えび茶ゾーン
 第1055号〜第1069号(2005年4月7日号〜2005年7月21日号)


2005年7月21日


 哺乳類だけが大脳新皮質を持つ。大脳新皮質の厚さは名刺六枚分程度に相当し、その面積はそれらを広げた大きさにほぼ等しい。ヒトの新皮質の面積は最大である▼新皮質の役割は、知能をもつこと、すなわち、記憶―予測することである。生まれたばかりの赤ん坊の脳には、言うまでもなく、何らの記憶もない。したがって情動(感情)を形成することはできない。このことは赤ん坊の手術の際、時には麻酔なしでおこなわれることからも察することができる▼また映画「ハンニバル(アンソニー・ホプキンス主演)」で、レクター博士が、生きているヒトの頭蓋骨を切開し(これには痛みを伴う)、脳の一部をフォークで取り出すシーンがある。その際、そのヒトには脳の一部を取り出すことによる痛みは感じない。これらのことは、脳自体に感覚はそもそも存在していないことを示している▼脳の中で情動(感情)が形成されるには、運動指令による筋肉の動きとその結果起こる脳へのフィードバック(求心性神経による感覚入力)が必須となる。言い換えれば、行動を起こさない限り、脳は何も感じないし、それを新皮質に記憶として蓄えることもできない。記憶の量や種類が少ないと、次の瞬間に起こる現実に対する予測のパターンも少ないであろうし、それに合致するその正確性も低くなる▼学生諸君、さあ勇気をだして一歩を踏み出そう! 失敗しても大丈夫!なぜなら、その失敗もあなたの記憶として新皮質に蓄えられ、その後の予測に役立てられるだろうから。

(Y−T)

(2005年7月21日掲載)

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First drafted 2005 July 21.


2005年7月14日


  〈散り終えて桜普通の木に戻る〉居谷真理子▼時季はずれは承知の上で、桜の木の話である。この春、通勤途上で一本の桜に出会った。空き地のほぼ真ん中にあって、ほしいままに枝を伸ばし、凜としたたたずまいを見せている。満開時の美事さといったら、その根元には必ずや屍体が埋まっていると確信したくなるほどであった▼世に桜の名所は多いが、人為を感じることなく桜を愛でることのできる場所はそう多くない。桜並木、とりわけ通り沿いのそれなどは悲惨ですらある。通行の妨げになりそうな枝はことごとく剪られているからだ。その開花が寿がれる桜は、よく見れば無惨な傷痕だらけだったりする▼だが花はそれを覆い隠す。また、花を愛でようとする心性は敢えて傷痕を見まいとする。そして葉桜となれば、もはや誰も桜を気に留めなくなる。人はついに傷痕に気づかぬままだ▼件の桜にも剪定はなされているにちがいない。が、それはあくまで桜を第一に考えてのことである。人の都合によってではない。だからこそあんなにも放恣な美しさをたたえているのだろう▼そんなことを考えるうち、桜の季節に迎え入れた、今年の、そしてかつての新入生たちのことに思いは移っていった。満開の桜にも比すべき晴れがましさをまとって入学した彼らも、見た目はもはや「普通の木」だ。その彼らに不要な剪定を施していないだろうか。伸びやかさを失わせていないだろうか。葉を存分に繁らせている件の桜を、行き帰り、ちょっと襟を正すような思いで眺めている。

(R)

(2005年7月14日掲載)

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First drafted 2005 July 14.


