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2003年度前期分 目次


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『歴史の中の化合物 ―くすりと医療の歩みをたどる―』
 山崎 幹夫 著 東京化学同人 1996年6月発行 価格本体1400円+税

<評者>
細川 誠二郎
理工学部専任講師
(ほそかわ・せいじろう)
1968年生まれ 
2003年4月嘱任 
担当科目:有機合成化学A
見えないものを巡る努力と闘争

 われわれの健康と安全を考えるとき、薬の存在が大前提となる。近代医学の発展は、薬の発見・開発の賜物と言ってもいい。しかしこの薬に含まれる有効成分は、一体どうやって見つけられたのだろう。

 1つの生理現象をつきとめようとする研究者の執念たるやすさまじいものがある。1つの化合物を追い求めて、何年もの時間と多大な労力を注いでゆくのである。時としてそれは、ライバル同士の熾烈な争いに発展する。

 この本ではニトログリセリンに始まって、ビタミン、ホルモン、インスリン、マスタードガス、フグ毒、モルヒネ、DNA等、医学の新しい分野を開くことになった化合物とそれを取り巻く人たち、特に研究者の人間模様が描かれている。それぞれの物語がオムニバス形式で書かれていて、短編のドキュメントとしてどこからでも読める。競争に勝った人と負けた人、評価された人とされなかった人、それぞれが影響し合い成果を出し合って、今われわれが享受している現代の科学ができ上がったことがよく理解できるであろう。特に決定的な進歩に関わった人には、偶然の出来事から問題解決の糸口をつかむ論理的思考と発想を持っており、理系的な考え方を身に付ける上でおおいに参考になる。またこのような好機は、仕事に対する真摯な態度と努力の継続があってこそ初めて訪れるということも実感できるだろう。

 数百年前、ヒトはこの世が水と火と空気と土でできていると考えていた。それが今やポストゲノム、ネット社会である。人間は見えないものを随分征服してきた。自分を含めた人間というものの可能性を垣間見る機会があっても良いだろう。

(2003年7月24日掲載)

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『にっぽん虫の眼紀行 ―中国人青年が見た「日本の心」』 毛 丹青(マオ・タンチン) 著
文芸春秋 2001年11月発行 価格本体543円+税

<評者> 内山 精也
教育学部助教授
(うちやま・せいや)
1961年生まれ 
1999年4月嘱任 
担当科目:異文化交流接触論、中国文学演習
等身大の日中交流のために

 SARSの猛威にいささか水を差された感じだが、日中両国の交流は近年、日ごとに重要性を増している。こういう中、同世代の中国人と腹を割った交流をしたいと願っている学生諸君も、きっと多くいるに違いない。だが、いざ行動という前に、「戦争の記憶」をめぐる、彼らの日本人に対するネガティブ・イメージを想起して、尻込みしてしまう人も少なくないのではないだろうか。

 「歴史認識」をめぐる日中間の感情的な論争は今なお収まっていない。その種の記事に触れたことのある人の中には、両国の埋めがたい溝を痛感して、日中交流の将来を悲観する向きもいることであろう。だが、そういう行き違いがしばしばジャーナリスティックに採り上げられる一方で、まだそれほど目立ってはいないけれど、地に足のついた、草の根的な心と心のふれあいも確実に増してきている。

 ここに推薦する『にっぽん虫の眼紀行』は、――そういう容易には越えがたい溝を、自ら進んで跳び越え、現代の日本と日本人を努めてニュートラルに理解しようと試みた――若き中国知識人による心の記録である。

 実際の交流を前に逡巡している学生諸君に、この本をぜひ繙いてもらいたい。著者の日本に対する真摯でやさしい眼差しが、きっと諸君を勇気づけることであろう。

 さらに本格的に日中の文化交流を思考してみたい方には、孫歌『アジアを語ることのジレンマ――知の共同空間を求めて』(2002年6月、岩波書店)をお薦めする。

(2003年7月17日掲載)

