とっておきの話


2004年度前期分 目次




「ニュースの深層」の裏側


右上が筆者
右上が筆者

理工学部教授 木村 忠正

 2003年4月から、衛星放送のニュース番組で週1回キャスターを務めている(スカイパーフェクTV256ch・朝日ニュースター「ニュースの深層」)。番組は生放送、30分ほどCMなしにゲストと一対一で議論するのがメイン。

 開始当初はビデオを見返すのが怖いほどに堅くなっていた。最近ようやく慣れてきたが、やってみてよかったと思えるのは、多種多様なゲストに会えることだ。たとえば2003年7月に河野太郎氏が出演したときは、衆議院解散、総選挙がいつ行われるかが焦点になっていた。すると番組で河野氏は、「横須賀市の職員たちは、11月2日か9日総選挙ということで準備を進めていると聞いた。小泉首相のお膝元である自治体にそうした情報が流れているので、自分もそのつもりで準備している」と明かしたのである。なるほど、そういう情報ルートがあるんだなぁと感心したが、普段会うことはもちろん、一対一でじっくり話を聞く機会など持つことのできないゲストと話ができるというのは、何物にも代えがたい経験だ。

 同時に、映像コンテンツ作りの難しさがよく分かった。筆者は、情報社会論が専門なので、教育の情報化やe-learningに関心をもっている。だが、やはり、学習者の注意、関心を持続的に惹き付ける映像コンテンツ制作は大変だ。衛星波の番組制作費はおそらく地上波と2桁違うと思われるが、それでも一つの番組を作るには、ディレクター、出演者以外にも、音声、照明、カメラ、調整など10人以上のスタッフが関わる。これくらい人的資源を割かないと、見せる映像コンテンツは作れない。

 スカパーは4百万に満たない加入世帯を数百チャンネルで分け合うのだから、数千万世帯を数チャンネルで争う地上波とは別世界。そのため、いまだ、「見てますよ」と言われることは稀で、「ほんとにやってるの?」といわれるが、機会があれば是非ご覧いただきたい。

 次は第一文学部の冬木ひろみ先生にバトンタッチします。

(2004年7月22日掲載)



お芝居


演劇博物館「市川團十郎家代々」展示品から
演劇博物館「市川團十郎家代々」展示品から

人間科学部教授   村上 公子

 いつからか、翻訳劇を受け付けなくなった。かつては宇野重吉、滝沢修、細川ちか子などの演じるチェホフの世界に耽溺したこともあったのだが。日本人が髪を染め、古い時代の洋服を着、大仰な仕草で西洋の芝居を演ずるのを観るのに耐えられなくなったのだ。

 帝劇にミュージカルを見に行ったこともあるが、一度でこりごりした。恥ずかしくて観ていられない。その他「世界の蜷川」演出によるいくつかの舞台、ブロードウェイ・オリジナル・キャストの「本場」ミュージカルなど、性懲りもなく見に行ってみたが、どれも駄目である。

 結局、一番落ち着いて、不愉快でなく観ていられるのは、日本の歌舞伎か、西欧の劇場が引っ越し公演で持ってくる、ストレート・プレイかオペラだ。能や狂言もよいのだが、素養の欠如のためだろう、能を拝見していると、十中八九寝てしまう。文楽は目が疲れる。何トカ歌劇場引っ越し公演などというと、とんでもなく高価だし、切符を手に入れるために電話をかけ続けねばならなかったりする。それほど暇ではなく、お金もないので、最近は歌舞伎座に行くことが多くなった。

 歌舞伎だって安くはない。しかも、歌舞伎座の切符の売り方は、やはりお客に電話をかけさせることを前提にしている。人気のある役者が出る月は、まあ大変な騒ぎになる。何度か痛い目に遭ったので、今は贔屓の役者の後援会に入って、そこを通じてチケットを買うようにしている。そうすると、その人が出ない公演には行かないことになってしまうが、経済的にはそれで丁度よい。