2005年7月7日


 所属する研究科で、教員相互による授業参観が始まった。これまでも他の教員の講義を参観することが推奨されてはいたが、いよいよ制度的に「義務」付けられる時がきた▼幸か不幸か「見られる側」にはまだなっていないが、「見る側」においても特別な感情がわく。振り返ってみると、大学院を出て以来、他の教員の授業に出席するのは退職記念の最終講義ぐらいで、通常の講義を真剣に見るのは初めてと言ってもよい▼なぜか、緊張して教室に入る。その緊張感は、自らが講義を行う時に感じるものとは異質である。まるで、立ち入ってはならない場所に踏み込む感覚。「プライバシーを覗き見るような」と言ったら語弊があろうが、本質的には似た思いである▼考えてみれば、大学における講義は各教員の「小宇宙」であって、他から切り離された「閉じた空間」であった。チームとして研究教育が行われる傾向の強い理系に比べ、個人競技とも言える文系科目ではなおさらである。相互不可侵は教員間の暗黙のルール。授業参観は、こうした心理的な壁を自ら突き崩す作業をともなう。それが何とも言えぬ緊張感を生み出す原因のようだ▼しかし、二つ三つと参観を繰り返すうちに、この感覚は急速に薄れてきた。それこそ、相互参観が狙う効果の一つなのかもしれない。「この世界は、もはやお前一人のものではない」という天の声は、いつしか私の心の中にも響いていた▼問題は、「見られる側」に回ったときにも、この声を自らの思いにできるかである。なんだか、また別の緊張感を感じ始めている。

(S・F)

(2005年7月7日掲載)

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First drafted 2005 July 7.


2005年6月30日


 小学生に夢って何?と聞くと、瞳を輝かせて希望と答える。少年には将来のすべてが夢であり、希望である。大学生に聞くと、恥ずかしそうに将来の仕事について話す。人生を懸けて打ち込める職業に就きたいと。恥じらいの源は、実現性に疑問がありといったところか▼就職活動もピークを超えた。最近の就職面接は夢を論理的に語るパフォーマンス重視に変わってきた。特に技術系の変貌が顕著だ。本人の夢を企業の夢にリンクさせて語れるかが勝負である。企業が成長している証として個々の夢を語らねばならなくなった今、採用段階でその能力を優先評価するのも分かる▼しかし学生諸君! 間違ってはならない。これは企業への入り口の話である。幸いパフォーマンスが奏功したとしても、それで企業でやって行ける訳ではない。企業の職場はもっと実学的な能力を求めている。入社すると中身を見られる。卒業までの短い期間に、自分がそこでどう生きて行くかをしっかりと考えねばならない。するとやり残した多くのことに気付くはずである▼学生時代にやっておかねばならないことは多い。夢にたどり着くために頑張っているだろうか。諸君の夢はどこへ行った? しっかりと手元にあるか? 少年の頃の夢を思い出すと、現実とのギャップに驚く。ギャップを認め、大いに苦しんでいただきたい。それが若さ、青春というものである▼友人や家族と大いに夢を語り、自分の本当の夢を呼び戻して見よう。社会に出て、その夢に近づく実感が生き甲斐となる。

(M・S)

(2005年6月30日掲載)

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First drafted 2005 June 30.


2005年6月23日


 昨年度の内閣府による世論調査では、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきであるか」という問いに「賛成」とする者の割合が45.2%、「反対」が48.9%となった。このニュースを教えてくれたのはNHKでも数少ない女性管理職のひとり、チーフ・アナウンサーで「海外ネットワーク」を担当している道傳愛子さんである。久しぶりに帰国した友人との週末の会食にも、仕事で遅れて参加。「賛成と反対の数字が逆転したっていうのは、すごいことなんですよ」と声を高める。和食をつつきながら、「へえ」と思って聞いていたが、なるほど、過去の調査結果を見ると「男は仕事、女は家庭」という考え方に同感する人が同感しない人を大きく上回っていた▼しかし、一方では、誰が家事をしているかという問いに「妻」と答えた者が、「掃除」で77.6%、「食事のしたく」で87.4%、「食後のあとかたづけ、食器洗い」で78.9%であり、「夫」は、それぞれ4.0%、1.2%、3.5%となっている。男女の役割分担に対する意識は変わったものの、実際に分担している男性は少なく、仕事を持つ女性には負担が重くのしかかる。出産・育児・介護の問題があることは言うまでもない▼本学には、在籍者のうち女性が8割以上を占める独立研究科もある。職場で時間外労働を指示する上司は家事を妻にまかせっきりというようなことはなかろうか。人生の設計図を自由に描いてもらうためには、家庭や社会においてさらなる意識改革が必要であると言えそうだ。

(T)

(2005年6月23日掲載)

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First drafted 2005 June 23.