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『渡部昇一の昭和史』 渡部 昇一 著
 ワック 2003年5月発行 価格本体880円
 ※本書は1995年5月にクレスト社から出版された『かくて昭和史は甦る』を改訂・改題したもの。

<評者>熊谷 善彰
教育学部専任講師
(くまがい・よしあき)
1968年生まれ 
2003年4月嘱任 
担当科目:金融論など
昭和史を日本の立場から

 「昭和」と聞くとどんな情景を思い浮かべるだろうか。動きのぎこちない白黒画像に朗々としたナレーションのニュース映画だろうか。あるいは旧かなづかいや右書きの看板だろうか。見るからに体に悪そうな、しかし妙に懐かしい駄菓子だろうか。自分が子供の頃に体験したことではなくても懐かしい感じがするのはなぜだろう。今から50年ほど前の昭和30年頃の日本の食生活が健康のためには理想的だということも聞く。食生活が急激に洋風化したのはその後のことだ。既に「昭和」よりも「平成」を長く生きている皆さんにとって、さらにさかのぼって大正・明治は想像できるものだろうか。あの「プロジェクトX」に登場するのも明治・大正・昭和を生きた人々だ。現在の豊かな暮らしもこれら皆さんの両親・祖父母を含む先人たちが営々と築き上げたものだ。

 いまや海外と気軽に行き来することができ、国際交流も盛んになったが、あなたは自国の歴史や文化について語ることができるだろうか。英語が話せるかということではなく、話すべき内容があるかということだ。まして明治から昭和にかけては自分たちの祖父母も生きてきた時代だ。

 本書は「明治以来の日本の歴史を日本の立場から見直すこと」を目的に語り下ろされたものだ。なぜわざわざ「日本の立場から」と断るのだろうか。日本人ほど外国からどう見られるかを気にする、いわゆる「日本人論」好きはいないだろう。歴史についても「外国の立場」から見た日本の歴史が主流で「日本の立場」から見たものは少ないのが現状だ。日本の言い分も知ることが歴史について考えるきっかけになればと思う。

(2003年7月10日掲載)

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『中世の窓から』 阿部 謹也 著
朝日新聞社1993年3月発行  価格本体1,700円+税

<評者>
大崎 貞和
アジア太平洋研究科客員助教授
(おおさき・さだかず)
1963年生まれ
2003年4月嘱任
担当科目:証券経済論
甦る中世ヨーロッパの庶民生活

 私が高校生の頃、本書の元になった連載が「朝日新聞」の夕刊に載っていた。第一回から読んでいたわけではないが、童話の世界を思わせる挿絵(かの安野光雅氏の手によるものだったそうである)に誘われ、何度か目を通すうちに、次第に続きが楽しみになっていった。「朝日新聞」は、会社員になり「日経」のお世話になり始めるまで愛読紙だったが、その連載で、私の記憶に残っているのは、『中世の窓から』以外には、漫画の『サザエさん』と『フジ三太郎』だけである。

 本書の内容は、ニュルンベルクにあったという「十二人兄弟の館」と呼ばれる老人ホームに残された入居者たちの肖像画やリヒャルト・シュトラウスの交響詩でも知られる民衆説話集『ティル・オイレンシュピーゲルの退屈しのぎの話』などを手がかりにしながら、一四〜一六世紀のドイツ都市を中心に、中世ヨーロッパにおける市民生活や人間関係について考察するというものである。

 王侯貴族や英雄、偉大な芸術家等の「歴史に名を残す」人々ではなく、職人や放浪者、娼婦といった周縁的な人々にも焦点を当てながら、過去の社会が生き生きと再構成される。「歴史なんて暗記ばかりでつまらない」と思っておられる方も、本書をお読みになれば、遠い国の古い時代に思いを馳せることの楽しさを見いだされるだろう。ヨーロッパ旅行の前に読んでみるというのも、一興かもしれない。

 実は、私の専門分野は、この本とは縁もゆかりもない。したがって、その学問的価値を評価する能力は私にはない。それでも、心を豊かにしてくれる暖かみのある書物として、本書を多くの人に勧めてみたいと思う。