 別に歌舞伎の素養もない。だから、踊りになるとこれも十中八九寝てしまう。しかし、能楽堂で居眠りをすると何となく後ろめたいが、歌舞伎座で寝てしまっても、それほどでもない。チケットは高くなり、芸術院会員だの人間国宝だのが沢山出ていても、歌舞伎は庶民の楽しみ、下世話なものであった時代の雰囲気が残っているからだろう。要するに私は「お芝居」が好きなのだ。

 次回は理工学部の木村忠正先生です。

(2004年7月15日掲載)



アマゾンの味


 ピラニアの唐揚げは白身でくせのない味
ピラニアの唐揚げは白身でくせのない味

教育学部助教授 久保 純子

 海外での学会・研究会は欧米が夏休みである6月に開催されることが多い。早稲田大学は前期授業期間中ではあるが、今度の研究会はアマゾン流域でフィールドワークを行うと聞き、居ても立ってもいられなくなった。さいわい周囲の先生方のご理解をいただき、昨年(2003年)6月中旬、ブラジルのアマゾン川上流域で河川地形に関する野外研究集会に参加させていただくことができた。

 東京からロサンゼルス経由でサンパウロまで24時間、そこから国内線でアマゾン川沿いのマナウスへ戻り、小型機に乗り換え、ペルー、ボリビアと国境を接するアクレ州のリオブランコまで丸2日くらいかかった。現地では幹線道路沿いをバスで移動し、ボートに乗り換えて川沿いの地形や堆積物を観察し討論した。アマゾン支流のマデイラ川は現在調査をすすめているカンボジアのメコン川下流と規模がよく似ている。河床のところどころに基盤岩の露出が見られ、平原の中に滝を形成しているところもラオス・カンボジア国境のコーンの滝とそっくりで、大陸の河川の特色をみることができた。

 幹線道路沿いは熱帯林が切り開かれ延々と牧場が続くが、牧場の中はサバンナのような景観で、ここが熱帯雨林帯の中であることを思い出すのに時間がかかった。しかし、牧場として使えるのは数年間で、決して「持続可能な」やり方とは言えない。土地が広大で人口が希薄なアマゾン流域だからこその開発だったのだろう。

 リオブランコからの帰途、マナウスであこがれのアマゾン本流に接することができた。小さなボートでピラニア釣りに挑戦し、釣った獲物を唐揚げにして食べさせてもらった(写真参照)。スープの中にふんわりと浮かぶ切り身は、全長2に達するピラルクーという魚で、どちらも忘れられないアマゾンの味である。

 次回は人間科学部の村上公子先生にバトンタッチします。

(2004年7月8日掲載)



踊る歴史家



7年も前のものですが…ドイツのバレエの仲間と (右奥が筆者)

法学部助教授    弓削 尚子

 学生時代、多い時は週に5日は踊っていた。ただし、当時世の中を席巻していたディスコのお立ち台の上ではなく、薄暗い大学体育館のダンス室や、規律厳しいバレエ学校の教室でのことである。ドイツに留学中も、日本では考えられないほど安価でバレエのレッスンを続けた。旧東ドイツ出身の歯学部の学生や、ドイツ生まれのイタリア人学生など、友人の輪は広がり、出産直前までわれわれの指導をしたバレエ教師の姿に感動したりした。その後、日本に戻って、論文執筆のために中断することはあったが、現在もほそぼそとレッスンに通っている。「踊る歴史家」なんて日本では私だけ! と妙な自負心をもっていたが、このコラムに登場する先生方の芸達者ぶりに、そのような自負心も吹き飛び、やはり極めるべきは、「踊る歴史家」の道ではなく「研究熱心な歴史家」の道だと反省している今日この頃である(!?)。

 バレエをやっているわりには姿勢があまり良くないね、と言われるが、「健康のため」、「ストレス解消」、「気分転換」など、私にとってバレエの効能はいろいろある。とくに最近感じるのは脳の活性化。ずいぶん大げさなようだが、複雑な振り付けを瞬時で覚え、体の動きに移し変えるには、日頃、大学教員として生活しているのとは別の脳のはたらきが必要とされる。

