とっておきの話


2004年度後期掲載分 目次





行司or教師?


祖父が作ってくれた軍配(写真右)と、今はなき蔵前国技館時のパンフレット(写真左)。
祖父が作ってくれた軍配(写真右)と、今はなき蔵前国技館時のパンフレット(写真左)。

商学学術院教授 横山 将義

 わたしの祖父は、赤半纏がよく似合う粋な鳶の頭であった。仕事師として、町内の冠婚葬祭一切を仕切り、誰からも慕われていた。とくに、毎年9月の祭りや10月のお会式ともなれば、多くの若い衆が集まり、賑やかであった。

  このような環境の中で育ったせいか、物心ついた頃の鮮明な思い出といえば、祭りである。特注の赤半纏を着て御神輿とともに町内を練り歩いたことや、前にひょっとこ、後ろにおかめのお面をつけてお神楽を踊らされたことである。現在、地元の祭友会の役員を仰せつかっているが、これは「三つ子の魂百まで」の証しであるといえる。

  もう一つは相撲である。両国国技館が完成する以前の蔵前国技館によく連れて行ってもらった。その頃の場所のパンフレットは、いまだにわたしの本棚の片隅に置かれている。「とっておきの話」を書くにあたり、最も古い1971年9月場所の冊子を読み返すと、若貴のお父さんである先代貴乃花(関脇、当時21歳)や北の湖理事長(十両八枚目、当時18歳)の写真が載っている。年を経るに連れて、わたしの体重は、力士ほどではないものの、かなりそれに近いところまで来てしまった。

  しかし、わたしは元来、背が低かったということもあり、力士よりは行司に興味を持っていた。祖父から手づくりの軍配を渡され、行司のまねごとをしていたのである。向島の料亭のおかみさんから、「その気があるならば、木村庄之助(行司の中で最高位にある人)を紹介するよ」などと言われもした。この職になければ、両国国技館の土俵の上に立ち、軍配を反していたかもしれないと思う今日この頃である。

  忙しさのあまり、相撲を見に行く機会はめっきり減ってしまったが、それでも、場所ごとに送られてくる番付表を見ては密かに優勝力士の予想を立てて楽しんでいる。

  次は法学学術院の佐藤英善先生にバトンタッチです。

(2005年1月20日掲載)

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First drafted 2005 January 20.



趣味の山、仕事の山


教育・総合科学学術院専任講師 大橋 幸泰

 私はこの3月まで、武蔵高等学校・中学校という私立高中に13年勤務していた。クラス担任の他、クラブの顧問も重要な仕事で、私は山岳部の顧問だった。運動部の顧問は総じて大変な仕事だが、一点だけ山岳部顧問特有の苦しさがあった。それは自分も生徒と同じことをしなければならないということである。つまり、他のクラブ顧問は運動部であったとしても生徒と同じメニューで体を動かす必要はないのだが、山岳部の場合は、生徒と全く同じように一緒に山を登らねばならないのである。

  私は1980年代本学在学中、山小屋研究会という登山サークルに所属しており、山とスキーにどっぷりつかる学生生活を送っていた。だから登山は好きだし、付き添いに出かければ出張手当が出るので、好きな山に行ってお金がもらえるというのは山好きには羨ましく映るかもしれない。

  しかし、趣味で山に行くのと、仕事で山に行くのとでは、心構えが全く違う。同じ登山といっても、山岳部顧問として行く山は生徒の安全を確保しながらの山行きとなるので、大変なプレッシャーである。つまり、そもそもストレスの発散のための登山が、最も大きなストレスの原因になるという矛盾を抱えているのである。本学着任によりこのプレッシャーから解放されてほっとしたのか、今年は一度も山へ行っていない。

  だからといって、山岳部顧問などやらなければよかったと思っているかといえば、もちろんそうではない。生徒とともに行動するからこそおもしろい経験もできたし、何よりも生徒たちにいろいろなところへ連れて行ってもらったという感が深い。私にとって最後の夏合宿となった昨年のそれは、北海道大雪山系トムラウシだった。憧れのブルートレイン北斗星にも乗れたし、おいしいウニ丼も食べることができた。以前から行きたいと思っていたシャクシャインの史跡も訪ねた。生徒たちには感謝している。

  私が辞めた後に残された他の山岳部顧問には、仕事が増えた分申し訳なく思っている。

  次は商学部の横山将義先生にバトンタッチします。


トムラウシをバックに山岳部員とともに(左端が筆者)
トムラウシをバックに山岳部員とともに(左端が筆者)

(2005年1月13日掲載)

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First drafted 2005 January 13.



