄れた感があるが、それでも個々人が手書きした貼り紙などには、個性溢れる文字が躍動している。 道端にも右の写真のような貼り紙があり、路上にもレッカー移動された駐車違反者に出頭を促す、婦警さんが長いチョークで書いた文字がある。「警察」の「警」は「敬」が「リヌ」を並べた警察独特の略字となっている。警官の間では、毎日たくさん書くので、独特の略字が普及しているのだ。 くたびれて喉が痛くなり町医者に行けば、カルテに書かれる「熱↑」という表記や「頚椎」といった略字。これはさすがに撮りにくい。また、人物や怪しいものが写り込まないようにと、これはこれでやはり気苦労が重なる。 たまる一方のデジカメ写真は、ファイル名を付けることで検索ができるようになるが、最近はこれも追いつかない。撮った写真を本の図版に使おうとしても、探す手間を考えるとまた撮り直す、なんてことにもなっている。仕事に追われているせいか忘れっぽくなっている身にとっては財産であると同時に負債のようにもなってしまっている。 (2005年12月15日掲載) Copyright (C) 2005 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.First drafted 2005 December 15. |
習うより、慣れ、よ?日本語教育研究科助教授 池上 摩希子
この春、早稲田に着任した。以来、驚いたことは多々あるが、ひとつは校歌を歌う機会が多いこと。そして、そこには学生服の学生さんが来て、あの身振りを指導してくれる。その学生服が妙に懐かしいのはなんでなのかとよくよく思い起こしてみて、この写真に行き着いた。大学も大学院も女子大だったので、学生服とは無縁だったが、卒業した県立高校はかつての旧制中学だったからか、応援団があったし、体育祭ではこのようなコトをしなければならなかった。 「習うより慣れよ」といって、人から習うよりも自分で経験を重ねたほうがずっとよく身に付くという。今、教師という職業についてしまったものにとっては、ちょっとドキドキさせられることばではあるが、やはり本当だなあという思いも、この写真は呼び起こす。高校の学年縦割り応援合戦では、女子はこのような格好をしてダンスをする。クラス全員ではないのに、なぜ私がダンスをするはめになったのか、実は全く覚えていない。踊りが好きだったわけでも運動神経が良かったわけでもない。このぷよぷよ加減からも、やりたいと言ったとは思えず、じゃんけんで負けたか、何かで意地になったか…。とにかく、私だけ覚えられない振りがあって、夕日射す屋上で「ちがーう! なんであんただけ、そうなん!」と怒られ続けたことばかりが蘇る。 しかし、本当に習うより慣れてしまうのだ。「なんで私が…」「違うて言われても…」から「できんもんはできん…」へ、そして「…(無念)…」と、二週間も繰り返していると、不思議とダンスになってきた。怒られなくなった。習うっていうより、慣れてしまった。応援合戦で優勝というおまけもついた。私の振りの、どこがどう先輩のと違ったのかはよくわからなかった。でも、ダンスの指導にあたった先輩はスマートでやたらきれいな人だったなあ。だから、まあいいかとそのときは思ったのかも。今だったら、「どこが違う?」と聞けるだろう、でも踊らないだろうな。ならうよりなれよ、なるようになるよってことも、けっこう大事です。 (2005年12月1日掲載) Copyright (C) 2005 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.First drafted 2005 December 1. |
国旗。そは我が心の表出!文学学術院教授 村井 誠人
ヨーロッパの都市では、歩道の小さな障害物に悩まされることが、結構ある。靴のままで家の中に「上がる」ことになるわけだから、よくまあ、平気で放っておくものだと、われわれ日本人は思う。それは、犬の糞のこと。どうもヨーロッパ人はわれわれよりも道路上の馬糞や犬のウンチをあまり気にしないようだし、動物の排泄物は「自然なもの」として、目くじらを立てるものとは考えなさそうだ。もちろん、程度の問題ではあるのだが。 デンマーク人の大好きなもののひとつに、赤地に白十字の旗があり、それは「ダネブロー」と呼ばれる。楊枝につけた小さなものからいろいろな大きさのダネブローが、本屋などで簡単に手に入る。クリスマス、誕生日、結婚、卒業とか、ありとあらゆるお祝いには、たくさんのダネブローで飾り立てる。はては、今日は休暇で、サマーハウスで「私はのんびりと寛いでいるぞ」という気持ちを庭にそれを高く揚げて意思表示をする。