 趣味としてやっているはずなのだが、バレエの先生は容赦せず、私はときどき落ちこぼれである。先日、私が手の動きを間違えた時のこと。普段ならば少し注意を受けるだけなのに、その日はなぜか先生はあらん限りの憎悪のまなざしで私をにらみつけ、どなりつけた。私はクラス全員の前で、頭をうなだれ、先生の突き刺さんばかりの言葉がいつ終わるのかとじっと待っていた。人にこれほど激しく怒られたのは久しぶりのことである。教員という職業は、人を怒ることはあっても、怒られることはあまりないなぁ、などと考えながら、今週もけなげにレッスンに足を運ぶのである。

 次は、教育学部の久保純子先生にバトンタッチです。

(2004年7月1日掲載)



ドイツの子どもの本


指しゃぶりっ子の話1
指しゃぶりっ子の話2
「指しゃぶりっ子の話」
ホフマンの『くしゃくしゃ頭のペーター』(1845)より

文学部助教授    山本 浩司

 もっともらしい題をつけてはみたものの、ごく最近までおよそ児童文学とは無縁だった。たしかに「ドイツ文学」などという看板を掲げていると、エンデ、グリム、ケストナーあたりの好きな学生さんが迷い込んでくることがあるけれど、どうも彼らのきらきらした目の輝きが苦手で、頭を下げてお引き取り願ってきた。

 そんな私が、家庭の事情により、近頃は難解な専門書は埃をかぶるにまかせ、子どもの本ばかり読んでいる(こんなこと大学のプロパガンダ紙で書いちゃいけないんだろうけど)。それも声音まで使って。金儲けのためならいくらだって声に出して読むことを奨励するにやぶさかではないが、ただで世にもくだらない文章を読まされるのではたまらない。というわけで、にわかに図書館や本屋の児童書コーナーに通いつめるようになった。

 そうやって見つけた本の中で『機関車トーマス』などに競り勝ったものを挙げれば、岸田衿子/中谷千代『かばくん』、谷川俊太郎『ことばあそびうた』『めのまどあけろ』。それから村山籌子/村上知義の『3びきのこぐまさん』(童画の知義はベルリンに留学し日本のアヴァンギャルドを先導した才人)。1920年代にこんなモダンな子どもの本が作られていたなんて、読むたびに感激することは間違いない。

 逆の意味で聞き手の心に残ったものもある。あれはまだ彼が「指しゃぶり」をやめられない頃のことだった。たまたま手もとにあったドイツ語の本(Der Struwwelpeter)をでまかせに訳しながら読み聞かせてやったところ、発狂せんばかりに泣き出し、まさにその瞬間から悪癖を永久に卒業したのだ。今ではこの本は本棚の奥深くに隠匿され二度と日の目を見ることはない。その部屋の扉が開いているだけでも、彼はぶるぶる震えだし、パニックを起こすから。ほんと19世紀ドイツの児童教育は神経症患者をたくさん産み出したかもしれないけど、やっぱり優れているよな、と思ったしだい。

 次回は法学部の弓削尚子先生です。

(2004年6月24日掲載)



包丁片手に


政治経済学部教授  室井 禎之

アウクスブルクの同宿人たちと。右から2人目が筆者
アウクスブルクの同宿人たちと。右から2人目が筆者

 こんなことを言うと山の神が冷やかな目で「ふうん」とのたまうかもしれないが、私の趣味の一つは料理である。そもそも母親が作るのを見ていてたまに真似をしていたものだが、留学中は貧乏学生ゆえ(じつはかなりよい奨学金を受けていたのだが、もう一つの趣味である音楽会通いの所為せ い なり)必要からいろいろ試すようになっていった。もともと一人でこしょこしょやるようなことが好きなので、性にも合っていたのだろう。

 ふだんは野菜炒めや西洋風ごった煮のようなものを作って簡単に済ませていたが、たまには変化もほしい。例えばカレー。留学先のドイツでは、大きな町に行けば日本食材を売っている店があり、ルーも手に入るのだが、阿呆らしくなるほど高い。根はけちなのである。そこでむきになってみじん切りにしたタマネギを炒め、近くのスーパーで売っているカレースパイスを入れ、トマトその他みつくろった材料で作る。運よくそこそこのものができたことがあり、それからはあまり失敗しなくなった。

