とっておきの話

2003年度前期分 目次




地震で崩壊しない街をつくろう

兵庫県南部地震(1995.1)で崩壊した西宮の街の一部分
▲ 兵庫県南部地震(1995.1)で崩壊した西宮の街の一部分
理工学部教授    毎熊 輝記

 今の日本には多くの国民が懸念している深刻な問題が少なくない。ここの話題は、日本の各地で、大きな被害想定がなされているにもかかわらず、実績として進まないわが国の地震防災対策である。今からほぼ9年前の1995年1月17日の早朝、兵庫県南部に大きな地震が発生し、6,433名の犠牲者と多数の負傷者が出たという歴史的事実を私たちは忘れてはならない。阪神・淡路大震災では地震直後に亡くなった約5,500名の人たちのうちの大部分が、建物の倒壊等により就寝中に圧死されたという。

 あの震災から学ばなければならない最大の教訓は、地震の際に犠牲者を出さないためには、住宅の倒壊防止対策が不可欠であるということであった。実際には、建物の倒壊を防ぐためには建替えか耐震補強しかない。しかしあの神戸の地震から9年経過したが、問題が深刻である大都市部での住宅の耐震改修は殆ど進んでいない。このままでは阪神の悲劇の再現が避けられない。

 地震防災対策として緊急かつ最重要な住宅の耐震改修が普及しない理由は、まとめると次の3点になるようだ。(1)人は自分の住宅が地震の時に倒壊する危険があるのか分からない。現実は老朽化したり施工不良の揺れやすい弱い建物は地震の際には崩壊の危険性は高い。あの大震災以降、我が研究室では住宅の動的耐震性能の定量的評価方法の開発に取り組んできたが、やっと目標とする動的耐震診断システムができた。(2)住宅の耐震改修には数百万円前後の費用を要するとされる。けれど高額の耐震改修費用の削減は、解決が困難な問題ではない。(3)住宅の耐震改修に対する住民の意識が低いこと。

 この第3点の住民の意識高揚は相当難問である。しかし、この住宅の耐震改修の推進の問題には、各地の多数のNPOや市民団体が熱心に取り組んでいるので期待したい。われわれの当面の目標は街の地震防災に対して想いを同じくする仲間たちと協力して、例えば板橋区や荒川区のある地域とか、大学の周辺地域の住民が中心となり住宅の耐震改修を数年間に実施して地震に対し安全な街を実現することである。

(2004年1月15日掲載)



材木屋も可なり

ある9月のシャンゼリゼ通り
ある9月のシャンゼリゼ通り
政治経済学部教授  藤森 頼明

 私は子供の頃から、あれこれ色々手を出して中途半端で止めにした方である。良く言われる、「材木屋」である。時間と金銭的な費用を考えれば、多くの事が出来る訳ではない、これは経済学をやるようになって、資源の最適配分を習うようになれば、すぐに判る事であるが、子供の頃はそうは行かない。しかし、中途半端でも時間を無駄にしたという印象は持っていない。

 体を動かす事は嫌いではなかったが、今と変わらぬ受験戦争を経て、概ね室内派に転向してしまったようである。

 私の仕方の共通面は、何でも自分で出来るところまでしないと気が済まないという事である。本業で自作・創作は当然であるが、趣味の対象もそうでないと気が済まないのである。

 自作の最大の大物は、実家の土台作りであった。田舎の親類が我々の父親の家を建てると言う時であった。寸法は九州間であるから、地元の土建屋は嫌がった。やむなく、兄と2人で木造住宅用の土台を作る羽目になった。院生の頃、夏休みを利用して作った。ログハウスも作りたいが、機会がない。

 私は1978年にオランダ政府の奨学金でアムステルダム市立大学に留学した。その頃から、欧州の冬の料理に興味を持つようになった。中心は肉料理で、その為の調理器具なども色々買い集めるようになった。最近の問題は本職でないと良い出羽包丁を購入できなくなった事であろうか。毎月数回、名(迷?)コックをしているが、女性には肉料理は評判が悪い。

 外に出る事と言えば、旅行と写真を撮る時位である。写真も子供の頃から好きで、特に海外へ行くようになってからは、ネガが大量に溜るようになって、整理が追い付かない。最近は重い一眼レフは身に応えるので、軽量小型のデジカメを愛用するようになった。シャッターチャンスと科学的観察眼とは相通じるものがある。