さて、デンマークの首都コペンハーゲンのたそがれどきでの体験。何気なく前方を見ると、点々と目立つ小さなものが道端にある。近づいてみると、犬が落としたものに丁寧にも、そのひとつずつに、ダネブローが刺してあり、「注意! 注意!」といった誰かの親切な所業? また、全く別なところでも、ダネブローが手元になかったのか、手書きの小さな白旗が刺してあり、「注意! 犬の仕業」とある。 ダネブローは、「楽しい心」を表現する道具。赤と白のコンビネーション。十字を描くことなく、白い紙に四つの赤い四角形を上下に二つずつ描くだけ。そしてサッカーの国際試合の応援で、彼らは歌う。「われらは白! われらは赤!… オーレ、オーレ、オレー!」と。 この旗は、まず、デンマーク人というまとまり、すなわちデンマーク社会、の表象であり、そしてたまたま幸いにもそれが「国旗」であるということ。そんな国旗は、愛さずにはいられない。 (2005年11月17日掲載) Copyright (C) 2005 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.First drafted 2005 November 17. |
ダンベル体操が北京オリンピック大会開会式に登場!?スポーツ科学学術院教授 鈴木 正成 ダンベル体操がひろまったが、もともとは1983年9月30日まで90kg超もあった小生のデブを減量・維持していくために開発したダイエット用体操である。体のたんぱく質合成を高め、とくに筋肉を増量・活性化すれば基礎代謝が増大し、24時間エネルギー消費の大きい体となって、寝ながらやせられるダイエットが可能になるという理論に基づく。1日15分で済むこの体操は、23年間75kgを維持する理論通りの威力を発揮中。 さて、ダンベル体操が1993年ころから新聞や雑誌などで紹介されるようになり、とくに94年と95年にNHKテレビ番組「おしゃれ工房」で取り上げられて全国に普及し、さらに中国吉林体育学院の体操の教授を父親にもつ留学生を介して1995年に中国に紹介された。 そのころ中国はオリンピック大会(2000年)招致に失敗し、全国の体育大学に対して競技スポーツよりも人民の健身を重視する教学改革を求めていた。さっそく吉林体育学院はダンベル体操(亜鈴体操)を必須教科とし、長春市を中心に小・中学校にラジオ亜鈴操を導入、中老人対象に健身操として公園での早朝亜鈴操を定着させた(400グラムの木製亜鈴を使用)。その活動は高く評価されて教学改革全国二等賞を受賞した。さらに、1997年に創設された幼児基本体操促進委員会によって亜鈴操は肥満防止、健康づくり、体力づくりを目標に基本体操として採用された。かくして90グラムの赤ペンキを塗った木製亜鈴を握り締めての約7分間のきびきびした体操が、全国650の幼稚園・120万人の園児によって毎日午前中に実践されるようになったのだ。 毎年子供の日のころに開催される幼稚園児の全国体操競技会最終日、天安門広場での園児1000人による亜鈴操表演大会は、まさに壮観! 実は、この幼稚園児の亜鈴操を2008年北京オリンピック大会開会式のプログラムに組み入れて世界に発信する夢を実現できないかと、目下、中国オリンピック委員会委員に相談中である。今年11月下旬に北京で段副委員長と面談する折に一押ししてみたい。
(2005年10月27日掲載) Copyright (C) 2005 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.First drafted 2005 October 27. |
「不良?」から「親父バンド」へ社会科学総合学術院教授 久塚 純一