2005年6月16日


  スカイプという電話をご存じだろうか? インターネットにつながっているPC同士であればPCが電話になるというシステムである。無料のソフトウェアをダウンロードして使う▼ルクセンブルクの小さな会社が開発したという。電話をかけたい相手がPCを使っていれば、画面の中から相手を探して、クリックしてかけるようになっている。大学内のネットでもウェブページを見ることができればつなげられる▼ところで、電話をかけるには電話帳がないと困る。スカイプでは電話帳はどうなっているのかと疑った。そうすると、誰かのPCのうち能力の高いものが自動的に選び出され、電話帳の役目を果たすという。一方で、そのPCの持ち主は、自分が電話帳であることを知らされない。また電話帳同士のデータ交換も、インターネットブラウザーのキャッシュ情報のように、記録を残しておき、やりとりされる。この電話帳PCの構成も、ネットワーク規模に応じて変化していくという▼まことにうまくできたシステムである。自律的にネットワーク構成を行っている。ある意味では、動物のようでもある。ある電話帳が故障しても、全体に影響がない。もともと米国国防省が考えたインターネットの目的そのままである。しかも無料である。いままでの電話に接続する場合だけ料金がかかる。そこがビジネスチャンスである▼規制緩和や競争原理は大事だと思う。柔軟性をもった考え方をする人々は、インターネット関連に限らず素晴らしい手法を編み出すものだと、つくづく思う。

(H)

(2005年6月16日掲載)



2005年6月9日


 AO入試や9月入試という制度面の新しい試みを導入している早稲田大学がやれることは、まだ多数残されている。その一つが、入試科目から英語を廃止し、TOEICやTOEFLの点数を採用することである。それらの点数が話せる英語の代理変数になるかは疑問があろう。入試出題者のご苦労は分かるが、受験英語の点数よりははるかにまともである▼受験英語教育は中学から高校までの六年間という途方もなく長い時間を消費してまともに英語を話せない日本人を大量に輩出してきた。それはそのような受験英語しか教えられない教員とその家族の生活を保障し、お金はあるが話せないために海外移住をせず国内にとどまる国民を増やしたという成果しかもたらしてこなかった。そこに費やされている国家予算と中高生の壮烈で無為な時間の蓄積という対価を犠牲にして▼時代は、単に英語が話せるかではなく、「説得力や交渉力のある英語が話せるか」に変わってきている。現在の大学での英語教育はそれに対応しなければならない。母国語で話して説得力のない人は、英語でも説得力はない。ロジカルシンキングと説得力のある英会話こそが大学の英語教育の中心にならなければならない▼早稲田大学の入学者の三十五%を占める浪人生の多くは、現役生よりもさらに時間を延長して話せない英語を学び続けたことになる。短期プログラムを除いた正規の海外大学への留学生が四万人中の三百人程度にすぎない最大の理由は、上記のプロセスを甘受してきたからである。大学が変われば中高は変わる。

(TN)

(2005年6月9日掲載)

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First drafted 2005 June 9.


2005年6月2日


 ラスト・ワンマイル問題。情報インフラ整備時の重要課題である。巨額な国家予算を投じて高速ネットワークを都市部まで引いても、電柱から自宅までの足回りを確保しない限り、ネットワークとしての意味をもたないというのが問題の本質である▼人間科学部では統計学は学部指定の必修科目である。人間への科学的アプローチという哲学の根幹として位置付け、内容・評価のすべてにおいて厳しく指導している。しかし、決して高度な知識や方法論ではなく、「統計マインド」を心底修得してもらうことが目的である。数学的表現よりも論理や解釈の整合性、科学的根拠への拘りを強く求めている。公式や方法の暗記だけでは全く無力であることを学生は実感する。入試で疲れた頭への刺激は強く、汗、時には涙を流しながら頑張っている。そこには、理/文、数学が得意/不得意といった基準は意味をもたない。講義の進行に伴う学生諸君の成長ぶりを頼もしく感じるのみである▼結果、七割の学生は期待通りに成長し、二割の学生は「頑張ればできるのに」という余韻を残したまま再挑戦する。ここまでは全く問題ない。しかし、残りの一割が課題である。最初から拒絶反応を起こしている。この一割の学生を振り向かせ、必ずある潜在能力を引き出してやらねばならない。これが実現できてはじめて「人間科学部の統計学は成功」と言えるのである。まさに「ラスト・ワンマイル問題」である。そのためには学生の、いや、それ以前に学生を取り巻く教員の意識改革が必要である。

