えび茶ゾーン 第1023号〜第1037号(2004年4月8日号〜2004年7月22日号) |
2004年7月22日ロンドンの古書店で、『アマチュア陸上競技協会百年史』という本を見つけた。2ポンド50ペンス。500円くらいだ。表紙をめくると、裏側には紙が袋状に、きれいに糊付けされている。なかには丁寧に折りたたんだ紙が入っていた。その横にジョン・シャーマン(John Shearman)という、もとの持ち主の署名。几帳面な人物だったのだろう▼宿に帰って袋の中から紙を取り出すと、タイプ打ちした手紙が2通入っていた。どうやら、持ち主が出した手紙の控えと、その手紙への返信だ。なんとなく読んでみて驚いた。スポーツ史家の私は、恐ろしく安い買い物をしたらしい。持ち主は、モンタギュー・シャーマンの兄弟の孫だというのだ▼シャーマンと言えば、19世紀末に出されたスポーツ百科全書『バドミントン叢書「陸上競技」』の巻の編著者ではないか。持ち主の祖父も陸上選手で、『百年史』に出てくるという。「祖父も父も、私と同じジョンです。ジョンとモンタギューについて詳しく、賞賛をもって書いてくれてありがとう」▼手紙は著者のピーター・ラヴゼイに宛てられていた。ラヴゼイは、スポーツを題材にしたミステリーで有名な作家でもある。もう一枚の手紙はラヴゼイからのものだった。彼は手紙を喜び、シャーマンの子孫がロンドンにいたなんて知らなかったと驚いている。今度、ジョンとモンタギューの話を聞かせてほしいとも▼手紙の送り手と受け手は、そのあと会ったのだろうか。どんなに時代が変わろうと、やっぱり私は「紙媒体」が好きだ。 (昌) (2004年7月22日掲載) |
2004年7月15日健康という言葉の語源をたどってみると、中国の古典『易経』の中にある「健體康心」に行き着く。つまり、體(体)が健(すこ)やかで心が康(やす)らかな状態であり、心身ともの健康を意味している。WHO(世界保健機構)の健康についての定義は、「単に体が病気ではないということだけではなく、精神的にも社会的にも良好な状態」となっていることは有名である。このように古今東西を問わず健康についての考え方には共通するところがある▼「健康でありたい」という希望はだれしも持っているが、えてして日頃はあまり頓着せずに意外と不健康な生活を送っているのではないだろうか? 健康のありがたさを実感するのは、何か病気やけがをして思うように活動できなくなったり、痛みに悩まされたりした時である。その時に、多くの人は「ああしておけばよかった」、「こういうことに気を付けていればよかった」と後悔するかもしれない。そうならないためには、まだ元気なうちに日頃から健康への努力をすることが大切である▼ただし、やみくもに健康のためにはジョギングをすればいいというものではない。努力する前に目標を明確にするということが重要である。自分なりの健康観、健康目標を持つことは、日常の生活の中で具体的に健康への努力をするためには必要なことである。たった一度しかない人生をただ惰性にまかせて「疲れた、疲れた」といって時を過ごすのは、何ともったいないことであろう。ぜひ、メリハリのある毎日を過ごしたいものである。 (S.N.) (2004年7月15日掲載) |
2004年7月8日キャンパス内にかなりの数の猫が定住している。夜ともなると建物の周辺に出没してキャンパスライフを楽しむ。愛しい表情に惹かれて暫し足を止めることもしばしばである。空前のペットブームの影響ではないが、餌をあげたりして、面倒をみる学生諸君のお陰で、猫たちの生活はいたって安定しているように見える。生活が安定してくると、猫も子孫を増やすことを考える。しかしそのまま猫の自由に任すと、猫が増えすぎてキャンパスの環境問題になりかねない▼学生たちの動物愛護団体は猫たちの不妊去勢手術をも手がけて、キャンパスの環境を配慮しながら、猫たちの合法な生存空間を守ろうとしている。