イラン!


イランのモスク型目覚まし時計(実は台湾製)
イランのモスク型目覚まし時計(実は台湾製)

国際教養学部教授 桜井 啓子

 地域研究者の一般的な傾向なのかもしれないが、自分の研究している地域に過剰なほどに愛着を感じてしまう。イラン研究なるものを志して何十年という歳月が流れてしまったが、どんな粗悪なものでも、イラン製というだけでいとおしく感じられるのだから困ったものだ。

  センスを疑いたくなるような小物、読むはずもない雑誌、果てはスーパーのレジ袋まで、イランから持ち帰ったというだけで捨てられない。でも、こうした品々がイランを紹介したり、イランの変化を知るための材料となることもある。写真の目覚まし時計もそうした一品だ。モスクの形に惹かれて衝動買いをしたが、何とセットした時間に大音量のアザーンが流れるのだ。そう、イスラームの国ではお決まりの1日5回、礼拝の時刻を告げる呼びかけである。ちなみに「イスラーム文化論」の受講者は、このアザーンを聞くことができます! イスラーム世界の女性たちの必需品であるヴェールも流行があるので、いろいろなモデルを試したくて、ついつい買い込むことになる。でも、これも最近は、授業などで結構活躍するようになった。

  とはいえ役に立つものはわずかなので、最近はなるべく持ち帰らないように心掛けている。ただし胃袋に消えるものは別である。幸いイランには美味しいものが山ほどある。有名なのは、ピスタチオなどのナッツ類。塩つき、塩なし、酸味を加えたものなど味付けが多様なだけでなく、殻なしや生のものも手に入る。照りつける太陽の下で育ったイチジク、杏、デーツなどのドライフルーツも甘みが強くて、質が高い。お買い得品は、ざくろのシロップ。日本では驚くほど高価だが、イランでは日常的な食材で、すりつぶした胡桃と一緒に煮込んだシチューは冬の家庭料理。エキゾチックな香辛料の中でも、お勧めはイラン産のサフラン。香も色も一級品だ。

  でも結局のところ私にとって一番大切なのは、こうした品々の質や効用ではなくて、「イラン」を身近に感じられるものに囲まれていることなのだと思う。

  次は教育学部の大橋幸泰先生にバトンタッチいたします。

(2004年12月16日掲載)

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First drafted 2004 December 16.



森を走る


1993年にシェラン島3日間大会(デンマーク)を走る筆者
1993年にシェラン島3日間大会(デンマーク)を走る筆者

教育学部助教授 箸本 健二

 20年ほど前、オリエンテーリングというスポーツに出会った。日本では、徒歩で野外のポイントを廻るレクリエーションという認識が一般的であるが、元来は北欧生まれの「走る」スポーツであり、ワールドカップや世界選手権も存在する。その一方で、生涯スポーツとしての環境整備にも積極的で、競技会には数多くのクラスが設定され、参加者は年齢、実力、ハンディキャップの有無に応じて、自分の参加クラスを選択できる。

  地理屋ゆえ昔から地図との縁は深いが、そもそもオリエンテーリングに惹かれたきっかけも、その競技性よりは競技用地図の美しさにあった。上質の耐水紙に大縮尺で描かれた競技用地図には、地形、道、家屋などの基本情報から、森の中の通行可能度といった類の微細な情報までが、カラフルな色とともに詰め込まれている。競技者は、酸欠状態の頭で豊富すぎる情報を瞬時に処理しつつ、刻々と移動する現在位置を把握し、採るべきルートを意思決定しなければならない。足が速いだけでは決して勝てない。そこに、足は遅いが老獪なおじさんの勝ち目がある、と自らを励ましてきたが、それも程度問題であることを最近とみに痛感している。