(2003年7月3日掲載)

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『「社会調査」のウソ  ―リサーチ・リテラシーのすすめ―』 谷岡 一郎 著
文藝春秋 2000年6月発行 価格本体690円+税

<評者>
久保 克行
くぼ かつゆき
(商学部専任講師)
1969年生まれ 
2003年4月嘱任 
担当科目:基礎経済学、ミクロ経済学
データのウソにだまされるな 

 日本の所得格差は拡大しているのか。定職につかない若者は中高年に寄生しているのか。こういった、経済・社会に関する議論にはデータによる裏付けが欠かせない。実際、ここにあげたような議論については、良質のデータを用いた厳密な検証がなされてきた。

 しかし、世の中に存在する調査は、このような良質の研究ばかりではない。正しいデータ収集や分析を行わないために間違った結論を導く危険は、常に存在する。さらに危険なのは、分析方法に問題がある可能性を承知した上で、自分の主張に沿った結果だけをみせることであろう。このような「ゴミデータ」にだまされないためにはどうすればよいか。実は、このような調査にだまされない簡単な方法が存在する。本書を読めばよい。新聞・雑誌などに掲載されている調査の多くはゴミである、というのが著者の主張である。この本ではさまざまな調査がどのように間違った結論に到達するか、ということを実在の調査を題材に説明している。本書の題材の多くはアンケートによる社会調査であるが、ここで紹介される議論はアンケート以外のデータを用いた分析にもそのまま適用できるものが多い。たとえば、「見せかけの相関」「逆の因果関係」に関する本書の議論は、レポートや卒論などの論文を書く際には大いに参考になると思う。

 また、本書を読むと、学者の論文を格付けするにはどうしたらいいか、大学の先生はどのように研究費を集めるか、といったこともあわせて理解できる。研究者の世界に興味をもっている人にもお勧めである。ちなみに著者はギャンブル学を専門とし、西原理恵子の漫画にも登場している。

(2003年6月26日掲載)

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『リスク ―神々への反逆―上・下巻』 ピーター・バーンスタイン著・青山 護 訳
日本経済新聞社 2001年8月発行 価格本体上・下巻 各714円+税

<評者>
奥村 雅史
おくむら まさし
(商学部助教授)
1963年生まれ 
2002年10月嘱任 
担当科目:簿記原理、上級簿記、原価計算
リスクと人の知恵

 「リスク」という言葉は、日常の生活においてもしばしば使われている。われわれの生活には「リスク」を感じさせる事象が少なからず存在するからである。それは、現代に限ったことではなく、太古の昔からやはり存在しており、人類はその知恵によって果敢に「リスク」に対処してきた。

 本書は、「リスク」という壮大なテーマに正面から取り組み、丹念に記述している。その特徴は、神のみぞ知る将来に光をあてる「確率」という概念を軸におき、その発展に寄与した多彩な人々およびその功績を歴史的に追っていることにある。著者はリスクに敏感な金融の世界に身を置いており、また、本人が自ら述べるところでは「異常なほどの歴史好き」らしい。それらの背景が、本書の執筆にあたって要したであろう、多大な時間と労力のかかる調査を可能としたと推測される。登場人物の人となりまでにさかのぼった記述やふんだんに盛り込まれたエピソードは、読者に時間の経過を感じさせない魅力を持っている。

 本書はわが国では1998年に刊行され、2001年に文庫版が発行された。また、世界各国で訳書が出版されており、国境を越えて広く受け入れられ、多くの人々に読まれている本である。上下巻、全19章からなる本書は、紀元前から現代にいたる、人類の「リスク」への果敢な挑戦の物語であり、早大生諸君にとって十分な知的刺激となるであろう。さらに、単なる知的刺激を超えて、現代人として必須の「確率思考」をその物語の中で学ぶことも重要であると思う。600頁ほどの大著であり、数学的理解が必要な箇所も散見され、読破するのにはある程度の時間を要するであろうが、チャレンジしてもらいたい本である。