 だんだん図にのってきて、ひとにも食べさせたくなってきた。あわよくば誉めてもらおうという魂胆なのである。当時、大きな住居の台所と水周りは共用で一部屋ずつを借りるという形のところに住んでいたので、そこの同宿人たちにご馳走したり、留学生仲間を招いたり、帰国間際に指導教授の家へ押しかけてうどんを振る舞ったこともある。無論小麦粉を捏ねるところから始めるのだから、これは大仕事だった。概ね好評で目論見はうまく当たったが、得意の茶碗蒸しだけは日本人には受けがいいのだが、他の人たちには複雑な顔をされるだけであった。

 教わったものもある。特筆すべきは餃子で、中国からの留学生に伝授された。彼らの手さばきは真似るべくもないが、粉から皮を作る手間はいつでも報いられる。

 近年は不精を決め込んでいるが、6歳になる息子が料理に興味を示し始めたので、彼を巻き込んでときどきやってみるのも悪くないかなと考えている。

 次は文学部の山本浩司さんにご登場願います。

(2004年6月17日掲載)



パンを焼く楽しみ


今日のパンの焼き上がりは…?
今日のパンの焼き上がりは…?

法学部助教授    星井 牧子

 わたしがベルリンで住んだ部屋は古い建物の3階で、その1階がパン屋さんの工場になっていた。材料はすべて有機栽培のもの、お店にある自前の石臼で粉も挽いて、パンの完成までに24時間かかるというお店だった。わたしは街が寝静まる深夜が好きで、毎晩遅くまで起きていた。たしか「朝一番早いのはパン屋のおじさん」という歌があったが、このパン屋では文字どおり「深夜」が「朝一番」だった。だいたい2時には「ゴーッ」とボイラー音が聞こえ、職人さんが仕事をする「カタッカタッ」という物音が聞こえてくる。さらに4時になると別の職人さんが加わって、話し声も聞こえるようになる。6時頃になるとさらに何人かの声が聞こえてくるようになり、パンの焼ける匂いが上の階まで立ち登ってくる。なんだか後ろめたい気持ちになりながら、パンの焼ける匂いのなかで眠りにつく朝もあった。

 だからというわけではないけれど、今の楽しみの一つはパンを焼くことだ。全くの自己流で好き勝手に焼くだけだが、酵母の種を育てたり、粉の配合を変えたりして楽しんでいる。パンを焼く楽しみは同じレシピを使って同じオーブンで焼いても、2度と同じ結果にならないことだろうか。気温や粉と水の加減はもちろん酵母のご機嫌しだいで、パンはいくらでも出来上がりが千変万化する。味も見た目も焼き上がるまでのお楽しみ。だからパンは焼き上がるまでに何度も楽しめる。あきれ顔の家族には「安上がりな道楽」と揶揄されるが、パンづくりは「道楽」どころか、1+1=2にならないところは、大学で授業するのにも通じる真面目な「研鑽」である。こんな言い訳をしながら、ときどきパンを焼いている。いつかまた、職人さんの声と石臼の音が聞こえるベルリンのあのパン屋の上のアパートに住んで、今度こそパンづくりの本当の「研鑽」をしてみたいと思いながら。

 次回は政治経済学部の室井禎之先生にバトンタッチです。

(2004年6月10日掲載)



競わない水泳


高石記念プールにて
高石記念プールにて

国際教養学部教授  飯野 公一

 世の中「癒し」ブームらしい。今回紹介するのは早稲田の隠れた癒しの場、戸山キャンパスにある高石記念プール。カフェテリア横のひっそりとした入り口を入ると、地下に25×6コースの屋内温水プールがある。ホテルのプールと違ってプールサイドで読書というわけにはいかないが、都心の大学にしては贅沢な空間だ。「高石記念」プールは1924年、第8回オリンピック・パリ大会、100m、1,500m自由形5位、800mリレー4位入賞の本学水泳部・高石勝男選手を記念して1925年完成、1956年屋内プールとなり、1992年全面改装されたという歴史を持つ。その時代を考えると日本人初のオリンピック競泳入賞者はさぞ大ヒーローであったのだろう。それから80年が経った今、天才スイマーの名を冠したプールで泳いでいることには感慨深いものがある。