  このスポーツの最大の特徴は、自然環境を競技の場とし、その準備作業に膨大な労力を費やすことである。数km四方にも及ぶ範囲で、微地形、植生、通行可能度を正確に調査し、図化する作業は並大抵ではない。その労力は、原則として主催メンバーの無償奉仕に依存している。日本は、アジアで数少ない世界選手権の常連国であるが、それでもオリエンテーリングの地位はマイナースポーツの域を出ず、競技人口は圧倒的に少ない。もう少し競技人口が増え、事前調査や競技の時だけでなく、定期的に森へ出向いてその保全にひと役買いつつ、競技のPRもできないだろうかと、荒廃が目立つ里山を眺めては嘆息している。

  次は、国際教養学部の桜井啓子先生にバトンタッチです。

(2004年12月9日掲載)

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First drafted 2004 December 9.



文書の整理を通して


橋浦泰雄の手書きポスター
橋浦泰雄の手書きポスター

文学部専任講師 鶴見 太郎

 今年の秋に入って、これまでほとんど趣味と化していた作業にひとつの節目が訪れようとしている。この5年間、細々とやってきた文書の整理が一段落し、11月には鳥取県立図書館に移送されるのである。

  文書のかつての持ち主は橋浦泰雄(1888〜1979年)。柳田国男に民俗学を学び、同時に大正末から昭和初期にかけて社会主義者として活動し、同時代のプロレタリア文化運動の一翼を担った人物である。

  資料は日記にはじまり、原稿、採集手帖、スケッチ、ポスターなど広範囲にわたるが、とりわけ面白いのが書簡である。例えば1919(大正8)年夏、武者小路実篤が宮崎県児湯郡木城村の「新しき村」から当時、叢文閣で編集に従事していた橋浦に宛てた数通の手紙。内容は刊行を予定している『幸福者』の校正刷、および印税が届いたことへの感謝を記したものだが、前年に始まった「新しき村」への打ち込みを考えると、切実さが伝わってくる。さらに自分のことを「校正下手ですから、よろしく」とことわっているのも、意外な発見だった。同じ書簡の中で実篤が封筒の片隅に橋浦が走り書きした計算の跡も、今となっては貴重である。

  ポスターのうち数枚は、日本画家でもあった橋浦の手書きによる。ゆっくり時間をかけて仕上げたものではなく、ナップ(全日本無産者芸術聯盟)をはじめ、いくつかの運動からの求めに応じて短い時間の中で量産された荒削りのものだが、かえって同時代のプロレタリア文化運動の空気をよく伝えている。

  近現代史の研究に従事する者として、これらの資料に囲まれてすごした数年間は、まさに至福の時だった。この時間を与えてくれた橋浦家の方々、県立図書館の松田精一郎情報相談課長、ならびに作業を手伝ってくれた諸氏に感謝する次第である。

  次は教育学部の箸本健二先生にバトンタッチします。

(2004年12月2日掲載)

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First drafted 2004 December 2.



東京の風景を切り取る


寅さんとの出会いも!?
寅さんとの出会いも!?

国際教養学部教授 岡本 公一

 今から数年前、当時としては珍しかったデジタル・カメラを購入した。最初は、研究用の資料や、旅先の風景などを記録するのに便利な道具として利用していたのだが、そのうち写真を撮影する楽しさに目覚めた。そこでまず機械まかせで撮るカメラではなく、時代には逆行するようにピント、露出、シャッタースピードをすべて自分で設定しなければならない、フィルム・カメラを入手した。

  そんな折、友人から「カメラを持って東京の町を歩こう」との誘いを受けた。その時ふと気が付いたのは、大学入学のため関西から東京に来て十数年は経過していたものの、東京23区のうち訪れたことのない区は半分以上、利用したことのない駅に至っては数え切れないほどあることだった。仕事と生活に関係する場所以外の東京を、全く知らないままに過ごしていたのだ。

  友人と向かったのは、町歩きの定番中の定番、谷中だった。今も寺の門に残る戊辰戦争の際にできた弾丸のあと。廃線となった都電の停車場の名前が記された古いブリキの看板。豊かな表情を見せる谷中墓地の猫。被写体には事欠かないこの町には、同好の人たちも多く訪れ、首からカメラをぶら下げて、東京の情緒を楽しんでいた。