(2003年6月12日掲載)

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『世界の歴史10 ─フランス革命とナポレオン─』  桑原 武夫 編・著
中央公論社 1961年9月発行

<評者>
鶴見 太郎
つるみ たろう
(文学部専任講師)
一九六五年生まれ
二〇〇三年四月嘱任
担当科目:日本文化史
通史の原則破った一冊

 日本史、世界史に限らず通史のシリーズを企画するとき、各巻の対象時期は古代から現代になるにつれて段々短かくなっていく。資料が豊富になっていくこと、叙述すべき事項の多いことを考えれば、これは編集の原則ともいえる。

 しかし例外がないわけではない。中公文庫版『世界の歴史』の第十巻「フランス革命とナポレオン」は、革命前夜のフランス社会の概観にはじまり一八一五年六月、「百日天下」の終了をもって終わるのだから、その範囲はおおむね二十五年程度にすぎない。これは同シリーズ中、最も短い部類に属する。さらに「通史」の原則を曲げるだけの価値が、この巻には詰まっている。

 執筆陣は桑原武夫をはじめ、彼の許で鍛えられた精鋭が並ぶ。いわば共同研究という同じボートを漕いだメンバーが、その蓄積の上に立ってもう一度、本書執筆に向けて再結集したのであり、それだけに縦割りの分担執筆にありがちな、突出を抑えた平板な叙述というものがそもそもない。

 「テルミドール反動」、「ブリュメール十八日」の緊張した政治描写など、それだけでも見事な筆致だが、同時にミシュレから多くを学んだ細かな時代の世相を織り込む手法が、歴史的事件のはざまに巧みに配置され、総体として同時代のうねりが全編をつらぬいている。繰り返して読むに足る一編である。

※絶版になりましたが、本学の図書館で貸し出しています

(2003年6月5日掲載)

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『敗北を抱きしめて』上下巻 ジョン・ダワー 著 三浦 陽一・高杉 忠明 訳
岩波書店2001年3月発行  価格本体2200円+税

<評者>
篠原 初枝
しのはら はつえ
(アジア太平洋研究科助教授)
1959年生まれ
2003年4月嘱任
担当科目:東アジアとアメリカ、国際政治論
戦後日本の出発点

 大学で教え始めて、高校までに現代史、特に戦後の歴史があまり教えられていないことを感じた。憲法はいかなる経緯を経て制定されたのか、アメリカの占領をいかに人々は受け止めたのか、民主主義は上からの与えられたものだったのか。こういった過去を考えることは現在の日本の状況を考える上でも重要であろう。

 ダワー著『敗北を抱きしめて』は、右記のような問いかけに答えてくれるものとなっている。本書は内外で高い評価を既に受けており、この場で取りあげることもないかとも思った。しかし、敗戦後日本の政治的、思想的、文化的な状況を描き出す秀作であることは確かであり、改めて取りあげたい。

 とりわけ本書で興味深いのは、ダワーが探求した「民衆意識」である。ダワーは、敗北・占領という事象を、起きた事実という表面からとらえたのではなく、それを経験した人々の意識や生活に焦点をあて内側から描いており、生き生きとした描写が随所に現れている。たけのこ生活の実態、闇市でどういったものが売られていたのかから、ゼネスト中止指令を人々はどのような表情で聞いたのか、さまざまな戦後の混乱と躍動が伝わってくる。日本人にとっての敗北の内面史ともいえる。

 また「敗北」というタイトルにも考えさせられた。戦後生まれの私は「終戦」という言葉には慣れていたが、敗北というタイトルを目にした時、衝撃を感じた。戦後五十年以上たって、敗北という過去をアメリカ人の歴史家によってつきつけられたような気がしたのである。学問や歴史の研究に国境はないことも示している。

 大著ではあるが読みにくい本ではない。戦後日本、日米関係などに興味がわいたら挑戦してほしい一冊である。

(2003年5月29日掲載)

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『二重らせん』 ジェームス・D・ワトソン著 江上不二夫 中村桂子訳
講談社 1986年3月発行 価格本体467円+税