「久塚さんは、下手だったけど、好きだったよなー」とは、プロのミュージシャンとして活躍している同窓生「Fさん」の言葉である。私が、下手だったけど好きだったものとはエレキギターである。40年前、私が通っていた佐賀県の高校では、バンドを組んでいる者は「不良」に近い存在だった。我らがバンド「ザ・チェインズ」は練習場所もなく、グヤトーンのエレキとヤマハのアンプを抱えて仲間の家を転々としていた。 文化祭でやってみたい。でも、高校側は許してくれそうにない。何か良い方法はないものだろうか。アレコレ考えた結果、演奏する曲目を選んで高校側に擦り寄ることにした。結果的に、ザ・チェインズは文化祭で演奏することを許された。オープニングの曲はロック調の「校歌」。校長先生の好きな「影を慕いて」も演奏したし、テレビドラマでやってた「おはなはん」の主題歌も入れた(えっ、ええーっ)。なんとも締まらないエレキバンドだが、その後は、みんなが待ってたベンチャーズ、ビートルズ、リバプールサウンズのオンパレード。興奮したドラムはメチャメチャ速くなっちまうし、小さなアンプはビービー言い出すし、何がなんだか、もう大変。それでも、初めての生バンド演奏に会場は大興奮。写真(手前)は、私が、サーチャーズの“Love Potion No.9”をベンチャーズ・バージョンでやらせてもらっている時のものだ。 「今でもやってるの?」と聞かれれば、「やってます」と答える。研究室にはアンプとギターがある。新しい仲間もできた。時々スタジオに付き合ってくれるドラムの天才「D先生」とエレキの初心者「Tさん」だ。スタジオ帰りのアルコールと音楽談義がたまらなく楽しい。 私が生まれたのは1948年。団塊の世代と呼ばれている。良くも悪くも、この世代はエネルギーの固まりのような集団だった。皆どうしているのだろう。どうするの、これから。昔話ばかりしてないで、何かやろうよ、もう一度? (2005年10月13日掲載) Copyright (C) 2005 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.First drafted 2005 October 13. |
キャンパスツアーの醍醐味理工学術院教授 後藤 春彦
海外の見知らぬ都市を訪問する際のひそかな楽しみは、その都市を代表する大学のキャンパス見学である。テロの影響で敷居が高くなったが、それでも社会に開かれている。 ツアーの勘所を披露すると、まずは建学精神が宿るオールドキャンパスを訪ねること。多くの大学は建物に囲まれた中庭を有している。庭と侮る事なかれ。クォードラングル、コート、スクエアなど呼称は違えど、中世の修道院を原型とする中庭空間こそが大学の心臓部なのだ。次にキャンパスの骨格となる街路を歩いてみよう。新しい大学ほど、この軸線が強調される傾向にある。視線の先にはシンボルとなる建築が鎮座していることも多い。 そして目指すは言うまでもなく、建築学部のスタジオである。休日も夜も学生たちは設計作業に没頭している。運が良ければクリティーク(作品講評会)を傍聴することもできる。 ツアーはまだ終わらない。まちと大学の関係を眺める楽しみが残されている。ボローニャに代表される中世の大学空間は既成の都市の中にパラサイト(寄生)するように誕生した。その次の世代の大学はオックスフォードやケンブリッジ、ハーバードのように周囲に大学まちを形成した。さらに、現代ではキャンパスという概念を持たず、ニューヨーク大学のように点在するビルのネットワークが大学の機能を果たしている例もある。 大学まちには若者相手の安くて美味い店がたくさんある。留学生も多いことからメニューもインターナショナルだ。適当な店に陣取って一杯飲みながら人間観察を始める。隣の席の教師と学生たちはどうやらこの近くに暮らしているらしい。例えば1990年代に周辺のスラム化に頭を痛めていたペンシルベニア大学は、治安維持、近隣商業の活性化、初等教育施設の充実などに努め、その結果、学生・教職員の多くが大学周辺に居を移したと聞く。今では世界中で大学とまちが相互に価値を高め合うような補完関係を模索している。 ほろ酔い気分も手伝って、キャンパスツアーは異国の都市から早稲田界隈の再生を想い描く旅へと続く。 (2005年9月29日掲載) Copyright (C) 2005 Student Affairs Division, WASEDA University. All rights reserved.First drafted 2005 September 29. |