 さて、本業も趣味も、求めるところは同じ、道である。

 次回は理工学部の毎熊輝記先生にバトンタッチします。

(2004年1月8日掲載)



800円

Hawaiian Earring が共同研究課題
Hawaiian Earring が共同研究課題
 ※Hawaiian Earring についてはhttp://www.logic.info.waseda.ac.jp/~eda/index-j.html 参照
理工学部教授 江田 勝哉

 4年前のことだから、物価は今と変わらない頃のことである。横浜で数学のトポロジーの国際集会が開かれた。開会日の夜レセプションがあり、タジキスタンからきた人が私と話をしたいといっていると聞き、会った。私の研究していることに関係していることをしていて、いくつか質問があるというので、そのレセプションの間もずっと、そして次の日も彼と私の論文のコピーをながめながら延々と話を続けた。そのうち、安く泊まることのできるところはないか? という相談を受けた。確かに日本のホテルは値段が高いと日ごろから思っていたので当然だと思ったのだが、集会のためのホテルにディスカウントの値段で泊まっていたので、それ以下というとカプセルホテルか、大学関係の宿泊所ぐらいしかない。しかし、大学関係の宿泊所はいろいろな制限があり、近くの大学ですぐ泊まれるところはなく、その日は別れた。  

 次の日話していると、どうもノルウェーからきた友達の部屋にもぐりこんだようで、ともかく宿泊の問題は済んだからいいというのだ。洋服は僕よりはよいものを着ているし、話していても少しも変な人ではない。そのうち、自分はスーパーマーケットに入って野菜の値段の高さに驚いた、とても買えないという。彼のいった次のことに私は仰天してしまった。彼の月給は800円だというのだ。日本でお金を使う気になれないのは当然のことだ。彼はタジキスタンの国立大学の教授で、800円の月給によってタジキスタンでは不自由なく暮らしているという。

 彼の帰国後は、E-mail を使って社会情勢など話しながら共同研究を続け、共同論文もでき、その後もときどき E-mail によって環境問題、エネルギー問題など、そして数学についてのやりとりが続いている。インターネットはこのように為替レートと無関係に、人とのつながりをつくってくれる。それはそれとして、800円の話は私にいろいろなことを考えさせてくれた。2004年の3月、スロベニアで彼と2週間の共同研究することになっている、再会が楽しみだ。
 次は政治経済学部の藤森頼明先生にお願いします

(2003年12月11日掲載)



リヒテンシュタイン通りのナイトライダー

リヒテンシュタイン通り
リヒテンシュタイン通り
レストランSAGYAの看板
レストランSAGYAの看板
文学部教授 森 元孝

 前号畑惠子先生から頼まれ、秘話ひとつ。ウィーン9区、南北に走るリヒテンシュタイン通り。その北端132番地アフリカ料理店SAGYAが落ち合い場所。『ウィークリー』1001号でも取り上げてもらった企画「ウィーン早稲田学生ジョイントセミナー」はここで誕生。日本の学生とジョイントをしたいと突然頼まれ、私を誘ってきた場所がここ。食べ歩きは趣味だが、「アフリカ」とは。

 ウィーンには日本料理店はわんさとある。この地との私のつきあいを知ってかウィーン料理でもなく、つまりヨーロッパでもアジアでもない第三の場で相談したいということだった。料理も良かったが、打ち合わせ以上に互いの世間話のほうが面白かった。気が付くと深夜零時過ぎ。店を出て12月の寒空を見上げ、さてタクシーをと思いきや、親切にも「途中まで乗せて行ってあげましょう」と今夜のお相手。車はどこかと見回すと、なんと自転車! 「私が運転しましょう」、そしてつい「男だから」と無粋な一言も。

 「いえ、これ私の自転車ですから」と返され、コートにネクタイ背広姿眼鏡の中年日本人の私、ひとまわり若い同僚の自転車荷台に載せられ真夜中のツーリング。家に戻ったのは午前1時半。そして翌朝。
 妻 「昨日は遅かったみたいだけど、タクシーあったの?」
 私 「いや、彼女が送ってくれたんだよ」
 妻 「車で?」
 私 「いや、うーん、自転車で…」(以下、略)