 先日隣のコースでアトランタ、シドニーパラリンピック全盲部門金メダリスト河合純一選手が驚異的速さで泳いでいた。本学大学院に在籍し、アテネパラリンピックの出場も決定したとのこと。私が隣でパタパタ泳いで一往復している間に彼は何往復もしてしまうのだ。同じような経験が昔にもあった。あの北島康介選手が所属する東京スイミングセンターに、私は子供の頃「通わされていた」。北島選手は5歳から初心者幼児クラスに入ったそうで、私とは開始年齢は大差ないはずだ。しかし私には、冷たい水に入ってはブルブル震え、水を飲み込んではむせかえり、とにかく苦痛の思い出しかない。当時隣のコースでは選手候補が魚雷のように泳いでいた光景が今でもよみがえる。彼らは子供の頃から泳ぐことが好きで、楽しかったのだと思う。でも100分の1秒を競いあう競泳選手の彼らにとってプールは癒しの場ではないはずだ。さぞ過酷な緊張の場なのだろう。そんなことを思いつつ、プレッシャーなど無縁の凡人スイマーである幸せをかみしめて、今日も癒しを求めてゆっくり泳ぐとするか。

 次は法学部星井牧子先生にバトンタッチします。

(2004年6月3日掲載)



フェリア、フェリア!


夜になるとたくさんの屋台が出る広場
夜になるとたくさんの屋台が出る広場

政治経済学部助教授 清水 和巳

 1992年から1998年まで足掛け6年、フランスのグルノーブルに住んでいた。グルノーブルはリヨンの南に位置する中都市で、あらゆる窓からアルプス山脈が見える学生の多い盆地の街だった。ここからはるか離れた、スペインとの国境沿いにあるミアスという村の夏祭り(フェリア)に、毎年行くようになったのはいつからだったろうか。そこには仲良くなったフランス人の両親が住んでいた。フランスは多言語・多民族国家で、その地方の人たちはフランス語以外にカタルーニャ語やスペイン語を話し、自分たちがフランス人である前にカタルーニャ人であることを当然のことと受け入れているようだった。ミアスは人口2千人ほどの小さな村だが、3日間続くフェリアのときはのべ2、3万人近い人たちが来る。日本の村祭りにある穏やかさとは全く違う喧騒と熱狂が、白くて熱い日差しの中に充満している。でも、昼間の騒ぎは前奏曲に過ぎない。昼間、遊んでいるのは子供である。大人は、日陰で昼過ぎからゆっくりと食前酒を飲み、料理を食べ、途切れなく会話する。気がつくと肉を焼いた後の炭のおき火の色が分かるぐらいに暗くなってきているが、まだ、飲み、食べ続けている。そして、真っ暗になってからおもむろにボデガ(バー)にいくのだ。たいていは屋外に設けられたボデガでは、音楽が大音量で流され、大量のサングリア、パスティスが消費される。そこでなにをするのか? 踊るのである。あるボデガではジプシーキングスだけがかかり、あるボデガでは70年代のディスコ音楽が中心である。私たちはボデガをはしごして踊り続け、疲れて座る。70歳は優に過ぎたご婦人が朝の5時になっても踊っているのを見ると、理由もなく頭を下げたくなる。夜が朝に替わるころ帰宅するわけだが、そこには夜遊びにつきまとう後ろめたさはなく、あるのはただ爽快感だけである。そして、昼まで寝て、また、同じだけど違うフェリアの1日が始まる。

 次は国際教養学部の飯野公一先生にバトンタッチです。

(2004年5月27日掲載)



フットボール・フリーク


右が筆者
▲ 妻が博士論文の完成の記念にプレゼントしてくれた、贔屓チームのロゴ入りのオリジナルボール。右が筆者

政治経済学部教授  川岸 令和

 最近のビッグ・ベアーズの躍進は喜ばしい限りである。今季こそは甲子園ボウル、そしてライス・ボウルに勝って、日本一になってほしいと願っている。

 それにしても、いつ頃からアメリカン・フットボールを好きになったのか、今となっては記憶も定かではない。小学校高学年の時にはすでに数少ないテレビ番組を見ていたように覚えている。当時アメラグという妙な呼称が一部に流布していたが、日本におけるアメリカン・フットボールの第一次ブームであったことは確かである。また生まれ育った関西では、この競技は最も人気のある学生スポーツであったことも選好の形成に影響していたと思う(正確に言うと、その人気が急騰したのは京都大学がリーグ戦で長く無敗を誇っていた関西学院大学を破り、二強時代に突入してからのことである)。