一方、去勢された猫の気持ちにもなってみろ、という反対意見もある。動物の自由を奪う行為は、社会問題に発展してしまうのではと危惧する声である。確かに、自然の摂理に任せ、動物の自由を守ることは究極の動物愛護といえるかもしれない。猫たちにとってそっちの方が望ましいに決まっている。問題はこれ以上猫が増えたら、誰が面倒を見るのかということである▼キャンパスの衛生は人間の努力で何とか維持できたとしても、増え続ける猫の生活レベルを維持することは結構大変なことである。周辺住民の迷惑にならないとも限らない。大事なことは、この世に生まれた猫たちに幸せな暮らしを保証してあげることである。ともあれ、大事な会議で猫たちの将来をめぐって教員の間でちょっとした論争が起こったぐらいだから、早稲田の猫は幸せである。 (U・K) (2004年7月8日掲載) |
2004年7月1日今年のプロゴルフツアー初戦のマスターズで、米国のフィル・ミケルソン(PM)が優勝した。PMは無冠の帝王と称され、四大メジャーでは2位に何度かなるものの、優勝したことがない。彼ほどの実力と人気があって、メジャーで優勝できないのは、PGAツアー最大のミステリーとまで言われ続けてきた。また、2年続けてレフティーがマスターズで優勝したことでも大きな話題となった▼最終ホールのパットで、これを入れたら優勝という劇的シーンを見ることができた。ほぼ同じライン上にあった同じ組の他の選手のパットのラインが参考になったとしても、これまでとPMのプレーぶりが違うと誰もが感じ取れた▼家族愛を全面に出し、どんなに大切な試合があっても家族を優先し、その試合を放棄することでも知られていた選手である。技術的にはグリーン周りで絶妙なタッチが出せる、これがPMのゴルフの特徴で、いわゆる天才肌のタイプの選手である▼実力がありながら長年二番手に甘んじてきた選手の優勝は、それなりに迫力があった。才能がある選手であるゆえ、いつかは優勝して当然とみる向きもあった。優勝の技術的な要因は、全米を代表するティーチングプロのペルツと共に積み重ねてきたショートゲームの練習の成果、そしてスミスとのスイング改造の成果であることには異論がない▼しかし、何よりもゲームを進める上での精神的な余裕が今年のPMにはあった。いつもなら自滅しそうな局面でも笑顔を絶やさなかったことが印象的だった。これでますますゴルフが止められなくなった。 (之) (2004年7月1日掲載) |
2004年6月24日先頃、某出版社から、友人が執筆者の1人に加わっている辞書が送られてきた。ポケット版英和辞典の社会科学編である。日ごろ専門用語の邦訳で苦労させられている身。早速ページを繰って専門に近い単語の和訳を眺めてみた。いくつか拾い読みをしてみて、なかなかの出来栄えに感心させられた▼ごく初歩的な英単語であっても、それを専門書の中で訳す場合には、細心の注意を払わなければならない場合が少なくない。valueなどはその典型例で、「価値、評価、価額」のいずれの訳を当てるかで、意味が180度ひっくり返ってしまう場合がある。以前、あるイギリスの本の中で「インフレ期には貨幣value(価値)が上昇する」という文章を読んだときには、何かの間違いではないかと思い込んでしまった。その後、ひょんなことからこの本を翻訳することになり、改めて読み返してみると、valueを価額と訳せば意味が通じることに気がついた。「インフレ期には、貨幣value(価額)が上昇する」。「そうか、そういうことだったのか」と、その時には妙に一人合点がいった▼しかし、valueを価値ではなく価額と訳すことを思いついたのは、もともとインフレの意味を知っていたからである。その意味を知らないイギリス人でも、英語を読んだだけでインフレの意味が正確に理解できるのはなぜだろうか、ということが今度は新たな疑問になってきた▼送られてきたvaluableな辞書を手に取っているうちに、いつの間にか忘れていた素朴な疑問に、また頭を悩まされることになりそうだ。 (ET) (2004年6月24日掲載) |