 家庭安寧。行動力抜群の若い同僚をわが家に招待。趣味の手料理の実技講習。家族ぐるみのつきあいも密になり、6月無事「ジョイントセミナー」は大成功。来年は早稲田からウィーン大学に行く予定。「グローカル・ユニバーシティ」実現はこんな楽しい友達発見から。顔の見える手作りのつきあい、自弁と工夫が基本。参加希望、ご興味の学生さんは、http://www5f.biglobe.ne.jp/~vienna/まで。

 次回は理工学部の江田勝哉先生にお願い。

(2003年12月4日掲載)



メキシコ・シネ・ライフ

映画館でなく、シンポジウム会場にて
映画館でなく、シンポジウム会場にて
社会科学部教授    畑 惠子

 もともと映画好きだが、監督、俳優についての知識はほとんどない。おもしろそうだと思うと出かける、そんな映画ファンである。

 現在、メキシコシティで在外研究期間を過ごしている。こちらの大学の友人には映画マニアが多く、昼食時は映画談義でもりあがる。しかも自宅の近くに気に入った映画館が3つもある。うち1つはシネテカ・ナシオナル。資料収集・保存を目的とするフィルムセンターだが、各国の社会派作品が上映される。こちらでは1つの映画館に6つぐらいの上映室があり、常時、異なった映画がかかっているので、選択肢が多い。日本ではほとんど上映されないラテンアメリカ諸国の作品が見られるのも魅力だ。米国映画の封切りも日本よりずっと早い。しかも安い。これで映画の誘惑に抗するのは無理というもの!

 大学でも各研究センターや学生シネクラブ主催の上映会がよくある。1920年代のソ連無声映画連続上映では、人影まばらな会場に執拗に通い続け、周りは呆れ顔だった。

 ただし問題は言語。スペイン語圏の映画の場合、当然のことながら字幕が出ない。同じスペイン語でもアルゼンチン、キューバ、スペインの映画などでは同じスペイン語とは思えない。周りの観客が大笑いしても私だけ沈黙。かなり悔しい。その他の言語にはスペイン語の字幕がつくが、映像を見ながらこれを理解するのも結構難しい。気がつくと、ひたすら文字だけを追っている。だが日本で映画を観るのとはちがう楽しみもある。

 メキシコの観客は素直に反応する。チリ軍政下の人権侵害責任を追及した映画「ピノチェト裁判」では、メキシコで1968年、71年に起きた学生弾圧事件と重ね合わせたチリの人々への想いが感じられた。1936年制作のメキシコ版ミュージカル「ランチョ・グランデ」では鼻唄混じりで大喜び。両者とも終了と同時に大きな拍手が湧き起こった。帰り際にいきなり感想を求められたこともある。メキシコ社会ウォッチングも兼ねて、これからも映画館に足を運ぶことになりそうだ。

 次は文学部の森元孝先生にお願いします。

(2003年11月27日掲載)



海外旅行の楽しみ

アルザスの町コールマールにて
アルザスの町コールマールにて
人間科学部教授   植村 尚史

 「貴方の趣味は何ですか?」と尋ねられると返答に困る。無趣味の仕事一筋という訳でもないのだが、飽きっぽい性格なのか、何をやっても長続きしない。学生時代は写真をやっていたが、いつの間にか夏に撮ったフィルムが冬になってもカメラの中に残っているようになってしまった。つきあいでゴルフも始めたが、球がまっすぐに飛んでくれない。「根性が曲がっているとダメですよ!」と言われてやめてしまった。人がやらないころにパソコンをはじめて、これを趣味にしようかとも思ったが、仕事でみんなが使うようになるとつまらなくなり、すぐに普通のおじさんと同レベルになってしまった。

 そんな中で、10年以上続いてきたのが家内との海外旅行である。時間と予算の制約があって、せいぜい年に1〜2回程度しか実行できないが、それでもいつの間にか20回を超えた。はじめは、手軽に団体パック旅行で出かけていたが、だんだん人のあまり行かないところに行きたくなってきて、気のあった人たちと個人手配で行くようになった。