寺崎 一郎
てらさき いちろう
(理工学部教授)
1963年生まれ
2003年4月嘱任
担当科目:量子力学、電磁気学など
真の科学者に会える本

 ご存じのように、遺伝子の正体はDNAという化学物質である。DNAが二重らせん構造と自己複製能力を持つことを発見したのは、ワトスンとクリックであった。本書は発見者の一人であるワトスンの自伝的「二重らせん」発見物語である。

 この本を読めば、科学の研究がとても人間くさいことがわかる。大事な議論をしようと思ったが酔っぱらって忘れてしまったとか、研究がうまくいかないので(今風にいえば)合コンして過ごしたとか、当時24歳だったワトソンの日常が生き生きと描かれている。彼を取り巻く科学者がまたユニークである。頭脳は抜群だが口数多いのが玉に瑕のクリック、技術は一流だが上司にもデータを見せない「闘う」女性研究者ロージィなど、まるで小説の登場人物のようである。いや、本の後半は小説より迫力がある。

 今回読み直して、改めて感じたことがある。ワトスンもクリックも実にたくさんの研究者と議論をし、それを研究の糧としているのだ。彼らは、ケンブリッジにいる物理学者、化学者、生物学者、はては経済学者、哲学者たちとも気軽に科学論議で盛り上がる。学問の府の面目躍如であろう。

 振り返って日本の大学では、異分野の研究者が気軽に学問を話し合うシーンはほとんど見られない。われわれに本当に必要なのは、教員同士、学生同士、そして教員と学生が、分野を越えて自由に学問の論議をする場とシステムなのだ。この本は、科学とは、研究とは、科学者とは、そして大学とは何かを考えさせてくれる。

(2003年5月22日掲載)



『学ぶこと 思うこと』 加藤 周一 著
岩波書店 2003年1月発行  価格本体480円+税

山田 治徳
やまだ はるのり
(公共経営研究科助教授)
1960年生まれ
2003年4月嘱任、
担当科目:計量行政学ほか
「学ぶこと」に迷ったときに

 大学に入り、それまでの中学校や高校までの授業との差に戸惑っている学生は少なくないと思う。かく言う私もそうだった。テキストに沿って規則正しく与えられる授業に慣れきった身にとって、初めて出会う大学の授業は、何か掴みどころのない浮世離れした空虚なものに思えてならなかった。そうする中で、それまでは何ら抵抗がなかったはずの学ぶことに対して、その無意味さばかりが気になるようになってしまった。

 書名は『論語』の有名な一節、「学びて思わざれば罔(くら)し 思いて学ばざれば殆(あやう)し」から引いたものである。学ぶとはどういうことか、学ぶためには何が必要か、そして学ぶことと思うことの関係など、当たり前のようでいて見落としがちな勉強の神髄を、「言葉」と「座標」をキーワードとしながら、本書は語っている。その内容は、学生のみならず、教える側の立場からみても、あらためて納得させられることが多い。おそらくは社会で生きていくうえでの勉強の意味を思い知ることになるだろう。また、勉強とはこんなに意味深いものであるということを再認識させられるだろう。

 本書はある大学で行われた講演録であり、文章は分かりやすい口語体である。また、価格からも分かるとおり、僅か五十頁あまりの小冊子である。「なぜ勉強をする必要があるのか?」、「学んでいることがどういう意味を持っているのか?」、「勉強なんてしたって社会に出て本当に役に立つのか?」、大学での授業に疑問を抱いている学生諸君にぜひ読んでほしい一冊である。本当に知りたかった、しかし誰も教えてくれなかった疑問に答えてくれる、願わくば評者も学生の頃に出会いたかった一冊である。

(2003年5月15日掲載)

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『青が散る』 宮本 輝 著
文芸春秋社 1985年11月発行  価格本体 590円+税

