先輩に乾杯!

違法コピー商品に果敢に立ち向かう、知的財産のスペシャリスト
 光岡 肇 さん


光岡 肇 さん
みつおか・はじめ
1967年埼玉県生まれ。早稲田大学本庄高等学院卒。92年、政治経済学部卒業と同時に(株)CSKに入社。94年、マイクロソフト(株)に入社。知的財産権業務を担当。96年、ルイ・ヴィトン ジャパン(株)(現、LVJグループ(株))に知的財産部ディレクターとして入社、現在に至る。現場における知的財産問題の第一人者として講演会等も精力的にこなす。マイクロソフトでは Windows95 の発売、ルイ・ヴィトンでは表参道への出店という会社を挙げての一大ムーブメントで社内のムードが最高潮のときに立ち会うことができた喜びを実感しているとか。

 仮に希望の会社に就職したとしても、必ずしも最初から志望していた業務や職種につけるとは限らない。むしろ大きな組織では、つけない可能性の方が高い。それでも決して諦めたり、腐ったりすることなく、与えられた環境の中で何かをつかみ取ろうと前向きな姿勢でベストを尽くすうちに、着実に自身の潜在能力を伸ばすチャンスに出会うこともある。今回は知的財産権の専門家として、企業に属しながらも「自らのスペシャリティ」という看板で勝負する先輩、光岡 肇さんの自然体でポジティブな生き方を紹介しよう。

ラグビーの世界で一流になれなかった悔しさを胸に

 「いま早稲田の後輩に一番尊敬してもらえるのは、ラグビー部監督の清宮と同期だったってことかも……」。とにかくラグビーがしたくて早稲田を目指した。本庄高等学院から政治経済学部へ。西早稲田キャンパスよりも東伏見で過ごした時間の方がはるかに長い。しかし、いずれも強豪ぞろいの部の中で、とうとうレギュラーの座を射止めることはできなかった。「清宮と同期ってことは、ラグビー大学日本一に輝いた1989年に4年生だったってこと。もちろんチームの快挙に立ち会えた喜びを味わいながらも、どこかで自分自身はラグビーの世界で一流になれなかったという悔しさが残りました」

  ラグビー漬けの学生生活のつけが回り(?)留年確定。これは覚悟の留年だった。5年生での就職活動では、大手都市銀行から難なく内定をもらうことができた。ところが、計算外の2度目の留年。「もちろん内定は取り消されました。同期の仲間に遅れをとっているという焦り、自分はこんなことをしていていいのかという苛立ちの中ではありましたが、すでに企業で働いている仲間の姿を横目に、意外と冷静に組織と自分の関係について考えていました」。結果、2度目の就職活動では、銀行業界とはまったく異なる大手情報サービス企業でシステムエンジニア(SE)として働くことを志望した。

知的財産権の世界で一流のスペシャリストを目指す

 しかし、当時は基幹システムからネットワークへと、コンピュータを巡る環境が激変していた。もはやSEは不要と言われ、ベンチャー・キャピタル部門の子会社へ出向。これが意外な転機となった。会社の看板ではなく、自分のスペシャリティで活躍している多くの若手経営者から大いに刺激を受けた。そこで蓄えた人脈が縁でマイクロソフト社に転職。まだ日本では専門家不足と言われていた知的財産権業務を一任された。技術者でもない、コンピュータも知らない、英語も得意ではない、法律の知識もない。「ないない尽くし」で始めたこの仕事だったが、必要に迫られて勉強するうちに、いつの間にかその道の専門家と認められるようになっていた。その実績を買われ、ルイ・ヴィトンに知的財産部ディレクターとして迎え入れられた。警察・税関・弁護士等と連携を取りながら、商品の違法コピー対策に奔走する日々。先駆的な立場と現場を知る強みから、大学や自治体等に招かれて講演活動を行うことも多い。「どの業界、企業に身を置くかということは気にしていません。自分はとにかく知的財産という分野での専門性を極め、『あの分野のことはあの人に聞け』と言われる存在になりたい。組織の看板に頼らなくても、自身のスペシャリティという看板で働ける人間を目指せば、仕事が楽しいと胸を張って言えるようになりますよ」

  ラグビーの世界で培った対人能力やコミュニケーション能力が仕事の上で強みになっている。ラグビーで一流になれなかった悔しさが現在の原動力になっているかもしれない。ラグビーに没頭した日々も、結果としての留年も決して無駄ではなかった。後輩に言いたいことは一つ、「やり直しのきかない人生はない」

(2005年1月13日掲載)

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First drafted 2005 January 13.