 夏にヨーロッパを旅したが、大きなリュックを担いだ日本人の若者をよく見かけた。たどり着いたところで宿を探すという気ままな旅が多いようだ。フランスのロンシャンという、列車が1日に2本しかない辺鄙な村に、ル・コルビジェが設計した教会がある。そこで、1人の日本人の若者に出会った。建築を学ぶ学生で、ヨーロッパ建築巡礼の旅をしているのだという。早朝の列車で来て、夕刻の列車の時刻まで教会と向かい合っているつもりだと言っていた。時とともに刻々と変わる光の動きが、設計者が表現しようとしたものをより鮮明にしてくれる。書物では得ることのできない貴重な経験が得られることだろう。

 私たちの学生時代は海外旅行など夢のまた夢であった。時代と若さが羨ましい。海外旅行は、現地の人たちと触れあう楽しみもあるが、日本の若者を見直す機会にもなる。

 次回は、社会科学部の畑惠子先生のメキシコからの便りが届く。

(2003年11月20日掲載)



海外で働いてみて 〜その醍醐味〜

デンマーク、ネストベズ市で幹部の方と打ち合わせ
デンマーク、ネストベズ市で幹部の方と打ち合わせ
人間科学部助教授  可部 明克

 趣味・特技ではないが、約20年企業にいた関係で、海外で学び働いた期間が長いため、そのこぼれ話をしてみたい。

 私が社会人6年目の時に、なんとかアメリカの大学院に留学できる幸運に恵まれ、不安もある中で1987年に日本を飛び立った。

 サンフランシスコ空港に着き、既に留学中の友人と暫く日本語で歓談した後、アメリカ国内線に乗り換えようと搭乗手続きへ向かった。そしてふと周りを見回すと、当然だが外国人ばかり!思わず足がすくんでしまった。この時の「どうしよう」との思いは、今でも忘れられない。

 なんとか勇気を振り絞ってカウンターへ行くと、意外と空港職員の方が「外国人」の扱いに慣れていて、スムーズに手続きをしてくれた。それから、アパートを借り、入学手続きを進めていくうちに、いかに外国人を受け入れるシステムが整っているか、感心させられた。そして1年半後、修士を取得して、充実感と共に家族と日本に帰国することができた。

 それからというもの、外国人と働くことが面白くなり、海外とのプロジェクトを数多く担当させてもらい、ヨーロッパで4年半勤務する幸運にも恵まれた。

 また今年9月に早速欧州に出張し、デンマークのネストベズ市で、介護・福祉用ロボット/IT機器の打ち合わせをして、世界市場で使って頂けるよう研究開発に着手している(写真)。

 今思うのは、「ブロークンイングリッシュと、伝えたい気持ちで十分通じる」、「世界中どこでも、仕事の基本は同じ」、「生活を楽しむことが皆すごく上手」等、いろいろなことを教わったな、ということだ。

 こうしたことを少しでも皆さんに伝えたいし、皆さんもどんどん世界の人と接して、醍醐味を味わってほしいと心から願っている。

そして緑豊かな所沢キャンパスに、ヨーロッパ風のオープンテラスのカフェを作り、各国の人と働きながらカフェで一服するのが夢だ。

 次回は、人間科学部教授の植村尚史先生にご登場願います。

(2003年11月13日掲載)



音楽と走ること ―姉に感謝して―

研究室にて
研究室にて
人間科学部教授   今泉 和彦

 学生時代のある日のこと、自宅に戻ると上の姉が感涙に咽いでいた。恐る恐る「何故か?」と聞いてみた。この曲を聴け、と言って姉は部屋を出て行った。J・S・バッハのカンタータであった。美しいソプラノであったが、涙することはなかった。

 その頃、私は走ることと将来の生き方を模索していて視野が大変狭く、バッハどころではなかったかもしれない。その後も、音楽の感受性は全く高まらなかったが、この体験によって人生の中で何かに深く感動し、趣味が生き方・考え方にも大きく影響することを考えるようになった。

 「そうだ! 行きたい場所に行って走ってみよう!」

 その後、東京を離れた。これからの進路が決まり、分子生理学を専攻するために大学院生として大阪に移った。箕面、奈良、藤井寺、そして教員となってからは松山、上越に住んだ。

 それぞれの地には名所旧跡そして自然景観の素晴らしいところが無数にあった。走りながらそれらの地を巡り、心から楽しんで過ごした。そして所沢に住んで3年目のいま、四季折々の木々が美しい狭山丘陵や所沢キャンパス界隈の貯水池周辺をときどき走って楽しんでいる。