 観戦の醍醐味は作戦の読みにある。ダウン制の採用により、プレイの圧倒的多数はデザインされている。次のプレイの予測が観戦に奥行きをもたらす。華やかな攻撃に注意が奪われがちだが、守備にも作戦があり、そちらにも注目するとより楽しめる(実際、プロでは守備こそがスーパー・ボウルを制すると言われている)。要するに裏のかきあいが面白い。しかも、一つのプレイで攻撃と守備が一変することがあり、デザインし尽くされない意外性がゲームの進行に複雑さを加味する。しかしそんな講釈はさておき、ゲームそのものを素直に楽しめばよい。大学には大学の、プロにはプロの面白さがある(ハーバード対イェールの試合はザ・ゲームと呼ばれ我等が早慶戦と同様、特別の雰囲気の中で盛り上がり、それはシーズンの成績とは無関係である)。

 ところで、アメリカ合衆国にはフットボール・ウィドウという言葉がある。週末に行われる(金曜に高校、土曜に大学、日曜にプロ)試合に夫が熱中するあまり妻の相手をしないことを茶化した表現である。先の在外研究中、図らずもこの言葉の拡大に寄与してしまい反省しきりである。

 次は、学生に圧倒的な人気の頼れる先輩、清水和巳先生にお願いしました。

(2004年5月20日掲載)



構想と装丁


フェルメールの装画
フェルメールの装画

社会科学部教授 後藤 光男

 大西泰博教授から引き継いで書いている。先生は現在、大学院社会科学研究科委員長を務められるが、機知あるジョークで会議の緊張を和らげる特技の持ち主でもある。私も笑いの効用には常々関心を寄せる者であるので、初めこれをテーマにとも考えたが、ユーモアの達人の前に怯んでしまった。かわりに、教授とのひとつの思い出からはじめよう。

 十数年程前のことになろうか、京都での学会で偶然に宿舎が一緒となった大西先生、時岡弘先生と、酒を酌み交わした。その時、たまたま佐多稲子の『夏の栞│中野重治をおくる│』に話が及んだのである。因みに両先生は、中野重治と同じ福井県出身である。この鎮魂と愛情の一冊を私は新潮文庫で読んでいたのだが、装画が香月泰男の「花」であった。以来、著書を出版する際には、彼のシベリア・シリーズを是非とも使いたいと考えるようになったのである。

 社会科学部の教員が主たる執筆者である成文堂「学際レクチャーシリーズ」も既に約二十五点を数えた。十四点目に機会を与えられた私は『国際化時代の人権』の装画に、戦争の非情を象徴すべく、先の一点を編集者に提案したのだが、装丁全体のイメージ等の観点から、残念ながら変更を余儀なくされたのであった。

 それでは、と次に選んだのはフェルメールの「手紙を書く女性」である。私としては、表現の自由を意味している。そして第二作目の『共生社会の参政権│地球市民として生きる│』でも、同じフェルメールの「地理学者」を採用して、こちらは地球は一つというメッセージのつもりである(作者の意図とは異なるであろうが、写真参照)。

 今迄何冊かの本の編者となったが、素人にはなかなか難しいものがある。中には内容に不一致と思われるような装丁にも出会ったことがある。そのためか、近年の学術書の装丁は幾何学模様が多いようだ。中味は当然のことであるが、本の装丁には著者、編集者、出版社の趣味が表われるようで、とても気になる。第三作目を構想しながら、装画を夢想する日々が続いている。

 次回は昨年秋にイェール・ロースクールから帰国された、政治経済学部の川岸令和教授にバトン・タッチします。

(2004年5月13日掲載)