黒川 哲志
くろかわ さとし
(社会科学部助教授)
1965年生まれ
2003年4月嘱任
担当科目:環境法
大人になったと感じた時に読む。

 将来への不安に押しつぶされそうだった若い頃、私を支えてくれたのは、「大きな心で押しの一手」という『青が散る』の中で繰り返されたフレーズであった。先の見えない状況の中でもおおらかに力強く前進すべきとするこの言葉は、姑息なことを考えずに堂々と自分の持てる力を尽くすこと自体を善とする哲学を宿している。

 『青が散る』は、新設大学のテニス部の第一期生である椎名遼平とその仲間たちの学生生活を描いた青春小説である。遼平たちの夏子への真剣な恋心が、物語の縦糸の一本となっているので、切ない青春の香りも漂っているが、汗まみれのテニスへの情熱、沢山の挫折、そして人の死が、この物語を硬派なものにしている。登場人物たちは、冷静に自分と向い合いながらひたむきに努力し、一定の成果を示しながらも、自分の力の限界をつきつけられ、そして、大人になっていく。遼平たちがインカレへの出場を果たすもテニスエリートとの歴然とした力の差の前に敗退するあたりは、テニスに打ち込んだ学生時代が報われているようでもあるが、現実の厳しさと自己の非力さも突きつけられている。

 遼平は、王道と覇道の区別にもこだわりを持っていて、「大きな心で押しの一手」という王道スタイルを最後まで貫こうとする。夏子との関係にも、それが如実に現れている。このスタイルこそが青春そのものであるが、大抵の者はこの態度を失って大人になる。青春の真っ只中にいる若者には、何が散ってしまったのか分からないかもしれない。私も、二十年ぶりに本書を読み返して、散ったものが何だったのか、はじめて実感できたのであった。

(2003年5月8日掲載)

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なにもない空間    ピーター・ブルック 著、高橋康也・喜志哲雄 訳
晶文社 1971年1月発行 価格本体 1,600円+税

<評者>
八木 斉子
やぎ  なおこ
(政治経済学部助教授)一九六五年生まれ
二〇〇一年四月嘱任
担当分野:英語
専攻分野:英現代演劇
現代演劇への入門書

 ロンドンの「ナショナル・シアター」に来た人々は、開演までの時間、食事をしたり、ワインなどを飲んだり、ロビー隅の書店に入ったりする。開演直前まで書店から出てこない連中もいる。毎晩集まる「あらゆる客層」(なのかどうかは、よく議論されるが)のそれぞれを満足させるべく、この書店は、台本、劇場写真集、劇作家・役者伝、作品分析・理論書、演技の指導書、高校で演劇科目をとる生徒向けの指南書などを扱う。『なにもない空間』(The Empty Space)が世に出たのは三十五年前だが、今もこの店で必ず見つかる。演劇の定義付けを試みる本書の特徴は、一冊で「あらゆる客層」受けする点にあるのだ。

 ペーパーバックで普及している原書は、厚くもなく、文章が一見親しみやすい。著者である演出家ブルックの名はイギリスにおける常識だ。この本の冒頭を、東西の演劇人たちは頻繁に引用した―「がらんとした空間は、どこにあろうと、むきだしの舞台だ。誰かがそんな空間の端から端までを歩く。この誰かを別の誰かが見ている。たったそれだけで、もう演劇は始動するのだ」(翻訳評者)。場所を確保して、そこで何かを人に見せさえすれば、たちまち演劇の女神たちは微笑む、とブルックは言いたいのか。もちろん、そうではない。本書において彼は、さまざまな種類の演劇を成功例あるいは失敗例として紹介し、演劇の「公式」なるものにたどり着き、大切なひとことを最後に加える。独自の一貫性がはっきり見える本だ。

 芸術に少しでも関わろうとする人間は、良質のたたき台を知るべきだ。早稲田に入学し演劇という二文字が気になり始めた、という人がいたら、この本を現代演劇への古典的入門書として薦めたい。

(2003年4月24日掲載)

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ダンシングライフ   三上 晶代 著
文芸社 2001年6月発行  価格本体1,300円+税