2004年6月17日一昔前「百円でポテトチップスは買えますが、ポテトチップスで百円は買えません。あしからず」というCMがあった。何でもないような内容だが、じつはここで言われていることには、貨幣と商品の関係をめぐるとても重要で難しい問題が隠されている。ポテトチップスという商品は百円の貨幣と交換可能なのだが、なぜかその交換は一方方向でしか行われないという問題である。これは貨幣というものが個々の商品の中から特別な意味を持って生み出される事情と関係しているのだが、それが経済とは何かを考える上で大切な問題になるのだ▼私たちの身の回りにはこんなふうに謎がいっぱい潜んでいる。ただそれは普通の意味の謎ではない。「見れども見えぬ」という言葉があるが、この謎は私たちの日常意識を支配している常識の枠組みや価値観が私たちの認識に「見ているのに見えない」という状態を強いる結果、生まれる謎なのだ▼大学で行われる学問が高校までの勉強と違うのは、こうした謎に挑戦すること、言い換えればすでに出来上がった知識や情報ではなく、むしろそうしたものによって隠されてしまっている別な認識の可能性を追求することにこそ大学の学問の意味があるからである。そう考えるとき、大学は未知の世界に果敢に挑む知性のジャングルになる。せっかく大学に入ったのに目標が見いだせなくて悶々としている諸君、こんなふうに大学のことを考えてみないか。きっとわくわくして、かったるい気分なんか吹っ飛んでしまうよ。 (J・J) (2004年6月17日掲載) |
2004年6月10日アイスランド共和国寄付講座としてオープン教育センターで開講している「アイスランドの文化と言語」に、今年度は百人を超える学生が参加している。人口30万に満たない小国ながら、エッダやサガという中世文学の記念碑的作品を伝え、現代でも音楽・文学・映画等で独自の地位を占めるアイスランドに、学生諸君が大きな関心を示してくれたのは嬉しい▼オープン教育センターというと、まずチュートリアル・イングリッシュやテーマカレッジが思いつくが、旧語学教育研究所から引き継いだ多様な語学講座にも注目してほしい。中には、アイヌ語やバスク語のように早稲田でしか学べない言葉も含まれている▼英語さえできれば世界中どこでも通用するから、他の言葉は学ぶ必要がないとあなたが考えているとすれば、それは間違いである。大陸レベルで見ても、中南米では英語の通用度は低いし、アフリカでも英語ではなくフランス語やスワヒリ語がリングワ・フランカ(補助共通語)である地域が多い▼問題はそれだけではない。日本語を母語とするあなたが、英語以外の言葉を母語とする人と、英語で話すとき、それは結局間接的コミュニケーションの域を出ない。真に心を通じ合うためにはいずれかの母語を使うのが理想だ▼銘記してほしいのは、言葉を学ぶことが、その言葉を話す人々の文化・世界観を学ぶことにほかならないという点である。どんなに話者数の少ない言語にも、それによってしか表現されえない世界が内在しているのだ。 (K・I) (2004年6月10日掲載) |
2004年6月3日春が過ぎようとしている。春は命が萌え出でる季節、禽獣は子を産む。植物も日ごとに伸び、花を咲かせる。散歩がてらに野草を摘む。ノビルは酢味噌、タンポポの若葉はそのままサラダにしよう。セリならおひたし、山椒の使い途は無数にある。少し車を走らせて、川からクレソンを山のように摘んでくることもある。苦さや香りが、春を飾る。春は楽しい、はずであった▼しかしこの頃、春を単純に楽しめないようになった。生命力の横溢に、ついていけないわが身を感じる。むんむんとする生命の力が、うっとうしい。桜の時期、たくさんのソメイヨシノが満開だと、素直にきれいだと喜べない。幹は黒くひび割れ、老残とも見える姿なのに、薄桃色の花びらが空を埋める。