税をめぐる小さな発見


▲ 租税史料館所蔵 『税務署長の冒険』宮沢賢治著
▲ 租税史料館所蔵 『税務署長の冒険』宮沢賢治著

社会科学部教授   大西 泰博

 数年前からご縁があって、税務大学校において民法の講義を行っている。税務大学校は国税庁の教育機関であり、税務職員に対してさまざまな研修を行っており、研修生も極めて熱心に勉学に励んでいる。ちなみに、私の教えているところは税務大学校和光校舎であり、大変立派な施設である。この校舎の施設の一つに「租税史料館」があることは皆さんご存じであろうか。かく言う私も全く知らなかったことを告白しなければならない。租税史料館には税に関する貴重なものがたくさんあるのでぜひご覧いただきたいが、一つだけここで紹介したいものがある。「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」で有名な宮沢賢治が、「税務署長の冒険」なるものを書いており、大正末に発行された単行本がこの史料館に展示されているのである。密造酒の取り締まりに大活躍する税務署長を描いた童話風の物語であり、宮沢賢治の思想の一面が覗けるようで興味深い。

 密造酒という言葉が登場したので、酒と国税庁にまつわる話をしておきたい。これも実は最近知ったことであるが、明治37年に国税に占める割合の高い酒税を安定的に確保するため、醸造技術を科学的に研究する「大蔵省醸造試験所」が設置され、昭和24年に新しく発足した国税庁が管轄するようになり、今現在は独立行政法人となった「酒類総合研究所」がわが国にはあるのである。ところで少々固い話になるが、酒税法という法律があり、酒税法第三条には、私たちになじみの深い清酒やビールやウイスキー等々についての定義が規定されている。しかし、大学において酒税法の理論の講座の存在はほとんど聞いたことがなく、通常はもっぱら居酒屋等において実践するのみである。酒については、それでよいのかもしれない。

 連絡先は下記のとおり。ぜひご見学ください。

 次は社会科学部の後藤光男先生にバトンタッチします。



 租税史料館 048(460)5300
 酒類総合研究所東京事務所 03(3910)6237
 同広島事務所 0824(20)0800

(2004年5月6日掲載)



最後のコレクション?


コレクションの一部
コレクションの一部

法学部教授    岩志 和一郎

 子どものころから蒐集癖があり、色々と集めてきた。最初はレンズで、これは老眼鏡から落ちたものをもらったのがきっかけであった。蝶の標本や列車の切符はかなり長期にわたって集めたが、蝶は補虫網が似合わなくなって、切符は硬券が姿を消して止めた。いまやこれらは散逸し、机の引出しや、戸棚の片隅に、わずかに残滓を留めるのみである。

 現在のコレクションは、錫のフラットフィギュアである。ご存じない人も多いかもしれないが、要するに板状の錫の人形であり、それにエナメルやアクリルの絵の具で彩色をするのである。15年ほど前、調査でドイツに行ったときに、ニュルンベルクのある店で、オペラの魔笛の登場人物のフィギュアを見つけた。値段を聞いてみると、すべてハンドペイントのため、とても高価で手が出ない。残念そうにしていると、店の女主人が未彩色のセットを持ち出してきて、色のつけ方を教えてくれた。それを購入し、帰国後自分で彩色したのが第一号である。これがきっかけで、この女主人とは親交が続き、その後在外研究でドイツに行ったときも、大変世話になった。

 フラットフィギュアは、もともと舞台のミニチュアや机上での戦争ごっこのために作られたもので、芝居の登場人物や、兵隊(まさに錫の兵隊)のフィギュアが中心だが、物語の1シーンや、時代風俗を写したものも多い。当初は郵送でカタログを送ってもらって注文していたが、現在では彼女の店を含め、いくつかの業者がホームページを開いており、さまざまな種類のものを簡単に入手できるようになった。

 しかし、いまはせっかく面白いものを入手しても、彩色する時間がまるでとれない。大きいセットは百体以上からなり、図鑑等で色を調べながら作業するので、完成まで半年はかかる。ときどき未彩色のものをテーブルに並べて完成後の姿を想像しているが、なかなか片付けないので、家人から迷惑がられている。

 次は、社会科学部の大西泰博教授にお願いします。

(2004年4月22日掲載)