(たつ)

(2005年6月2日掲載)

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First drafted 2005 June 2.


2005年5月26日


  近頃、早稲田スポーツが元気である。ラグビー蹴球部の快進撃をはじめ、メディアで早稲田スポーツが取り上げられる機会が多くなった▼そんな早稲田スポーツのメッカのひとつに東伏見がある。東伏見駅では、以前のジャージ姿の学生と異なり、今風の男女学生の姿が目立つようになった。かつて、東伏見をにぎわせた逞しい筋肉を身にまとった泥臭い(?)学生たちの活気は、すっかり息を潜めたように感じる▼以前は、東伏見駅周辺に、お腹をすかせたジャージ姿の学生が行きつける飲食店が多くあり、平気で二人前の定食を平らげる猛者たちが大勢いた。スパゲティなどは必ず大盛りを注文し、それでも空腹を満たせず、ライスや安いトーストを頼んだりしていた▼しかし、現在の学生はコンビニやお弁当屋さんで昼食をすませることが多いそうだ。それが影響してか否か、東伏見では飲食店が次々と閉店した。この現象は、体育会学生と前出の飲食店との相互依存関係が崩れたことが一因かもしれない。加えて近年は、近隣の住民との間に、グランドの土埃や騒音のトラブルが後を断たないそうだ▼これまでのように、地域が無条件に早稲田スポーツを応援してくれる環境は存在しない。これからは、既存の枠組みにとらわれず、新しい早稲田スポーツを創造していく必要があろう。積極的な地域交流や地域貢献も、有力な選択肢となろう。そんな想いを抱えているうちに、また一軒、早稲田スポーツを応援してくれた東伏見駅前の肉屋さんが店を閉じてしまった。

(H)

(2005年5月26日掲載)

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First drafted 2005 May 26.


2005年5月19日


 常々不思議に思っていることを一つ▼道路交通法第三十八条に、車両等は横断歩道に接近する場合には「直前で停止することができるような速度で進行しなければならない。進路の前方を横断し又は横断しようとする歩行者等がある時は、当該横断歩道等の直前で一時停止し、通行を妨げないようにしなければならない」とある▼しかしながら、早稲田界隈で自動車が歩行者の前で一時停止するのをほとんど見かけたことがない。これは明らかな違反である。また警官が違反を取り締まることも見たことがない▼このコラムを書くにあたって早稲田界隈にいくつの横断歩道(信号がないもの)があるのか調べてみた。早大生に関係ありそうなもの、全部で約十。そのすべてに一分間ずつ立ってみた。結果、停止した車の数一台のみだった。徐行する車もあったが、その反対に速度をあげる車もあった▼歩行者のために作りながら歩行者用になっていない不可思議な横断歩道。一体、何のために存在するのか?▼考えた末の結論は、これは道路関係建設業者への公共事業の一環なのではないか、ということである。もっともらしい道路標識を作ることで建設業者へお金が流れる仕組みなのではないか▼そうはいっても安全確保は切実な問題である。どうすれば早大生は安全に道を渡ることができるのだろうか。提案は、隣接横断歩道の前後にバンパーを作って、一時停止せざるを得ない状況をつくることである▼ただしこれは公共事業予算を更に増やすことにつながるという欠点があるのだが。

(TM)

(2005年5月19日掲載)

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First drafted 2005 May 19.