そこに過剰なものを感じてしまう。梶井基次郎の「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という台詞が、以前とは違った意味に見える▼大勢の学生と接する役に就いて、メンタルな病をかかえながら大学に通う学生を知るようになった。彼ら、彼女らも、春がつらい。活気あふれるキャンパスに違和感をもち、春に背を向けている。新入生でにぎやかなキャンパスとは別の、春の風景がある▼齢を重ね、自らの生命力の衰えとひきかえに、春のつらさがわかるようになったことを悦ぶべきだろう。世界の春は、萌え立つ命のみから成り立っているのではない。少し気分のいい日、うきうきと春を楽しむのではなく、やがて過ぎ去ってゆくもの、滅んでゆくものをいとおしむように、春を愛でる。 (朋) (2004年6月3日掲載) |
2004年5月27日ジーコ流かトルシエ流か。サッカーの日本代表監督をめぐって議論となっている。トルシエ流とは、いわば管理型の指導である。その彼は、日韓共同開催のW杯でともかくも予選リーグを突破しベスト16となる成果を挙げた。しかし、日本人選手の持つ能力を引き出した戦いぶりではなく、今ひとつ日本人の琴線に触れる印象を残せずに去っていった▼トルシエの後を受けて代表監督になったのは、世界のジーコである。ジーコ流とは、自由放任型の指導である。国際試合で最高のパフォーマンスを発揮するためには、選手自身の判断力こそが鍵との発想である。管理型では選手を大人にできない、これが彼のメッセージである。ただしジーコ流は、これまでまだ周囲を納得させる実績を挙げていない▼トルシエ流とジーコ流との対比は、大学と学生との関係を考えるうえで参考になる。早稲田の学生指導は、これまで明らかにジーコ流だった。その前提は、学生は大人だということだった。もちろん学生=大人論は、昔から事実ではない。多少のフィクションには目をつぶっても、期待を込めて学生を大人扱いしてきたのだ▼しかし、昨今のキャンパス内外学生諸君の様子を見るにつけ、このおおらかな前提を維持するのは困難となった。こうなると、トルシエ流の学生指導によって事態を好転させる欲望に駆られる。しかし、それで本当に学生は成長するのだろうか。トルシエ流かジーコ流か、はたまた第三の道か、思い悩むこの頃である。ぜひ学生諸君の声をお聞かせ願いたい。 (S) (2004年5月27日掲載) |
2004年5月20日大学で初めて学ぶ第二外国語は新鮮である。少なくとも四、五月のうちは、未知の世界に入りこむという感覚が持続する。しかしこの新鮮さほど怪しいものはない。なぜならほとんどの先進国では中学や高校から外国語を二つ学んでいるからだ▼一年で文法を一通りやるのも大変だ。当初の心地よい驚きも、覚えねばならない単語や動詞の活用が増えるにつれて薄れてゆく。何のために学んでいるのか分からなくなって休んでしまうと、遅れを取り戻すのも難しい。上級クラスに進むどころか、二年度までの必修の単位をそろえるだけで精一杯。毎年繰り返されるこの悲劇は、しかし学生の自己責任というよりは、大学に入ってからしか第二語学を学べない日本の悲劇なのである▼高校で必修でないことに加えて、大学院のカリキュラムにも語学がない。高度な語学や専門以外の教養は、とりわけ修士課程において問われることになる。MITが理系マスターの学生にフランス文学を必修とし、原書を読ませて議論させるのはそのためだ▼いくつもの独立研究科が創られた早稲田においても、既存の研究科も含めた大学院の高度な語学を充実させることが急務である。それは学部の語学教育に弾みをつけるばかりでなく、高等学院などですでに第二外国語を学んだ学生の能力をフルに伸ばすことにも繋がる▼世界はつねに多言語的だから、英語のみがグローバルなわけではない。日本における外国語教育のハンディを乗り越えられない限り、真の「グローバル化」も無理なのである (O) (2004年5月20日掲載) |