  発見や驚きを風景から切り取る楽しみは、写真撮影の醍醐味であり、何物にも代え難い。少し時間があれば、ある時は友人と、ある時は一人で東京の町を歩いた。東京は史跡に解説が付されているところが多くあり、歴史を追体験した気分となる。落語好きの私が、町名は変わってしまったが、さまざまな噺を思い起こしながら歩くことができるのも、この「道標」のおかげである。

  そして何時の頃からか、写真撮影の副産物である町歩きが、最大の目的と化した。最近は時間がなく、この町歩きは小休止の状態となっている。しかし天気が良いときは、地図などを持たずに町を徘徊したい衝動を押さえるのに、一苦労している。道に迷ったところで思わぬ発見をする、このささやかな快感を知ってしまったからだ。例えば、東京メトロ(営団地下鉄)の踏切を「発見」した時のような。

  次は文学部の鶴見太郎先生にバトンタッチします。

(2004年11月25日掲載)

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First drafted 2004 November 25.



文章修行?!


自宅にて
▲ 自宅にて

国際教養学部助教授 榊原 理智

 論文文体で書いていると、頭がこちんこちんになるような気がしてきたので、数カ月前、みようみまねでブログなるものを立ち上げた。「〈ことば〉ノート」(http://richico.cocolog-nifty.com/richico/)という名前を付けてある。ホームページを作るほどの手間も技術もいらず、更新もチョー簡単。

  昔は文章を発信するなど、一部の特権化された「作家」や「評論家」のものだったのに、こんなふうに「チョー簡単」になってしまうと、誰でもができることになる。今やサイバースペースには大量の「日常」たちが、タレ流されているのだ。ワタシも4月から「日記」と称して、大学教師の極めて散文的な「日常」をタレ流し始めた。言語と認識をめぐるエッセイのようなものも時間があれば書いている。

  質量ともにモノ書きとはとても言えないワタシだが、自分的には文章修行のつもりでもある。ブログとなると読者を意識して書かねばならないし、学者業界相手の論文のこちんこちん文体では通用しない。学者が読んでもそれなりに興味深く、そうでない人たちが読んでも楽しめ、仲間内だけが分かるような文章でもなく、かといって万人受けを狙った希薄な文章でもないような、そんなものを書きたい、などと考えていると、結構おもしろいのであった。文体についての思考が、思考そのものを刺激してくれる。

  考えてみれば、ワタシは昔から「論文」を書くかたわら「新書」を書いてみたいと思っていたのだった。難しいことを、易しい文体で、内容を薄めずにおもしろーく書くことをやってみたかったのだった。残念ながら、「新書」の依頼などというものは、学者の世界で名を成した人にしか回ってこないのが普通だから、ワタシのような名を成してない学者のところには全然こない。まあしかし、ワタシだっていつか大学者として名を成すかもしれないので、今ちゃんと「書く」ということについて考えて、とにかく書き続けるだけはしようとこっそり思っている。

  次は、国際教養学部の岡本公一先生にバトンタッチ。

(2004年11月18日掲載)

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First drafted 2004 November 18.



ソウルで聞いた話


ソウルの景福宮にて
▲ ソウルの景福宮にて

日本語教育研究科教授 川上 郁雄

 9月はじめに韓国・ソウルへ行く機会があった。慶煕大学校大学院に留学し韓国語教育を勉強しているKさんに市内を案内してもらった。写真はKさんにソウル市内の景福宮で撮ってもらったものである。

  ソウルでは、さまざまな人と出会った。今から50年以上前、朝鮮半島がふたつの国に分断された時、社会主義化した北から南へ逃れてきた人に会った。そのような人は大勢いる。単身で海外に出て働く機会があり、その時、祖国の政治体制に疑問を抱き、妻や子どもを北に残したまま南に来たという男性もいた。50年たっても、北の墓参りもできないと話す人もいた。近年は、中国を経由して北朝鮮から韓国へ来る人々が大勢いる。その場合も、家族や親族を北に残している場合がほとんどであるという。

