先輩に乾杯!

家業の造り酒屋の蔵元を継ぎ、独自の世界を創り出した
 熊澤 茂吉さん



くまざわ・もきち
1969年神奈川県生まれ。私立山手学院高等学校卒業後、教育学部入学。庭球部に所属し、副主将を務める。卒業後、米国での留学・放浪生活を経て、蔵元を引き継ぎ、97年熊澤酒造株式会社代表取締役(六代目蔵元)に。就任後、日本酒の新ブランド「天青」、地ビール「湘南ビール」などを次々と開発。現在はレストラン、日本料理店、ベーカリーも数店舗経営。旧名、熊澤信也。
【URL】http://www.kumazawa.jp

 全国から学生の集まる早稲田には、卒業後の進路に「家業を継ぐ」という選択肢がある人も多い。情報と刺激に満ちた東京で将来の夢を描く時、その道は否定的にとらえられやすい。だが、果たして本当にそうなのか。今回は、明治5年創業という歴史を持ちながらも、廃業の危機にあった湘南の造り酒屋の蔵元を継ぎ、経営回復・発展させてきた一人の先輩を紹介したい。

探し回った末に、故郷に見つけた自分の最高の舞台

 「劣等感の塊だった」という高校時代。「早稲田に受かることで、自分に自信を持ちたい」と、猛勉強の末に入学。精神を鍛えようとあえて厳しい体育会に身を置き、一人暮らしで「理想通りの貧乏生活」を送った。

  バブル全盛期での就職活動に疑問を感じ、やりたいことを探すため、アメリカへ留学。当時、家業の造り酒屋の蔵元を継ぐことは「何もすることがないからやる」と否定的にしか考えられなかった。

  しかし、留学先で勉強ばかりで社会に触れられない生活に嫌気がさし、放浪生活を開始。あてのない夢探しの旅の中、日本には無いリゾートの素晴らしさに出合い、何とかチャンスをつかもうとしていた矢先に、家業が廃業寸前との連絡を受けた。アメリカの実業家に相談したところ、返ってきたのは「廃業した方が賢明」という想像通り、そして期待通りの答え。「でも、それが逆に驚くほど僕の血をたぎらせたんです。他人から蔵元という存在を完全に否定されて、頭にきている自分にびっくりしました」。その時、探し続けた自分の最高の舞台は、実は足元にあったことに気付いた。帰国後、当時の社長も親族も存続をあきらめかけていた中、当時24歳の熊澤さんは蔵元を引き継ぐことを宣言した。

蔵元だからこそできることにこだわりたい

 「湘南の酒が旨いはずはない」と偏見を持たれ、流通に弱い状況下で、数々の改革に乗り出した。まずは、意欲のある若者を雇用し、これまで(日本酒を造る)冬の季節のみ雇ってきた高齢の杜氏たちから彼らに技術を仕込み、組織体制を強化。その後、通年雇用することで酒造りのない夏場に同じ醸造技術を活かして造れる地ビール(湘南ビール)を開発した。流通の弱さを克服すべく、レストランもオープンして自社商品を売り出した。

  時代の地ビールブームに乗り、商品は想像以上に売れ、レストランも繁盛。また、周りから日本酒の製造はやめて地ビールに特化した方が良いとアドバイスをされるが、地ビールとレストランの収益を酒蔵の設備投資にあて、高品質な新ブランド(天青)を立ち上げた。「もともと経営の多角化を狙ったのではなく、蔵元の基盤を固めるためのもの。湘南唯一の蔵元の僕たちにしかできないことにこだわった時、日本酒を捨てることは考えられません」

  現在、会社の敷地内には土蔵を改築して作られた日本料理店やレストラン、ビール酵母や酒粕を利用したパンやケーキ工房が並び、蔵元ならではの魅力が存分に堪能できる。そこには「独自のコンテンツを凝縮した世界を作り、お客様を迎える」というアメリカで自分が造るリゾートを夢見たあの旅の経験が活きている。

選択肢は常に自分の中にある。主体的に自分の人生を生きよう!

 「家業を継がなくてはならないとかいう理由で仕事を始めるにしても、最終的にはすべて自分が決断したこと。他人のせいにはできないですよね」と語る熊澤さんは、自身の放浪生活の話に触れ、最後にこんな言葉を残してくれた。「明確な目的がなくても懸命に走っていると自ずと道が開けるときもあります。人生をしっかりと生きてください」

(2005年10月27日掲載)

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First drafted 2005 October 27.