2005年5月12日


 日本を愛することにかけては日本人以上であった小泉八雲は同時に真正の自由主義者でもあった。彼は、日本が欧米列強の中にあって真の個人主義を学ぶことなしに古来の伝統を離れるならば必ずや民族の自滅に至ると予言したが、歴史は、まさにその通りとなった▼ところが敗戦後六十年を経た今日でも官民貴賎を問わず集団主義と責任回避のみが横行し個人主義は、まったくと言ってよいほど日本の社会には根付いていない。その一方で八雲の愛した日本人の美徳はことごとく消えうせ、皇統すらもその存続は危ういかのように見える▼このような状態が続けば八雲の予言が再び現実のものとなる日も、そう遠くはあるまいと思われる。それを回避する手段は唯一つ、一部勢力に耳を貸すことなく、あくまで自己責任に基づく自由主義の原理を日本の伝統の上に確立することである▼武士道の精神を知っていた私たちにとって、勤勉・努力・礼節などの美風が社会の一部に僅かに残存している今ならば、それはまだ十分に可能でもあるし試みる価値がある。八雲は、それを期待していたはずだ。ハイエクが述べた「真の自由主義は未だ試みられてもいない」という言葉は二十一世紀の日本においても、なお真実である▼小泉八雲が晩年を早稲田で過ごし最後の労作「神国日本」の出版に力を注いだことは、若い人にはあまり知られていないのかもしれない。もしそうであるならば、今年から新しく早稲田人となった諸君には、まずは八雲の著作から多くを学んでほしいと切に願っている。

(な)

(2005年5月12日掲載)

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First drafted 2005 May 12.


2005年4月28日


 二〇〇五年度の新入生を迎えたキャンパスは、いつもの春と変わらずとても賑やかである。さて、これまでと同様に「入学おめでとう」と優しく微笑んでいれば良いのだろうか▼今、私たちは歴史上大きな節目となる時代に生きている。たとえば、間もなく日本の総人口が減少に転じることが予想されている。これは拡大再生産型社会の終焉を意味する。すでに、昨年十月から男性の人口は減りはじめているという。戦後六十年の歳月を経て、いわゆる右肩上がりの日本社会の行く末の将来像は雲散霧消してしまった▼ちょうどジェットコースターが牽引されながら最高点に到達する寸前の光景を思い描くと良いだろう。レールは視界から消え、眼前にはぽっかりと虚空がひろがり、つぎの重心移動の刹那、一瞬の目眩とともに、私たちは一気に奈落の底を覗くことになる▼もはや、既成の価値観はまったく役に立たなくなっている。早稲田に通う学生諸君のジェネレーションには、既成の社会を破壊していく役割が求められているのだ。君たちは青春の荒野にたたずんでいるのではなく、ポンコツやガラクタがそこら中に転がっていて足の踏み場も無いような廃墟にたたずんでいるとの自覚を持ってほしい。役立たずの既成の社会の仕組みを手当たり次第叩き潰していくような野性味が必要だ▼そうアジテートしようと思って窓の外に目を移すと、何ともハッピーそうなサークルの新人勧誘風景に遭遇する。早稲田は優しい羊の群れが集うところではない。

(春)

(2005年4月28日掲載)

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First drafted 2005 April 28.


2005年4月21日


 「戦死」ということばを聞いて皆さんはどんな光景を思い浮かべるだろうか。多くの場合、「戦闘中に敵弾に当たってバッタリと…」といったものではなかろうか。しかし旧日本軍の場合、日中・太平洋戦争の軍人・軍属の戦没者約二百三十万人のなんと約六割が栄養失調による病死・餓死であったとも言われている(藤原彰『飢死した英霊たち』)▼したがって時に美しく英雄的なイメージで語られる戦死の多くの現実は、自分の傷口に湧いた蛆虫さえ食いつつ野垂れ死んでいった将兵の屍の山なのである。過度の精神主義・攻撃至上主義のもと、自己の存立に不可欠な補給や防御を軽視した軍隊の末路がこの惨状であった。しかしこれを我々は単なる旧軍の愚行として笑えるであろうか▼今日の日本の食糧自給率は、熱量換算で四十パーセント程度に過ぎず、残りは「輸入」即ち「補給」に依存している。しかし環境変化や農地の都市化による食糧生産の減少、価格の上昇、日本の経済力低下等により、今後も食糧を安定的に確保できる保障は存在しない▼消費社会、情報化社会の中で、IT産業やネットビジネスがいかに栄えようとも、それだけでは我々は食えない。誰かがどこかで地道に田畑を耕してくれて、その収穫を入手できて初めて我々は生きていけることを常に忘れてはならない。PCも携帯も放り出し、疲労と空腹でフラフラの身に鞭打って本庄や所沢の校地を開墾し、僅かにとれた芋を奪い合うような日の来ないことを切に祈る。