 このような趣味に近いことができるようになったのは姉の影響が頗る大きい。また、走って歩くことが身体の諸機能にどのように関わっているか、ということを専門(=運動生理学)の一つにしている私にとって、走ることは仕事(=研究)と趣味の一致という大変有難い側面もある。

 因みに、35年前に聴いたバッハの曲は、カンタータ51番・「全地よ、神に向かいて歓呼せよ!」である。トランペットとソプラノをソロとしたコンチェルトを思わせる華麗な楽曲から敬虔なアリアを経て多彩なカンタータで閉じるこの曲はまさに圧巻である。今でもこの曲をカール・リヒター指揮、ミュンヘン・バッハ管弦楽団、マリア・シュターダーのソプラノで聴く。

 人生の中で小さな契機がその後に大きなインパクトを与えることがあることを改めて実感している。

 次回は人間科学部助教授の可部明克さんの登場である。

(2003年11月6日掲載)



ヒトと動物の間


タオ

ノノ
スポーツ科学部教授 彼末 一之

 わが家には二匹のイヌがいる。子供時代動物を飼った経験のない私は最初は接し方がわからず困った。だが実際に身近にしてみると実に面白い。

 最も印象的なのは動物にも感情があること。怒ったり甘えたりはもとより、かなり高級な感情も持っている(にちがいない)。たとえば「嫉妬」。私が一匹と遊んでいるともう一匹が必ず割って入ってくる。特に序列の高い方は本気でもう一匹に噛みつきにかかる。もっといやらしいのは、気に入らずに残したものでも、もう一匹が取ろうとするとあわてて食べてしまうこと。生き物が行うことの99%は生存に有利にはたらく機能的な意味を持っている。ヒトの心にもある「他人がよい目にあうのは面白くない」、「他人の不幸は蜜の味」といった感情にはいったいどんな機能的意味があるのだろうか? もっともイヌたちの行動は刺激に対する「自動的」な反応で、ヒトの感情とは別だとの議論がある。しかしわれわれの感情とて自動的である。私はパトカーを見ると自動的に「ムカッ」とする。

 彼らを見れば見るほどヒトと動物の境界はあいまいになってくる。言葉? 彼らは寝ていても、ヒトの会話の中に自分の名前がはさまれるとムクッと起きあがり、「何?」という顔をする。「さんぽ」、「ごはん」なども決して状況から察するのではなく、単語として理解している。また彼らは言葉を発することもできる。イヌの言葉の翻訳器など難しいことはない。私でも「ワンワン(朝だ、散歩の時間だ)」、「ワンワン(めしをくれ)」、「ワンワン(遊べ)」、「ワンワン(ここはおれの領地だ:他のイヌに向かって)」など難なく分かる。いくら言葉を費やしても結局通じ合えない人間の方が余程難しい。

 私はこの4月に大阪からやってきた。彼らが躾のよい関東のイヌ達に向かって吠えている様は大阪弁の人間が声高に話すのとよく似ている。

 彼らのおかげで退屈しない毎日だが、残念なのは寿命がわれわれよりずっと短いこと。もっとも彼らにすれば、「そんなに長生きしてどないするン」ということか。

 次回は人間科学部の今泉和彦先生にバトンタッチいたします。

(2003年10月30日掲載)



ワセダ4代、「健康・福祉・医療」のマネジメント、特技は?

2002年8月、ワールドシリーズで世界5位
2002年8月、ワールドシリーズで世界5位。第11回早稲田大学アメリカ遠征団団長兼監督として参加
人間科学部教授    吉村 正

 「特技は?」と質問を受ければ直ちに「ソフトボール」と返答したい。私は、昭和50年4月、「ソフトボール」の担当教員として、当時の体育局で採用された。それは、昭和40年4月に早稲田大学ソフトボール同好会(現在のソフトボール部)を創設、主将で投手で主軸打者であったこと、更には、アメリカの上級リーグで、昭和45年度の打点王、本塁打王、打率3割7分9厘、オールスター選出、誠実特別賞の受賞。昭和46年度の最優秀選手、打率4割2分9厘、オールスター選出、そして、同年、アメリカのオールスター選手の一員として帰国、日本代表チーム相手に打率6割などの実績が評価されたからだと考えられる。

