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戦後60年の今、振り返る
最後の早慶戦


 1903年以来、100年を超える歴史を持つ早慶野球戦。その中に「最後の早慶戦」と呼ばれた試合がある。1943年秋、学徒出陣直前に行われたこの試合は、後に『英霊たちの応援歌』というタイトルで小説や映画にもなった。

 先月末まで大学史資料センターで開催された展示企画「最後の早慶戦」での資料や、試合当日、本学1番・二塁手として出場した森武雄さん(84)のお話から、あらためてこの時代、そして早慶戦の意味を見つめてみたい。

「最後の早慶戦」早慶両校記念写真
▲ 「最後の早慶戦」早慶両校記念写真

最後の早慶戦開催前夜
 〜最後の早慶戦、今の世の名残に頑張らん〜

野球部時代の森武雄さん
▲ 野球部時代の森武雄さん
当時野球部が使用していたボール
▲当時野球部が使用していたボール。戦時下、飛田顧問の指示によって集められたボールは、戦後、他大学の野球部にも提供され、学生野球の復興に貢献した。

 第二次世界大戦前、東京六大学野球、特に早慶戦は、圧倒的な注目を浴びていた。しかし、戦火が高まるにつれ、「外来のスポーツ」である野球自体がやり玉に上がり、1942年秋季リーグ(本学優勝)をもって、六大学野球連盟は、文部省に解散させられた。翌1943年9月、時の東条英機内閣は「在学徴集延期臨時特例」を決定。学生に対する徴集延期(徴兵猶予)を停止した(理科系の学生は入営延期)。学徒出陣が間近に迫っていた。

 「最後に早稲田ともう一度試合がしたい」という野球部員の要望を慶應義塾長であった小泉信三氏が快諾し、本学野球部に依頼。慶應の依頼を快諾した飛田穂洲(とびたすいしゅう)野球部顧問は、幹部たちと共に大学と交渉するが、田中穂積総長らは当時の情勢を理由に試合の開催を認めなかった。そのため、直前まで実施が危ぶまれたが、1943年10月16日、非公式戦という形で、戸塚球場(後の安部球場、現在は総合学術情報センター)での開催が決まった。  「早慶戦の話を聞いた時、驚くと同時に野球人として幸せで一杯でした。征けばまず命はない。ましてや再び野球ができるとは思えなかった。そんな戦地へ赴く前のはなむけとして、伝統と歴史に輝く花形の早慶戦で送り出してもらえる。これほどうれしいことはないですよ」。森武雄さんは当時を振り返る。六大学野球リーグ戦の中止以降も、本学野球部は練習を続けていた。「飛田先生は『野球は試合の勝敗のためではなく、野球道を極めるためにやるのだ』ということを、身をもって、われわれに教えてくださった。戦争が激化する状況で、目標のない練習は精神的につらかったですが、皆で『早稲田の伝統を守ろう』と励まし合って、練習を続けていたんです」

 森さんは当時の日記に「最後の早慶戦、今の世の名残に頑張らん。慶應は練習不足とは申せ相手にとって不足はない。僅か数日ではあるが最後の野球道に精進せん」と記した。

「學徒出陣」と題された森さんの当時の日記
▲ 「學徒出陣」と題された森さんの当時の日記、徴兵への不安や悲しみ、早慶戦への期待や、開催を認めない早稲田大学への怒りなどがストレートに記されている。
試合前に整列する両校の選手
▲ 試合前に整列する両校の選手。スタンドは学生で満席の状態

最後の早慶戦 開催
 〜勝ち負けを超えた涙の試合、当時のスコアを発見〜


浅沼さんがつけていた当時のスコアブック
▲ 浅沼さんがつけていた当時のスコアブック

 試合はまさに紺碧の空の下、正午に始まった。スタンドは両校の学生で満席。試合は一方的な展開となり10対1で早稲田が圧勝した。「当時早慶両校の実力は互角だった。けれど実施が直前まで決定しなかったため、慶應の部員たちは、徴兵前の最後の休暇に帰省していて、練習ができなかったんですね。でもね、勝ち負けなんて全く関係なかった。選手も観客も通常のリーグ戦とは違う雰囲気でしたね。皆の感情が堰を切って、あふれたのが試合終了後。スタンドのどこからともなく聞こえてきた軍歌『海ゆかば』の歌が、やがて、皆の大合唱になったんです。両校の応援歌や校歌も、皆が肩を組んで涙を流しながら何度も歌いました。早慶戦ができた喜びと、出征のやりきれなさがあの一体感を生んだのでしょう」

 最後の早慶戦の記録はこれまで見つからず、その試合内容は、当時の選手、観客の記憶を頼りに語り継がれた伝説だった。しかし、60年以上の歳月を経た昨年暮、本学野球部の第9代主将であり、元東京巨人軍総監督であった浅沼誉夫氏の長男で幸一さん(後に記録映画の録音家)が、立教中学2年生の当時、この試合を記録したスコアブックが保存されていることが分かり、今回の展示企画で初めて公開され、話題となった。


散っていった仲間への想い
 〜さまざまな想いで受け継がれてきた早慶戦〜

展示企画「最後の早慶戦」に足を運んだ森武雄さん
▲ 展示企画「最後の早慶戦」に足を運んだ森武雄さん
特攻出撃の直前、帰省した岐阜で撮影した近藤選手の最後の家族写真
▲ 特攻出撃の直前、帰省した岐阜で撮影した近藤選手の最後の家族写真

  そして、出征。「今でも思い出すのは、満州へ向かう輸送船の甲板で見た真夜中の日本海です。敵機に見つからぬよう灯りも消していたので、海は本当に真っ黒に染まっていた。その日本海を見て、『もう2度と帰れない、その前に野球人生に区切りをつけることができた』と、感謝の気持ちがあふれましたね」

 出場選手のうち、慶應には死者が出なかったが、早稲田では4人が戦死・戦病死した。その1人、3番・レフトの近藤清選手は、神風特攻隊として沖縄に出撃し、短かすぎる生涯を終えた。出撃直前、「永い間、随分可愛がって戴いて本当に感謝して居ります。…では、元気で往きます」と、姉宛の遺書を残している。この戦争で、犠牲者となった学生・教職員・卒業生等は、早慶両校併せて約7千人(判明分)にも上る。

 戦後、シベリアに抑留されていた森さんは、帰国後仲間の戦死を知った。「僕は帰国してからも野球に触れることができて幸せだったし、あの厳しい時代の歴史の一コマに早稲田の野球部にいたことを誇りに思っています。でも、死んでいった彼らには、僕だけ生き残ってしまって、まことにすまないという思いが拭えないんです。早稲田に限らず、戦後のプロ野球界で活躍できる人が何人も死んでいったんですよ。先日、早稲田に来たとき、学徒出陣を慰霊した『平和記念碑』のある大隈庭園を散歩しましたが、そこでお昼を食べている学生たちの光景は本当に平和そのものでした。そんな現在の学生の皆さんに、僕らの将来の可能性や野球をする喜びを引き裂いた戦争、あの時代のことを知ってほしいと思うんです」

 さまざまな想いが詰め込まれ、受け継がれてきた早慶戦は、今月28日、29日に開催される。


(2005年5月26日掲載)

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First drafted 2005 May 26.