2004年5月13日先日、音楽CDをかけながらふと思った。この曲を再生するのに一体何通りの方法(規格)があるのだろうか? と▼私が学生のころは(30年ほど前になるが)、アナログ機器(カセットテープとレコード)だけだった。その後CDが登場し、現在はといえば…そのデジタル・メディア(ここでは、音楽再生のための規格を指す)の数に気が遠くなる。CD、DAT、MD、Hi-MD、DVD、MP3、etc…▼しかし、ここまで多様化したメディアは音楽表現に何をもたらしたのか甚だ疑問に思う。MP3などのサイトを見ると、そこにあるのは時代別、系当別に細分化され、ジャンル分けされた音楽情報である。メディアの種類が多様化しても、カセットとレコードしかなかったあの頃から比べて、「音楽」が多様化したとはお世辞にも言えない▼最近の学生たちは、MDをカセットと同じように使っている。「MDの音は良いですよ」などと言っているけれども、アナログレコード・テープの音で育った人間の耳には、MDの音はあまりに痩せている。それもそのはず、ノイズは少ない代わりに音情報が圧縮されているということは、カットされている情報があるのだ。こういう話をすると、「こだわりますね」とか、懐古趣味のように言われて愕然とする▼量産されるデータのゴミ。目に見えないだけに、我々への侵食度は高いように思えてならない。 (S・K) (2004年5月13日掲載) |
2004年5月6日最近、星空を見上げましたか? 野に咲く花を見ましたか? 何に感動しましたか? 非常に便利な世の中になって、物資も豊富で、豊かさ・ゆとりを感じていますか? 処理すべき情報の洪水の中で溺れそうになっている人々。変化が激しくて、自分自身の価値観に自信が持てない大人と、始めから価値観を持っていない若者たち。自分の価値観をしっかり持っていれば、もっと気持ちにゆとりができ豊かな生活を享受できるのではないだろうか▼大学入学までは、偏差値のお化けに支配され、自分の興味・好みよりも偏差値の高い進学先を選択する。その結果として早稲田にたどり着いた人も多いのではないだろうか。大学で、自分の好み、得意なことを世間の風評に惑わされないで探してほしい。幸い早稲田には、さまざまな分野の研究者がいる▼また、就職する段になって、少しでもブランド価値の高い企業に入社することにばかり目を奪われる。テレビドラマの主人公が勤めている職種の人気が高いとも聞く。一体、自分の好みは何処へいったのだろうか? 皆のあこがれの職業につくことで、本当に幸せを感じるのだろうか。他の人の価値観、それもなんとなくの不特定多数の価値観で動いているので、いざ手に入れても満足感に乏しい。その結果、就職して短期間で転職する者が多い。就職活動をしている皆さんは、本当にそれが自分の好みの職種かもう一度考えてほしい▼「皆がそう言うから」ではない、自分自身の価値観をしっかりもって歩いていきたいと思う。 (公) (2004年5月6日掲載) |
2004年4月22日号フェアプレーという言葉はよく聞くが、どういうことを意味しているのか? フェアプレーとは大きな概念であり、言葉で説明するのは難しいが、簡単に言うとするならば「相手の能力を尊重すること」ということができる。しかし、実際にこのことが守られていないのが現状である▼Jリーグでは、相手を怪我させるようなラフな反則をしたり、抜かれた後、相手を捕まえたり、わざと倒れたり、フリーキックでなかなか離れなかったり、審判にやたらと異議を示したりといった場面がしばしば見られる▼勝つためには反則も必要だとか、審判に見つからなければ反則をしてもいいと思っている選手が高校生でも3分の2もいると報告されている。「勝つためには手段を選ばない」という考え方を断固排除することがフェアプレーの原点である▼JFAでは、「一、ルールを正確に理解し、守る 二、ルールの精神:安全・公平・喜び 三、レフェリーに敬意を払う 四、相手に敬意を払う」の四項目を示している▼フェアプレーを大切に思うかどうかは、子供のときからの指導や練習、試合の中で形成されてくる。