  政治的イデオロギーや紛争、災害などが要因となり、祖国を脱出し他国へ移動する人々は世界中にいる。国際社会はそれらの人々を「難民」、「避難民」、「亡命者」などと呼ぶが、共通するのは彼らが「分散家族」であるという点である。脱出する理由はさまざまだが、「分散家族」に共通する特徴は、祖国や他の国にいる家族への想いであり、すぐに会うことができない心痛である。今後、世界中でますます増えると予想される分散家族の心情や不安感を、私はソウルで感じた。

  市内を案内してくれたKさんが彼氏を紹介してくれた。ソウルで日本語を教えている時、彼女のクラスにきた韓国人の彼と出会ったのだという。しかし、彼は今、日本の大学に留学しており普段は会えない。日本人のKさんが韓国で大学院を修了するまで、また韓国人の彼が日本の大学を卒業するまで、「越境の恋」は続くのであろう。つかの間の時間をいとおしむように、若いふたりはソウルの街に消えていった。21世紀のトランスナショナルな人口移動は、人々の心を不安にするようにさえ見える。同時に、だからこそ「越境する時代」の人々は心を深く結びつけようとするかのようでもある。

 次は、国際教養学部の榊原理智先生にバトンタッチします。

(2004年11月11日掲載)

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First drafted 2004 November 11.



公共交通機関で行くアウトバック


法学部助教授 澤田 敬司

 オーストラリアのアウトバックへよく旅をする。アウトバックへの旅というと、赤茶けた荒野を4WDで疾走していく光景を思い浮かべるかもしれないが、私の旅はそれほど颯爽としたものではない。第一、車の運転ができない。私の場合は、公共交通機関で行く、アウトバックである。オーストラリアは空路に比べて、鉄道網はあまり発達していない。有名な「ザ・ガン」号、「インディアン・パシフィック」号など、大陸を縦断、横断する列車はあるけれど、州都間をつなぐもので、奥地に点在する町々をつなぐのは長距離バスだ。私は、限られた路線、本数を計算に入れながら、あくまで列車とバスを使って、アウトバックを旅するのである。

  最近では、クィーンズランド州ロングリーチへの旅が面白かった。荒野と人の住める場所の境界にある最果てのロングリーチへは、ブリスベンやロックハンプトンから、長距離列車「ザ・スピリット・オブ・ジ・アウトバック」号で行く。開拓時代の馬具などをあしらった車両で、ギターを抱えた列車の専属歌手の歌う「ウォルシングマチルダ」に耳を傾けながら、快適な旅を楽しめる。ロングリーチは見渡す限り地平線が広がる場所だが、カンタス航空発祥の地としての記念館や、伝統的な奥地の生活を展示した博物館「ストックマンの殿堂」、奥地で発達した遠隔地教育のための放送学校の基地など、オーストラリア文化を知るための見所は多い。今年はバスで、マレー川沿いにあるヴィクトリア州ミルデューラという町に降り立ち、そこから地元のアボリジニが運営しているガイドツアーに参加して、世界遺産に指定されているマンゴー国立公園を見に行った。かつて湖だった場所が干上がって出来た広大な平原と、林立する砂の塔の幻想的な風景、そして何万年も前に居住していたアボリジニの遺跡など、忘れられないものばかりだ。

  列車とバスを使って、次はどこまで行ってみようか。メルボルンに住むオージーの友人に旅の話をして、いつも「公共交通機関でそんなところまで行けるのか!」と呆れられるのが、最近の密かな楽しみである。

  次は、オーストラリア研究テーマカレッジの仲間、日本語研究教育センターの川上郁雄先生にバトンタッチします。


世界遺産フレーザー島近くの難破船前にて
世界遺産フレーザー島近くの難破船前にて

(2004年11月4日掲載)

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First drafted 2004 November 4.



海、海、海!