 昭和62年、人間科学部が創設されるまで、私にとっての「ソフトボール」は、単に特技ではなく、専門そのものであった。それが12年間続き、その間、関連著書も30冊を超えた。

 人間科学部では、16年間、人間健康科学科に属し、昨年9月まで、4年間同学科の主任を務めた。今年の4月からは三たび主任として、早稲田大学の他学部にない「健康・福祉・医療」をキーワードにして新設された健康福祉科学科のまとめ役として全力投球中である。

 特技の「ソフトボール」では、部の男子部・女子部の総監督を務め、インカレやアメリカ遠征(過去11回遠征)に団長兼監督として参加している。今年の3月に法学部を卒業した女子部エースの吉村有紀子は長女である。まったくやりにくい4年間であった。でもそのソフトボール父子を、私の父半なかば(昭5商卒)は京都の実家から、祖父の貞三(明43商科卒)は天国から、応援していたと思っている。

 親子4代ワセダマンを常に誇りに思い、これまでワセダマンがあまり手掛けなかった分野、学問では、「健康・福祉・医療」を、そして、余暇では、「ソフトボール」を徹底的にやってみようと思っている。ワセダマンは「反骨の精神」と「進取の精神」を忘れてはならないと思っているからである。

 次回は、今年の3月まで大阪大学教授であったスポーツ科学部の彼末一之先生(医学博士・工学博士)にお願いした。お楽しみに。

(2003年10月23日掲載)



虫屋の魂百まで

マウイ島のジャングルで研究材料のショウジョウバエ・ハワイ固有種を採集する筆者
マウイ島のジャングルで研究材料のショウジョウバエ・ハワイ固有種を採集する筆者(左)。右はハワイ大学の Ken Kaneshiro 教授(兵庫医大・中野芳朗博士撮影)
理工学部教授    山元 大輔

 変人の私のことだ、このコラムに書くにネタには事欠かないだろうということで青柳肇先生からお鉢が回ってきたが、変人なら多趣味、というそんな定式化が成り立つはずがない。私に自慢できることがあるとしたら、それは唯一、「虫マニア」だということしかない。それも一旦は足を洗った身。マニヤック度では到底かなわない人たちが本学内にも実はたくさんおいでのはずだ。そんな人たちをカミングアウトさせて虫の最新情報を白状させ、そのデータをいただいて「ふっふっ、これで○×ムシはオレのもの」とほくそ笑むのが、本稿を書く本当の目的である。

 御多分にもれず最初は蝶を追い掛ける「蝶屋」だったが、高校で出会ったクレージーな蛾屋の後輩に煽られ、「ヤガ」の分類学者を目指して農学部へ。好きなことでメシを食えたらというので生物学者になって早30年。

 さすがに網をふることはなくなり、研究室で暗〜く解剖したり遺伝子を壊したり人為的に入れ込んだりという生活を経て、いつしか事務屋になりきっていたある日のこと。信州大学で講義をする話が舞い込んだ。

「ん、信州?」(私)
「中央道なら2時間ですよ」(信大S教授)
という一言が、思えば私の運命を変える一撃だったのだ(何を大袈裟な!)

 折しも山野は新緑に輝く初夏の勢いをここぞとばかりに発散し、車窓からはすがすがしい空気とともに、陽の光をさんさんと受けてきらめく蝶の姿が飛び込んできた。

 ああ、たまらん。きっとこの川の源頭部には今ちょうどクモマツマキチョウ(本邦に生息する高山蝶のうちの一種)が発生している頃だぞ。何をしているんだ、お前は。早く!!

 という内なる悪魔の声にそそのかされ、気が付けば延々と続く林道を独り黙々と登るオヤジの姿がそこにはあった…ってなわけで、再び虫の世界に戻ってきてしまったのだった。そんな折、不思議な電話が。

「Kですが。35年前、一緒に虫とり行った…」
世の中、これだから面白い。

 次は人間科学部の吉村正先生です。

(2003年10月16日掲載)