フェアプレーがあってこそ、選手がスポーツをする価値があることを十分認識して、我々は指導することが大切である▼最近、巷でも最低限のルールを守れない人々が増えてきている。イエローカード、時にはレッドカードを示したいケースもよく見かける。フェアプレーは、スポーツの中だけに価値を持つものでなく、社会生活にも共通する行動規範なのである。 (九) (2004年4月22日掲載) |
2004年4月15日号世の中は第三者評価・格付け流行り。面白い指標を見つけた。Amazon.com(米国サイト)のSearch Booksを用いた検索がそれである。ここに人名を入れると、現在販売されている自著がある場合は、邦文でもヒットする。しかし昨年辺りから、他者の英文著作中に引用、あるいは言及されている人名もヒットする機能が加わった。心当たりの方は、自分の氏名を入れて試されてみよ。新機能は国際ブランド力の第三者評価の指標として利用できる▼日本の主要大学でアジア研究をもつ学部、大学院、研究所のアジア研究者(日本研究者も含む)の氏名を片っ端から入れて検索してみた。驚くべき? ことが判明。本学のアジア太平洋研究科国際関係学専攻専任教員一人当たり平均引用ヒット数は、格付けすれば間違いなく日本最高に位置する。教官募集の際、毎度インパクトのある論文が5本以上あること、を応募条件としている京大の某研究センターなどは、2名の教官を除けば、皮肉なことにヒット数平均値は限りなくゼロに近い。東大の某研究所も同類である。ところが、我が早大アジア太平洋研究科では、引用ヒット数5以上の専任教員が半数の8名に上るのである▼言うまでもないことだが、米国Amazon.comのヒット数の多寡と、研究の質や国内における知名度とは無関係かもしれない。しかし、外国研究をしている者にとって、見ず知らずの海外の研究者からの注目は大きな励みである。アジア太平洋研究科が、そのような注目を日本のアジア研究機関の中で最も集めていることは事実なのである。 (栗) (2004年4月15日掲載) |
2004年4月8日号大学卒の若い人と職場で接してきて感じた。偏差値の違いはデスクワークをさせてみると、成果の正確性、迅速性という結果となって顕れることがある。しかし、才気煥発ではないが、ひたむきに努力し、失敗を恐れず、責任は自分でとる若者には刮目かつもくさせられる。ふところの深さが加わると、おのずと自分に足りないものを補ってくれる協力者を得て、志を果たすチャンスに遇う。社会に出てからは、これがものを言っている▼1年生の演習を担当してきたが、実に愉しい。自分の意見を持って何かをしようという意気込みに触れることがしばしばある。ただ、4年間の学生生活で視野が広くなっているかというと、必ずしも期待されるほどではない▼少し前に、NHKテレビの「おはよう日本」を担当していた武内陶子さんから伺ったことだが、インタビューで初対面の人から聞きたいことを十分に引き出すためには、まず自分を相手に知ってもらうことが不可欠であるというのだ。また、アナウンサーはニュース1本を約80秒で読むが、そのくらいの時間で伝えるべきことは完結できるという。それで、アナウンサー教育では1分間スピーチを大切にしているらしい。なるほどと思う▼技能習得と人格形成とは中味が違うけれど、身近なアドバイスが向上心の支援につながるという点で同じ。教員は、ゼミやサークルを通じて学生と人間的に触れ合う機会がある。多忙ではあるが、いかに育つかを見ているだけでなく、教育に一層の工夫をし、思索や挑戦の応援に汗を流してみたい。 (2004年4月8日掲載) |
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