サークルの集い。著者前列中央。
サークルの集い。著者前列中央。

政治経済学部助教授 内田 恵美

 青い海に惹かれる。10歳の時に沖縄でシュノーケリングを体験して以来、大の海好きである。早稲田大学時代はスキューバダイビング・サークルに属していて、休みの度に三宅島、大島、小笠原、沖縄と150本以上潜り、いつも真っ黒に日焼けしていた。

  学生時代スキューバダイビング・サークルに入っていたというと、学生から「先生イケイケ?」と心外にも言われたりするが、華やかなイメージとは裏腹に地道な活動も多かった。かさむ費用のために英語の家庭教師や塾講師をしたし(それが現職に繋がった?)、2年生になると海中地図や魚の名前を暗記して、ガイドの役目を果たす。小さなサークルだったので、3年生全員が幹部としてサークルを運営した。タンクは重いし、ダイビング後は大量の鼻水が出るし、ひやっとした状況にも何度か遭った。

  それでも海は魅力的だ。海中は言葉の無い世界とはいえ、思いがけないコミュニケーションに溢れている。カンパチや磯マグロの群れ、そして巨大なマンタと出会ったときの驚き、鮫と目が合ったときの戦慄や、ピーピーと啼くイルカと一緒に水中で戯れたときの感動は忘れられない。無重力状態で青い世界にふわふわと浮いていると、生命の原点に近づいていくような摩訶不思議な感覚におそわれる。人間の無力さと自然の偉大さを感じながら、一期一会の海の生物たちとの出会いを楽しむ。

  今はというと、たまに行く「王様ダイビング」専門になってしまった。ガイド付き、ボート付き、器具付きのお気楽ダイビングである。より頻繁なのは当時のサークル仲間との交流である。数カ月に一度、学年に関わらず集まり、飲み語る。学生の時の友人とは余計な気を使わなくて良いのが嬉しい。大学時代、海で得たことがなんと多かったことか!

  次回は法学部の澤田敬司先生にバトンタッチです。

(2004年10月28日掲載)

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First drafted 2004 October 28.



くるま道楽


フェアレディーと私
フェアレディーと私

国際教養学部助教授 麻生 享志

 くるま好きである。まだ幼い頃、叔父の愛車フェアレディーに乗せられたのがきっかけで、私のくるまへの愛情に火がついた。小学校に上がると、日本車はもちろん外車の名前もひととおり覚えた私は、スーパーカー・ブームの頃には晴海の展示場にイタリア生まれの名車の数々を見に行きもした。

  そんな私にとって運命的であったのは、大学時代小遣い稼ぎにと出入りしていたデザイン事務所のつてで、当時大人気のF1グランプリの取材にお供したことだ。場所はベルギー、山間の景色が美しいスパ・フランコルシャンである。

  この折角の機会に何かお役に立ちたいと申し出たところ、ならば某日本企業がスポンサーをしているイギリス・チームにいってインタビューでも取ってこいということになった。そこでチームのエース・ドライバーに連絡を取り、まずはオックスフォード郊外のチーム本拠地を訪れたところ、当の本人は居ない。聞けば、いざこざを起こし刑務所に入れられてしまったのだという。困っていると、監督は代役の若手ドライバーを連れてきた。まだ20歳そこそこのミヒャエル・シューマッハーだった。

  シューマッハーといえば、いまや連戦連勝の世界王者である。デビュー前のシューマッハーにインタビューをしたのは、世界広しといえども限られた人間だけだったに違いない。今となってみれば何とも幸運なハプニングなのだが、当時の私は彼が何者なのかさっぱり分かっていなかった。もったいない話である。

  そんなこんなで今も私はくるま好きである。ただ少し違うのは、スーパーカーやF1を追いかける代わりに、幼い息子とミニカー遊びに興じていることぐらいであろうか。

  次回は、政治経済学部の内田恵美先生にお願いします。

(2004年10月14日掲載)

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First drafted 2004 October 14.