岡田 純一
おかだ じゅんいち
(スポーツ科学部助教授)
1968年生まれ
1995年4月嘱任
専門分野:ストレングス&コンディショニング(トレーニング科学)
担当科目: スポーツ方法実習(レジスタンストレーニング)
永遠の希望

 著者は椎間板ヘルニアの治療中に下半身が麻痺し、車いす生活となる。病院側は本人の精神的なものが原因として、麻酔注射による医療過誤であることを認めようとはしなかった。医師に対する不信感を募らせながらも、ようやく信頼できる医師と巡り会い、車の運転や「車いすダンス」を始める。「車いすだって何だってできる」という希望を取り戻してきた。しかし、長野パラリンピックの開会式に車いすダンスチームの一員として参加した彼女に過酷な運命が待っていた。八時間もの間、寒さの中で待たされることになり体調を崩してしまう。「低酸素脳症」。さらなるアクシデントが彼女を襲った。言語障害、そして上半身にも麻痺が及んでしまった…(著者は私の同級生の妹である)。

 文中では周りの優しさや対応によって刻々と変化する彼女の心の内が詳細に描かれている。相手の何気ない言葉に傷ついたり、ちょっとした一言で癒されたり。また、自分の気持ちをうまく表現できずに相手を傷つける言い方をしたりしてしまう。度重なるアクシデントにともない医療関係者や家族との関わりのなかで彼女の複雑な胸中が語られているが、互いの優しさ、相手の気持ちを理解する大切さに気付かされる。

 「十回やっても十回ともだめかもしれない。だけど百回やったら百回目でなにかが動くかもしれない」。希望と絶望の繰り返しに挫けそうになりながら、何度も立ち上がってきた彼女自身を支えた言葉である。自身が頑張ることで周囲も優しく支えてくれる。「諦めない」というよりも、「この先に何かがあるかも知れない」と期待感を持つことが大事なのだろう。

(2003年4月17日掲載)

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『話すための中国語 ―北京七泊八日の旅―』 相原 茂 著
PHP研究所 2002年7月発行 価格本体 700円+税

杉田 泰史
すぎた やすし
(法学部助教授)
1963年生まれ
1999年4月嘱任
専門分野:古典中国語文法・言語類型論
「初級以後」の中国語への誘い

 NHKの中国語会話でもおなじみの著者による中国語会話入門書。大学生2人による北京旅行の体験記の形で中国語の文法の論理や生活習慣に見る中国人のメンタリティー、日本人との違いなどを紹介する。他にもビザの取り方や急激に変貌する中国社会の過去と現在など、現地に行けばすぐ役立つ表現と情報が読めるだけでなく、現代の日本についての考えさせられる考察に触れることが出来る。

 随所に登場する中国語のせりふや単語には振り仮名がなく、中国式の字体の漢字とピンインと呼ばれるローマ字表記のみである(これがまたいい)。学習2年目以後の人向けだが、中国語を学んだことがない人にも読んでほしい。ただし、後者の人の場合は中国語の部分は斜め読みして読み終え、この言語に興味がわいてきたらピンインからしっかり学んでほしい。副読本として同じ著者による『はじめての中国語』(講談社現代新書)を読むのもいいだろう。

 大学で中国語を選択する人の中には「他の外国語より簡単そうだから」という消極的な動機を持つ人が一定数いる。これは中国語に対する大きな誤解に基づいている。この誤解は初級の学習人口と挫折組を徒に増やす。挫折組には知るべくもないことだが、中国語は日本語と全く違った発想を持つまぎれもない「外国語」であり、だからこそ積極的な動機を持って学ぶに足る魅力がある。それは発音と声調をしっかり習得し、初級の文法を一通り済ませてはじめて体験できるのだ。

 そこまでは行っていなくても、ピンインが読めて辞書が引けるようになった人には、この本で中国語世界の面白さをぜひ垣間見てほしい。中国に留学や旅行に行き、自分の眼で中国を体験する人が1人でも増えることを願ってやまない。

(2003年4月10日掲載)

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