ロスアンジェルスマラソン完走記

1994年12月に行われた10qのクリスマスランの時のもの
1994年12月に行われた10qのクリスマスランの時のもの
人間科学部教授    青柳 肇

 少し古い話になるが、1994年3月26日から1年間、在外研究でUCLAに行った。単身赴任だったこともあり、健康には気を配った。ロスアンジェルス(LA)に着いて1カ月過ぎに、専門は異なるが同じ訪問学者の2人の日本人と知り合いになった。その1人が週に2〜3回UCLAの周囲をジョギングしていた。やりませんかと誘われ、週2度くらいなら健康のためにやってみようという気になり、夕方一緒に走ることにした。

 大学の周囲は約7km(車での計測)あり、アップダウンもあって50歳を過ぎていた私にはきついものがあった。疲れすぎると夜に眠れないことを初めて知った。しかし、だんだん慣れてきて、最初は50分以上かかったのが最も早い時で35分くらいで走れるようになった。こうなると走るのが喜びになった。1人はLAを離れたが、私より20歳若い精神医学者と週2度は走りつづけた。

 暮れにはクリスマスランという大会があり参加した。海沿いの10kmの道を走るのである。所要時間は1時間弱であった。フルはこの4倍の距離かと思った私は、帰国の月である翌年3月予定のLAマラソンに無謀にも参加しようと決めた。

 3月5日その日はきた。その時期めったに雨が降らないLAは、珍しく一日中降り続けた。晴れて日差しが強いより消耗しなくていいかと思った。精神医学者とは途中ではぐれてしまった。応援が市ぐるみであり、食物や飲み物を差し入れてくれた人や応援の人もたくさんいて何より嬉しかった。知っている通りや町並みを走っているとほっとした。1年もいたのに、知らない道を走りすぎ、こんな所もあったのかと思ったりもした。この町で1年間、研究し、生活したのだとしみじみ思いながら、一歩ずつLAの大地を味わうように走った。5時間近くもかけて完走した。ゴールでメダルを掛けてもらった時、年甲斐もなくジーンと迫るものがあった。その日から約3週間は膝や股関節に痛みが残ったが、さわやかな痛みであった。

 このマラソン話のたすきは、理工学部の山元大輔先生に渡すことにします。

(2003年10月9日掲載)



1枚の写真

1枚の写真
語学教育研究所教授 諸星 和夫

 背景にネヴァ川が見える。朝からの雨が上がり、私たちは、その日、初めてバスの外へ出たところだった。インスタント・カメラの気安さで、日付が打たれている。1991年8月12日。私はなぜかそれまで1度もソ連を訪れたことがなかった。

 とはいえ、チャンスが1度だけあった。ポーランドに留学中だった1981年の夏のことである。最初に迎えたその前年の夏は、イタリアに出かけてしまったので無理だった。ヨーロッパに足を踏み入れたからには、何をおいてもイタリアだけは見ておきたかったのである。

 イタリアに向かう途上で、プラハに立ち寄った折、妙な噂を耳にした。ポーランドのグダニスクでストライキが進行中だという。ポーランドに住んでいながら、初めて聞く話だった。ウィーンを抜け、スイスに入り、ナポリに着いた時には、いよいよ事がはっきりしてきた。サンタルチアの海岸通りの電信柱にすら、グダニスクのストライキを伝える号外がでかでかと張り出されていたのである。気になり始めると際限がない。行く先々でポーランド人に出会った。あの人もポーランド人ですよと言っている声までが耳に入ってくる。

 ポーランドの事件は、翌年の夏にソ連を訪れたいという私の前々からの計画を無残にも打ち砕いた。留学2年目の夏を迎えるかなり以前から、ソ連はポーランドからの入国者を拒否する態度を固めていたのである。

 写真の中の私は、あるいは、さきほど目に留めたエリセーエフ商会の建物に、ロシアに来たことの実感を噛み締めているところなのかも知れない。ネフスキイ通りはまだその時は雨に煙っていた。大小の運河があちこちで橋の下を横切って流れ、その上を地味な服装の人々が、ちょっとうつむき加減に、小走りに歩いていた様子が今も記憶の底に淀んでいる。それは何かにあまりにも酷似していた。

 歴史はまれに短編小説を読むような速度で展開することがある。この時がそうだった。それから1週間もたたないうちにあの思いがけない事件が起こり、この世界で最初の社会主義国は、その年のうちにあっけなく瓦解してしまったのである。

 ロシア語を学び始めてから早くも20年の歳月が流れていた。

 次回は人間科学部の青柳肇先生に繋ぎます。

(2003年10月2日掲載)