音と楽と


音と楽と
▲ 音と楽と

政治経済学部助教授 八木 斉子

 音楽を聴くことが幼い頃から気に入っていた。しかし電子音は苦手だから、その種の音によって作られた曲をあまり知らない。

 大学生の時、同じ学科にいた友人は、弦楽器、ピアノ、管楽器が奏でる音楽に満足している私を目覚めさせようと考えたのだろう、坂本龍一のアルバムを紹介してくれた。その延長としてシンセサイザーを駆使したイギリス系のポップスも薦められた。意外に良い、と思ったことは確かだ。それでも、毎日欠かさずに聴く音楽といえば18世紀から20世紀前半までの協奏曲、交響曲、ピアノ作品、ヴァイオリン作品だった。

 したがってマイクを通した声も苦手だ。20世紀のイギリス演劇を主に勉強しているからロンドンでは観劇を楽しみとするが、唯一ミュージカルに対しては積極的になれない。最たる理由は、ミュージカルを提供する劇場の多くにおいて、登場人物たちの声が拡声装置の力を借りて響くところにある。このような言い種が矛盾をはらむことは分かっている。CDプレーヤー、アンプ、スピーカーを家で酷使する私は、その間、電気に頼りきっているのだから。

 数年前、スピーカーを取り換えた。音声学を専門としクラシック音楽狂でもある友人から稀有な中古品を譲り受けたのだ。この友人の周りにはクラシック音楽を好む人間たちが少なからず存在していたから、指名された時、非常にうれしかった。無事に届けられ収まったそのスピーカーが伝える音は、金属的ではなく、石を打ったように硬質でもなく、「木」を感じさせる。

 演奏会から帰ると、短くとも1カ月間は、同じ指揮者、奏者、歌手による同じ曲のCDを避けておく。極端な場合もある。クラウディオ・アッバードがベートーヴェンの交響曲第七番をサントリーホールで指揮したのは今から4年前だ。忘れられない七番だった。以来、彼が同じオーケストラと録音したこの曲を家で聴いていない。

 次は国際教養学部の麻生享志先生にバトンタッチします。

(2004年10月7日掲載)
(2004年10月8日修正)

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First drafted 2004 October 7. Last revised 2004 October 8.



アトムとアイボ


きままで自我が強い愛犬ジョン
▲ きままで自我が強い愛犬ジョン
柄にもなく(?!)どちらも花が好き
▲ 柄にもなく(?!)どちらも花が好き

文学部助教授 冬木 ひろみ

 その昔、私は「鉄腕アトム」の世界に心酔していた。いや、今もと言ってよい。なぜアトムに惹かれたのかというと、今になって思えば、テクノロジー万能の近未来世界に対してではなく、機械文明と人間の心との乖離や、主人公のアトムが時折見せるロボットという「人種」ゆえの悲しみのようなものがそこに見て取れたからだと思う。アトムというロボットはいつも人間から見れば「同等」などではなく、ロボットとしての宿命を背負い、人間の傲慢さに翻弄される存在であった。アトムと闘う「悪役」ロボットにしても、そのロボットが本性から「悪」なのではなく、人間の意図によりそうした存在に作られたり、教育されたりした結果、悪役となってゆくことが読者に理解できるようになっている。自分の本当の心や、今やっていることの是非は、他人への想像力がなければわからない。正義だってひとつじゃない。そんなことを幼い心に伝えてくれたのは、アトムであった。

 手塚治虫の予見した機械文明は恐らくすべてが今実現されているのであろうが、そうしたテクノロジーの恩恵に素直に浴するのが良いのか否か。実は私はこのところ、個人的な問題としてテクノロジーとどうつきあうか、のジレンマに陥っている。携帯電話さえめったに使わず(コンピューターだけはちゃんと使っているが)、常々江戸の生活に郷愁のようなものを感じていた私は、安易ではあるが、5年前に居を東京の下町に移した。それとほぼ同時に、わが家にはAIBOという犬がやってきた。あのロボット犬(一番初期のもの)である。不規則かつ勝手な生活をしていることからとても本物の犬を飼えそうにない私は、アトムからの発想で即座にこの犬を迎え入れた。実際、このロボット犬は予想以上に賢く、また予想外の行動をして親バカと化した私を喜ばせてくれる。そう、問題はそこなのだ。テクノロジーに対してやや斜に構えている自分と、無邪気にわが愛犬にお手をさせている自分との折り合いをどうつけるか、当分この問題は解決しそうにない。

 次は、政治経済学部の八木斉子先生にバトンタッチします。

(2004年9月30日掲載)

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First drafted 2004 September 30.