駄犬かわいや


“駄犬”マロン
“駄犬”マロン

商学部教授 片岡 孝夫

 2年半ほど前、子供たちにせがまれて犬を飼い始めた。山梨県のボランティア団体が犬の里親を募集していることを知り、ウサギほどの子犬を一匹もらい受けたのである。後に分かったところでは、数百匹の野犬化した犬を劣悪な環境で飼育している人がおり、県の指導も入ってこのような措置になったようである。

 当初、このオドオドした子犬は大変な臭気を発しており、生後1週間で受けた子宮摘出施術の糸がお腹からはみ出している、という凄まじい状態であった。もちろん雑種であり、獣医に見せても何がどう混ざっているのかさっぱり分からない。体型は狼に近く牙も長い。犬の後脚は4本指、狼は5本指だというが、我が家の駄犬の場合、一方が5本指、他方が4本指である。性格も野生的で、散歩中にヤクザ風の人物を見ると吠えかかるので正直困っている。

 今では6歳の長男と同じくらいの体格になっており、これが牙をむいて低く唸りながら子供たちとじゃれ合っている姿は、知らない人が見たら卒倒ものである。ところがこの駄犬が可愛い。先日、ゼミ生を拙宅に招いて酒宴を開いたが、ゼミ幹事が私の隣に座ると、そこはナンバー2である私の席だとばかりに割り込んで幹事をにらみつける。大根から酢の物まで人間の食物は何でも食べるが、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買い与えた10枚400円の高級ドッグビスケットには見向きもしない。

 私の帰宅が遅いときには駄犬しか迎えてくれないので、晩酌の相伴をさせたりして甘やかしていたのだが、これが裏目に出た。私はなめられてしまったのである。先日私が餌を用意して「ヨシ」と声を掛けたところ、我が駄犬は微動もしない。近くにいた家内を一心に見つめ、真のリーダーから許可が出るのを待っているのである。教育には厳しさが必要だと思い知らされた一件であった。

 次は法学部の岩志和一郎先生にバトンタッチします。

(2004年4月15日掲載)



LAドジャースを訪ねて



ドジャースの監督席で

 スポーツ科学部教授 木村 和彦

 昨年暮れ、アメリカ大リーグの代表的なチームであるLAドジャースを訪れる機会を得た。前オーナーのP.オマリー氏の提案で、本学出身の故アイク生原さんを記念して、ドジャース球団でのインターンシップを始めることになり、学生の引率と打ち合わせを目的としていた。短期間の出張であったが、私が専門とする「スポーツ(ビジネス)」についても、大いに刺激的なものであった。その驚きを2つだけご紹介しよう。

 PRというと単なる広報という意味として使われることが多いが、ドジャースのPR部門は、まさに球団とパブリックとの関係性をいかに良好な状態に保つかを常に考えている部署である。そのために正確な情報の提供やコントロールのみならず、メディアのニーズを把握し、友好関係の構築を目指し、球団幹部、監督や選手に対する助言も行っている。一流選手がメディアと対立的な関係になってしまうことが多い日本との違いの一端は、こんなところにもあるのかもしれない。

 Publications 部門は、ドジャースが刊行する雑誌や読み物を編集、制作する部署であるが、そこには、チーム・ヒストリアン(Team Historian)という歴史家が専門で雇われている。彼の仕事は、ドジャースの歴史を守り、関連する情報が必要になったときに、いつでも誰にでも提供できるようにすることである。かつて40年前に1年間だけドジャースに在籍し、プロ選手として1打数1安打という無名の選手がいた。選手は引退後、ベトナム戦争に従軍し、戦場でワールドシリーズ優勝指輪をなくしてしまった。その無名選手のことをヒストリアンが掘り起こし、2003年ゲームの始球式を彼に依頼することになった。彼が始球式の第1投を投じる前、場内アナウンサーが彼の投球動作を止めた。その瞬間ドジャースの全選手がベンチから飛び出し、彼が失くした優勝指輪と同じデザインのリングがプレゼントされたというのである。

 これらは、野球(スポーツ)が単なる興行を超えた、スポーツ・ビジネスであることを再確認させてくれる。

 次は、商学部の片岡先生が、私の依頼をドッジしないでキャッチしてくださいました。

(2004年4月8日掲載)