(東チサ)

(2005年4月21日掲載)

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First drafted 2005 April 21.


2005年4月14日


 ある学生が妙なことを始めた。「コーヒーを飲みながらトークする店をもつ」という▼毎回テーマを決めて二十人ぐらいで談義をやろうというのである。テーマはあらかじめHPに流しておき、そこで意見交換をする。日を決めて、そのテーマの講演をしてもらい、それを中心に討論するのだという。会員制にしないのは、年齢層も幅広くしたい故だ▼ファラデーの聖夜教室や王立科学クラブなどをほうふつさせる。といって往時の喫茶店でのいわゆる駄弁りも、もっと遡れば井戸端会議だってそうだ。「それそれ、井戸端会議の現代版ていう感覚なんです」。設立の話をしにきたときに、彼はそう言っていた▼この学生との接点は、オープン教育センターのテーマカレッジだ。自然科学や科学教育を骨子として、毎回テーマを決めてそれに応じたプレゼンと討論をする。この授業を始めて五年になるが、学生間でもそこそこ好評らしく、無論筆者も気に入っている。そんな形態を街中で具現したいという。「何だ、じゃあ私の授業は井戸端会議と見做されていたのか!」というと、彼はにやにやしている▼変わっているのはそれを起業として考えていることだ。実益といったって、「コーヒーとケーキでそんなことして一体儲かるのかしらん」といささか心配になる。が、そこはそれ、失敗を恐れないのは若者の特権でもある▼このほどその第一回目の講演会を行なうといってきた。折角だから青い香りのコーヒーを飲みにいってみようか。

【URL】http://www2.bbweb-arena.com/cophia/

(M・E)

(2005年4月14日掲載)

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2005年4月7日


 テレビCMが不快でならない。ひとつにはCG技術の発達がある。十五秒の間に派手なイメージが明滅する。子供が目を回したポケモン顔負けだ。それ以上に、バックに流れる喧しいだけの音楽。テレビ局がCM時に音量を一、二割上げているような気がするのは被害妄想だろうか。だが、この攻撃はリモコンのミュートで撃退可能だ▼問題はCMの内容。本来、子供の目に触れるべきでないCMが、白昼大手を振ってまかり通っている。筆頭はサラ金。高利の借金をしてまでモノを買うことが、まるでこの社会の美徳であるかのようだ。いやいや、確かに美徳なのだ。景気のためなら何でもアリの世界だ。援交、かつあげ、強盗が減らないのも道理▼賭博の宣伝も道の真中を闊歩している。競馬はいつからカップルで楽しむ「おしゃれな趣味」に変わったのか。いつから競輪・競艇は見るスポーツに昇格したのか▼タバコの宣伝は激減したが、酒類の宣伝はエスカレートするばかり。女性向きの果実酒に、翌日すっきりの芋・麦焼酎。加えて、いつからビールは清涼飲料水と見まがう爽やかな飲み物になったのか。これでは中高生に飲むなと言っても無理でしょう▼冗談のような偽善も日常茶飯事だ。「モノより思い出」というキャッチフレーズの家族用ワゴン車の宣伝。車がみんなの欲しがる「窮極のモノ」でなくなったのは事実ですけどねえ▼CM中だけスクリーンセイバーが働くテレビは開発されないものか。そういう新型テレビのCMを心待ちにする今日この頃である。

(三工)

(2005年4月7日掲載)

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First drafted 2005 April 7.